紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

ラストイヤーをもう一度

イギリスに戻ってきて、1週間が過ぎた。去年と同じ寮の建物の違う部屋に住んで、相変わらずカレッジを中心に生活を送っている。指導教員とも年度初めの顔合わせをして、今年度の計画を確認した。1月からはフィールドワークが待っているので、色々と準備をしなければならず、その合間に投稿論文を書いたりもしないといけないから、なかなか忙しくなりそうだ。

さて、年度初めといえば、去年も書いていたように、カレッジや学部に新しい人が大量に入ってきて、一斉に新しい知り合いを作る時期である。去年は誰も現地に知り合いがいなかったわけで、生活に慣れるのも大変だったし、友達を作らないとということで毎日ほとんどのカレッジのソーシャルイベントに顔を出して、おそらく100人単位の人に自己紹介して、What do you study? Where are you from? How do you like Oxford? という同じような話を何百回もして、その中から仲良くできそうな人と仲良くなっていった。こういう書き方をするとうんざりするようだが、毎日カレッジで新しい人に出会うオックスフォードの生活はものすごく刺激的で、このブログにも興奮気味に書き綴っていたはずだ。

今年も当然、去年と同じくらいの人数の人たちが入ってきたわけだが、去年と比べると自分がソーシャライズする度合いは下がっている。MSc(1年間の修士のプログラム)の人がごっそり抜けたとはいえ、やはり既に一定数の友人がこちらにいるというのがまずあるし、また、自分はすぐフィールドワークに行ってしまうのに、どのみちたった1年でいなくなってしまうMScの人と仲良くなってもなあ…という若干の無常感もある。MPhil(2年間の修士)やDPhilの人なら、来年もまた会えるから良いのだけど。昔違うブログをやっていたときに、友達を作ることで得られる限界効用は逓減する、みたいな趣旨のことを書いた覚えがあるので、またそのうち引っ張り出してきてここに再掲しようかと思う。まあ、とはいっても、新しい人と会うのはやはり楽しいので、ちょこちょこイベントには顔を出している。また、去年もいた人に再会すると安心する。そんな感じの毎日である。

「栄養バランスの先送り」はいつまで可能か?

20代も半分を過ぎると、体質というのは変わるものだ。大学卒業くらいまでは、クアラ・ルンプールを「クアラルン・プール」だと信じていたのと同じくらいの強さで、自分は何をいくら食べても太らないと思い込んでいた。しかしここ1・2年くらいで、高校時代から変わらなかった体重が漸増を始め、YAだったスーツのサイズがAへと一歩後退(あるいは前進)したことで、世の中に永遠などというものは存在しないという真理を身をもって実感することになった。まあ、もっともそれは悪いことだけではなくて、太るようになったのと同時に筋肉が付きやすくなったように感じるし、長年「大きい」ではなく「長い」と言われてきた体型が少し標準に近づいたのはむしろ良いことでもある。物事は多面的に見なければいけないのである。わかったかね。

さて、何をいくら食べても影響が出なかった(と少なくとも認識していた)時代が終わったとなると、食生活をよりきちんと考える必要がある。毎日フィッシュ・アンド・チップスばかり食っていると、じゃがいもみたいな体型になってしまうわけだ。ポテトを食べていれば「野菜」を摂取していることになり、従って栄養バランスを保つことができると固く信じている一部のイギリス人の認識を今更変えることは難しいが、少なくともそうした認識を共有していない私は、緑黄色野菜を日々の生活で一定量摂取することを意識するわけである。にんじん、ピーマン、キャベツ、抹茶パフェ、パインアメ、マンゴープリン。

とはいっても、まだ一応理論的には「若者」であるところの私は、時にはジャンクフードを食べたくなることもあるし、カレッジの食堂の野菜を使ったメニューにいまいち気を引かれないときもある。そうした時には、「次の食事で野菜を多めに食べよう」とか、「明日は野菜中心にしよう」などと考えて、自分を許すことになる。言うなれば「栄養バランスの先送り」である。

そこで疑問が生じる。この栄養バランスの先送り、いつまでなら大丈夫なのだろう。一食くらいならば問題なさそうだということは私でも分かる。ランチで野菜を摂取しなかったから、ディナーでは野菜を多めに食べようというのは誰しもやっていることだろう。では、一日ではどうだろう。今日は焼き肉に行くからあまり野菜は食べないだろうけど、その分明日食べようというやつ。これも直感的にはOKに思える。それでは2日は?3日は?1週間は?と、「栄養バランスの先送り」の限界値を求めたくなるわけである。極端な話、不惑を迎えた人が、「俺の前半生は、野菜ばかり食わされてきた。もう一生分の野菜は食ったから、これからの半生は、肉と魚しか食わない」と宣言したらどうなのだろう。いや宣言してもそれ自体は勝手にしてくれという話だが、彼の身には何が起こるのだろう、ということだ。詳しい人にぜひ教えて頂きたい。

などということを考えていたら、もうイギリスに戻る3日前になっていた。「荷造りの先送り」ができるのも、あと2日である。

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極めてバランスのとれた食事の一例

海外院生が応募できる国内研究助成リスト

研究にはお金が必要である。実験器具とか設備を揃えなければいけない自然科学系の人たちはもちろん、社会科学にも実験をする人はいるし、フィールドワークをする人もいる。また研究を国内外の学会で発表する際には、その交通費旅費なども必要だ。近年は論文はほとんど大学の図書館からオンラインでアクセスできるにしても、本や資料は買わなければいけないことも多い。

しかし博士課程の院生というのは、教員と同じような水準の研究をすることを求められる割に、金銭的には劣位にあるというか、学振を受給している場合を除いて科研費にも応募できないし、民間の研究助成も対象外である場合も多い。

海外大学に所属している院生の場合は、それに加えて、日本に居住していない、あるいは日本の大学院に在学していないということがさらにネックになる。多くの財団が居住要件あるいは在学要件を設定しているためだ。もちろん、留学組の場合は、逆に留学先の大学やその国の財団から助成を獲得できる場合がある。有力大学なら、院生のための研究助成を一定額用意していることが多いだろうし、研究に対する民間の助成はヨーロッパやアメリカの方が盛んである印象がある(実際統計が手元にあるわけではないので分からないが)。しかし、相当な金満大学でない限り、院生1人あたりに数十万円をポンと出してくれることはないだろうし、現地の民間の助成は、その国の出身者を対象としている場合も多く、留学生が必ずしもアクセスできるわけではない。自然科学系なら、ラボの「ボス」が資金を獲得してきて、それを使えるので別に自分で研究費を得る必要はない、という場合があるのかもしれないが、人文社会科学系の場合、そもそも「ラボ」の観念がないので、共同研究をする場合は別として、自分の研究費は自分で獲得しなければならない。資金獲得は常に悩みの種なのである。

かく言う私は現在民間の助成を1つ頂いているが、自分が応募できる研究助成を探してい時に見つけた情報をシェアしたい。また、私個人としても来年行う予定のカタールシンガポールでのフィールドワークの経費が思ったよりも嵩みそうで、3月にこの助成が切れた後の資金繰りを考えなければいけない状況なので、他の助成をご存知の方は教えて頂けるととてもありがたい。なお、以下で挙げるのは、主に人文社会科学系のものが中心になっているが、他分野ではまた他の助成もあると思われるので、注意されたい。

  • サントリー文化財団「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」
    • 助成内容:上限100万円
    • 対象:35歳以下の若手研究者
    • 分野:人文社会科学
    • 件数:15件程度
    • 募集時期:10月-11月
    • 助成期間:4月-3月
    • http://www.suntory.co.jp/sfnd/research/index.html
    • コメント:これが現在私が頂いている助成。財団の方がとても親切。あと「アステイオン」を送ってくれるのが嬉しい。
  • 三島海雲記念財団「個人研究奨励金」
    • 助成内容:100万円
    • 対象:①日本在住の研究者(国籍不問)、及び海外在住の日本人研究者、②大学院博士課程<後期>在籍者(及びそれに相当する大学院生)
    • 分野:①自然科学部門(食の科学に関する学術研究)、②人文科学部門(アジア地域を対象とし、史学・哲学・文学を中心とする人文社会科学分野における学術研究(但し、日本を中心とする研究は除く))
    • 件数:54件程度
    • 募集時期:1月-2月
    • 助成期間:7月-6月
    • http://www.mishima-kaiun.or.jp/assist/post-3.html
    • コメント:カルピス創業者が三島海雲。最近伝記が出た(https://www.shogakukan.co.jp/books/09389777)。
  • りそなアジア・オセアニア財団「調査研究助成」
    • 助成内容:50-100万円
    • 対象:日本の大学もしくは研究機関等に所属する方からの推薦が得られる35才以下
    • 分野:アジア・オセアニア諸国・地域に関する社会、文化、歴史、政治、経済等の調査・研究
    • 件数:24件(2018年)
    • 募集時期:6月-7月
    • 助成期間:4月-3月
    • http://www.resona-ao.or.jp/project/promotion_application.html
    • コメント:今年出したらよかったのだが考え始めるのが遅く逃した…
  • 松下幸之助記念財団「研究助成」
    • 助成内容:上限50万円
    • 対象:大学院博士後期課程在籍者、及び博士後期課程終了後5年以内の者
    • 分野:人文科学・社会科学の領域において「国際相互理解の促進・わが国と諸外国との間に介在する諸問題の解決」「自然と人間との共生」に関する世界的な視野に立った社会的・学術的に要請の高い諸施策の提案、調査研究
    • 件数:50件程度
    • 募集時期:4月-5月
    • 助成期間:10月-9月
    • http://matsushita-konosuke-zaidan.or.jp/works/research/promotion_research_01.html
    • コメント:途上国研究をしている人には言わずとしれた財団。
  • 髙梨学術奨励基金「若手研究助成」
    • 助成内容:総額2150万円とのみ記載
    • 対象:満39歳以下の日本の国籍を有する者
    • 分野:①歴史学、②文明興亡史の調査研究
    • 件数:不明
    • 募集時期:12月-2月
    • 助成期間:4月-3月
    • http://www.disclo-koeki.org/06a/00848/index.html
    • コメント:分野は狭いが当てはまると良さそう。

これを書いていて思い出したのは、修士の頃はこうした助成を受けることが、博士になった今と比べて極めて難しかった(というかほぼ無理)ということである。若手研究者向けの助成もほとんどが博士以降を対象にしているためだ。しかし、修士といっても研究によっては資金が必要になることはあるし、それがないことで研究ができなくなってしまうのは大きな損失である。博士の方が修士の研究より平均して優れているのは確かであろうし、未熟な研究にお金を出すような余裕は誰にもないとは思うが、だからといって門前払いするのではなく、それは要求水準を高く保つことで質をコントロールすればよいのではないか、とも思う。少なくとも研究者を目指している人の間では、修士も博士も同じように選考の対象にしてもいいのではないだろうか。個々の大学がそれをカバーできればいいのだが、現状必ずしもそういう風にはなっておらず、そもそも博士に対しても、学会の旅費の補助などを行っている国内大学は多くない。

なお、こうした助成を情報を得るには、個別の財団について人づてやインターネットで検索する以外に、一括でまとめているサイトも存在する。国内のものではコラボリー、海外(アメリカ中心)のものではInstrumentlといったサービスが有用なようだ*1

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手元にあった唯一のお金の写真。二千円札を久しぶりに見たい人は、「研究助成を二千円札で頂けませんか」と財団にお願いしてみても良いかもしれない。採用取り消しになること請け合いだ。

 

※ 追記:予想外に沢山の他分野の助成の情報を頂いたので、以下のリンクで誰でも編集できる公開のリストにしてみました。対象も人文社会科学に限らず、全分野に広げます。ただ現時点では、【海外から】応募できる【院生】を対象に含んだ助成がリストの対象です。よろしくお願いします!

 

*1:後者は以前Lab-Onで紹介されていたので知った。

都会の昆虫少年だったあの頃

月末から月初にかけてアメリカに行って学会発表をしていたため、更新がだいぶ滞ってしまった。このブログの月別記事数を見てみると、ほとんど月3記事ペースで書いているようだが、6月と7月は休み期間だったからか、更新頻度が増えていた。しかし8月で月3に逆戻りである。9月はどれだけ書けるだろうか。 

日本に戻ってきて、東京にいた8月の間は、美術館や博物館、水族館といった場所によく出かけた。もちろんオックスフォードやロンドンにもそうしたものは沢山あって、そちらでも行くことはあるのだが、どういうわけか日本に帰るとそうした場所に行きたくなる。というより、日本にいない間に「日本で行くべき場所」がどんどん溜まっていくのだろう。逆に日本にいる今は、イギリスに戻ったらどこに行きたいとかそういうことをよく考えている。 

今回行った場所の中で特別自分にとって印象深かったのが、国立科学博物館の特別展「昆虫」である。香川照之が載っているポスターを目にした人もいるかもしれないが、上野の国立科学博物館で現在も開催中の特別展である*1

印象深かったといっても、この展示自体が特別に私に強烈な印象を残したというわけではない。いや、最初子供向きかと思いきや大人にも面白い標本や説明などが見られ、昆虫の生態について好奇心が満たされる仕掛けになっていて、確かにとても面白いのだが、私が印象に残っているのは、この展示というよりも、それを見て昆虫が好きだった自分の少年時代を思い出したからなのだ。私は「都会の昆虫少年」だった。

生まれ育ったのは大阪の東の方の、いわゆる下町めいた特に何の変哲もない街で、野山を駆け巡って虫取りに励む少年時代を送ったわけではない。野も山もなかった。しかしそういう都市部には都市部を生活の拠点とする虫がいるもので(生息域別の昆虫紹介は「昆虫」でも展示があった)、子供のときは兄と一緒にアリを追跡してアリの巣の場所を突き止めたり、カマキリが産んだ卵を放置していたら孵化して大変なことになったり、通学路にあった花梨の樹を揺らすとシロテンハナムグリやアオドウガネが一斉に飛び立つのを捕まえたり、小学校のプール開き前の掃除の時にヤゴを採集して家で育てたりしたものだ。なかでも一番夢中になったのはやはりカブトムシやクワガタで、といっても家の周りにはいないから、家族旅行の時には両親に無理を言って毎回夜は昆虫採集に出かけた。また小学生の頃は外国産のクワガタ・カブトの輸入が盛んになった時期だったこともあり、なけなしの小遣いをはたいたり親や祖父母に時々買ってもらったりして色んな種類を飼育し、繁殖させていた。実際の昆虫と触れ合うだけではなく、図鑑を読んだりインターネットでクワガタ飼育記や採集記を読み漁って想像を膨らませたり、もっと幼い頃には学研の「昆虫たんけん」というゲーム?で遊んだりもした。そこに出てくる「ムシムシマン」というキャラクターが変な声で、強烈な雰囲気を放っていたのを覚えている。
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そうした少年時代を過ごしながら、いつしか兄も私も昆虫からは離れていき、中学・高校・大学と特に昆虫に深い関心を抱くこともなく行きてきた。今では政治学なんていう堅苦しいことをやっている。子供の頃は昆虫を初め生き物や自然全般に興味を持っていたのに、いつしかそうした興味は後景に退き、今では国家や社会といった人間の構築物を相手にしている。しかし私は昆虫少年ではあっても、決して政治少年ではなかった。というか、政治少年ってなんだ。そんなものがいるとすれば、危険なのでできるだけ半径5メートル以内に近づくのは避けるべきである。歴史少年ではあったと思うし、今も歴史的なアプローチを使って研究をしているが、歴史学をやっているわけではない。

政治学を含め、社会科学をやっている人は現実社会における諸問題に対する憤りとか、違和感を出発点にしている人が多いように思われる。当然「私の意見」をそのまま論文にしても学界で相手にされるわけはないが、何の問題意識もなく社会科学研究をやっている人がいたらそれはそれで普通ではないと思う。もちろん、こうした現実社会への憤りや使命感、あるいは公正や正義といったものの追求は、それ自体とても尊いことだと思う。自分も今の研究関心が生まれる背景には、世界のあり方に対する強い問題意識があって、研究を通じて間接的にでも世界を変えたいという思いがある。

しかし正直、それを毎日やっていると、それだけでは疲れてしまう面もある。子供の頃から好きだった昆虫や魚や動物を「純粋な好奇心」の赴くままにそのまま研究している人が羨ましく見えたりするのだ。まあ、自分がそういった分野を選ばなかった(高校で「文系」に行った)のは、そうした分野に行っても自分はあまり大したレベルには達しないだろうと思ったのと、人間社会に関わりたかったからであったと思う。その点では今でも妥当な選択だったのではないかと思うが、私にとって政治学や国際関係論といった分野は、特に「必然」ではない。何か少しでも状況が違えば、他の学問を選んだであろうことは疑いがない。研究者を目指すこと自体は、少々状況が違おうが変わらなかっただろうが、分野選択は、あくまで経路依存の結果であった。まあ、他の分野を選んでいた自分を想像するというのは、結局隣の芝生は青いというやつで、私の頭の中にある昆虫研究者は、必ずしも実際の昆虫研究者と同じではないのだろうし、選択を行った今となっては、選んだ道を進むしかないのが現実である。まあ、政治学において日々生産されている研究の大半を私は面白いとは感じないけれど、自分が面白く思える研究をやっている人や、自分の研究を面白いと認めてくれる人はそれでも沢山いて、そうした人にアクセスできる環境に今自分がいるということは確かで、それはとても恵まれたことであるのだ。

そういえば、昆虫関連で、今もって謎のエピソードがある。我が家では、飼っていた昆虫が死ぬと、土に埋めて埋葬する、ということを習慣にしていた。ある時、クワガタか何かが死んだ時に、兄と向かいのアパート(昔どこかの会社の社員寮か何かだったが長らく空き家になっていた)の庭に埋めておいたのだが、翌日見てみると、埋めておいた場所の近くに、小さな花が置いてあったのである。そこに生えていたわけではなく、明らかに誰かが置いた形であった。家族に聞いてもやっていないというし、そのときは「ちゃんと大事にした褒美にムシムシマンが置いていったのだ」ということに落ち着いたが、一体あれは何だったのだろう。

 

P.S. ところで、昆虫少年だったころへの懐古に浸った私は、ちょうど近くに滞在していたこともあって、昆虫好きの聖地の1つである「むし社」(中野)を初訪問して、セールに乗じて10年以上ぶりにクワガタを買ってきた。ブルイジンノコギリクワガタというやつである。子供の頃はヒラタ系を中心に飼育していたので、初めての種類だ。かっこいいですよね?

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*1:ところでこのポスターでは、香川照之が日本の田園風景を背景に、外国産のアクタエオンゾウカブトを手に持っているのだが、これは少し誤解を招く描き方ではないだろうか。というのも、この写真だとあたかも日本でアクタエオンゾウカブトを採集したかのように見えるが、同種は日本には生息していないし、外国産の昆虫は生態系を乱すため、飼えないからといって決して野外に逃してもいけない。野外でこんな外国産のカブトムシを喜んで持っているのは危ないのだ。

犬も歩けば犬に当たるか?

犬派猫派論争というものがある。人々の選好を明確に二分することが可能であると信じる楽観的な思考の持ち主が、飲み会の席で一通り話題が出尽くした後、お代わりのウーロンハイを頼みつつ持ち出す、アレである。

個人的には、そもそもなぜ犬好きと猫好きが同一直線上の両端に位置づけられると考えられるのかまったく理解に苦しむが(私は紛う方なきペンギン派である)、政治学者もハト派タカ派などと意味不明な二分法を用いているので残念ながら人のことは言えない(?)。 

そんなことを朝9時のベッドの中で活動開始を先延ばしにするために考えているとき、ふと疑問に思ったのだが、犬というのは自分を犬だとどのように認識するのだろうか。そして、種類の違う他の犬を自分の同族だとなぜ認識できるのだろうか。いや、まあ「犬」というのは人間が勝手に付けたラベルであるから、もう少しニュートラルな表現を使った方がいいかもしれない。犬が犬を認識する概念として、仮に"qarw/?eq"%$jgosr"とでもしておこう。qarw/?eq"%$jgosrはなぜ自分がqarw/?eq"%$jgosrだと認識できるのだろうか。うーむ、面倒くさいので以下便宜上「犬」としよう。

昔小学校の友達の家に、ミニチュアピンシャーという品種の小型犬がいて、甲高い声でキャンキャン吠えて追いかけてくるので私の天敵だったのだが、例えばこの犬とセントバーナードが道で会ったとき、彼らはお互いを同族と認めることができるのだろうか。犬というのは特に、長年の品種改良(?)の結果、姿かたちが多様化しているし、例えばポメラニアンは、同じ犬であるシベリアンハスキーよりも、明らかにタヌキの方に似ているではないか。むしろあれはタヌキではないのか。

そもそも、犬は鏡に映った自分を自分だとは認識できないと聞く。自分がどんな姿をしているかさえ分からないのに、他人(他犬)が自分と同じ種類であるとなぜわかるのだ。匂いに鍵があるとかいう話もどこかで聞いたような気がするが、どうなのだろう。

また、多くの犬は人間に抵抗なく寄っていったり舐めたりするが、これも理解できない。鏡が見えなくても自分が四足歩行で毛に覆われていて、目線が低い生き物であることぐらいはわかるだろうから、わずか二本の足で立っていて毛もなく、なんだか上の方の空気を吸っている変な生き物に触られたりしたら気持ち悪くて逃げ出したくならないのだろうか。私なら逃げ出す。

まあ、こういうのは、詳しい人から見れば当たり前の答えがあるのだと思うが、専門外の知識にたどり着くのは門外漢には往々にして難しい。そのうち勉強してみたい。

ところで皆さんは、ビール派だろうか、それともワイン派だろうか。