紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

捕鯨、優生思想、同じ顔―腸が煮えくり返った話

「人生山あり谷あり」と言うが、生きていれば良いことも悪いこともある。そういえばこの山あり谷ありというのはどういう意味だろう。山が良いことで谷が悪いことなのか、あるいはここには出てこない、歩くのが楽な平地だけではなくて、登るのが難しい山や上がってくるのがしんどい谷もあるよという意味なのか。今ひとつはっきりしない。

いずれにせよ、言いたいのは、全体としては楽しい私の留学生活の中にも、少しは悲しいことやムカつくことがあるということだ。今日はこの1年半弱の留学生活であった、「腸が煮えくり返った」3つの出来事について書きたい。

  • エピソード①:捕鯨問題に関する「友人」のFB投稿

日本が国際捕鯨委員会IWC)を脱退し、商業捕鯨を再開するというニュースは、国内のみならず世界各地で報道され、国際的には圧倒的に批判の声、国内的には賛否両論が巻き起こった。私は捕鯨問題に関しては完全に素人なので、その内容についてここで立ち入ることはしない。

ある日何気なくFacebookを見ていると、日本のIWC脱退に関するニュースをシェアしているアメリカ人の友人(カレッジが同じ)のポストが目に入った。

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上の画像は少しわかりにくいが、The Guardian(イギリスの新聞)の記事がシェアされていて、"commercial barbarism" と書いてあるのが彼自身がそれに付したコメントである。これを見た時に私は、barbarism(野蛮)とは穏やかではないな、と思った。他の価値観を持っている人間を簡単に「野蛮」と、それも誰でも見られる形で言い捨てるのは、私には到底できることではない。ただまあ、扇情的な言葉を使う人というのはいるので、彼に対して抱いていたイメージとは異なるが、そういうこともあるのかな、という程度であった。

しかし、そのポストに付いているコメントを見て、私は凍りついた。

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1つ目のコメント「パール・ハーバー以来日本がしでかした最悪のことだ」、それにぶら下がっている投稿者のコメント「マッカーサーが必要だ」、3つ目のコメントはいいとして、最後が一番ひどい。日本政府の決定を批判するのではなく、「日本人」全体を差別的な言葉で貶める、これは明らかにヘイトスピーチである。このポストの投稿者である私の「友人」がこれに対してその後どうしたかというと、あろうことかこのコメントをlikeして肯定的なコメントを返していた(その画像は残っていない*1)。

何がショックで、また腹が立ったかというと、このポストをした彼は、日頃とてもフレンドリーな人間で、特別親しくはないにせよ、私も「良いやつ」だと思っていたからである。それにこの本人も、FBを見る限りコメントしていた人々も、アメリカの超有名校を卒業し、ある程度国際的な経験を有しているはずの人々であって、そのような人々からこのような言葉が出てくるということもまた衝撃であった。

普段にこやかに会話をしている相手が、胸の内に、自分が含まれる集団へのヘイトを抱えているというのは、考えるだに恐ろしいことである。「そんなもんだよ」と言う人もいるだろうが、そうやってニヒルに捉えることはこの瞬間の私にはできなかった。これが腸が煮えくり返ったエピソードその1である。

2つ目の事件は、昨年私のカレッジ(St. Antony's)のFacebookグループで起きた。カレッジ内にはRowing(ボート競技)のチームやサッカーチーム、そして私も一応所属しているが全然活動していないビール醸造委員会など、いくつかのサークルがあるのだが、あるとき何人かの学生がディベートソサイエティを作ろうと動いていた。説明するまでもないと思うが、ディベートは、あるテーマについて、2つのグループが対立する立場から討論を行うというものである。これ自体は思考力やパブリック・スピーキングの能力を鍛えるのに役立つし、歓迎すべき動きではあったのだが、彼らが最初のディベートのために選んだトピックが最低であった。

ある日、そのグループの主催者らしき院生が、FBのグループにポストしたのは、"This house believes eugenics is the way forward." という内容。This house believes ~ というのは、議会での討論を模した論題の書き出しで、eugenics is the way forwardというのは、「優生学が我々の進むべき道だ」というような意味であろう。

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私は、優生学/優性思想とは何かという学問的な議論は踏まえていないが、さしあたり、「生殖管理を通して『より良い』人間を生み出そうという考え」という風に理解したい。このような考え方は世界各地で見られ、ナチスの政策が最たる例として挙げられるが、日本でも、かつて存在していた強制不妊の制度の問題が昨年メディアで報道されたのが記憶に新しい。障害を持つ人々、あるいは「劣った人種」などを淘汰して、「優秀な」人間を残していこうという発想である。当然何が「より良い」人間かなど誰かに判断できるはずはないし、このような考え方は決して容認されるべきものではない。

話をディベートに戻すと、この主催者も別に自身が優生学を信じているわけではさすがになかっただろう。しかしそれを「討論」の対象として相応しいものだと思い込んだことが、彼らの決定的な間違いであり、それによって私のみならず、カレッジの多くの人々の腸が煮えくり返り、吹きこぼれた腸に引火してこのFBポストは「炎上」した。結局主催者は謝罪、イベントはキャンセルされ、その後ディベートソサイエティ自体が立ち消えになった。

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しかし、何より暗澹たる思いになったのは、少なくない数の人が、主催者を擁護するコメントを書き込んだことである。彼らの論調を要約すれば、「優生学がひどいものなのは理解していて、誰もそんなものは望んでいない。しかし、そういうものについても目を背けずに議論することが必要なのではないか。」というもので、一見それらしく聞こえる。確かに、異なる意見に対して耳を貸すのはリベラルな秩序のあり方だろう。

だが、このコメントをした人々が分かっていないのは、単に話題にすることと、賛成側と反対側を設けてディベートすることは、全く異なるということである。優生思想などというものは、そもそも賛成の余地のないはずのものであるのに、ディベートの主題になった途端、反対意見と賛成意見は同じ重みをもって扱われ、議論の余地のあるもののように見せられてしまうことになる*2。これがもし、「優生学に基づく人権侵害が起こらないようにするのはどうすればいいか」という主題でのディスカッションであったら、このような問題は起こらない。その点を深く考えず、また"eugenics"をきちんと定義せず(主催者はひょっとするとgenetic engineering(遺伝子工学)を念頭に置いていたのではないか、という指摘もされていたが、両者は別物であって、そんなこともわからないような人間にこのようなディベートを主催する資格などない)、さらに最低限これがディベートに値する問題かどうかを議論の対象とすることすらせずに*3、「優生学が我々の進むべき道だ」などという主題をぶち上げてしまう鈍感さと愚かさに、目がくらむような思いがした。そしてこれを擁護するコメントをした人々の中に、自分の「友人」も何人か含まれていたことで、一層嫌な気分になった。

  • エピソード③:「日本人も中国人もみんな同じ顔だ」と言われる 

最後は、もう少し個人的なエピソードである。去年と比べると、今年はあまり新しい友達を作る気分にならないというのは、以前の記事で少し書いたが、それでも今年新たに仲良くなった友人は何人かいる。その中にエストニア人の女性がいて、特に何のバックグラウンドが重なっているわけでもないのに気が合って、よく一緒にいたのだが、彼女とカレッジのパーティーに行った際に事件は起こった。

2人で話していると、同じカレッジの1年目のイタリア人の学生(男)が近寄ってきて、会話に加わった。彼とは私も以前に少しだけ話したことがあり、特に興味もないが害もない、言っては悪いがその他大勢の1人という程度に認識していた。適当に話をしていたが、他の友達がいて少し話したかったので、2人を置いてその場を離れた。

その後しばらくして2人は話を終えたようで、また私はそのエストニア人の友達と話し始めたのだが、彼女によると、そのイタリア人の学生が私についてどうも差別的なことを彼女に言ったらしい。何かというと、彼が彼女に、「彼(私)は中国人?」と訊ね、彼女が「違う、日本人」と答えると、それに対して、"It doesn't matter. They all look the same."(「日本人でも中国人でもどっちでもいい。みんな同じ顔してる。」)と言ったらしいのだ。

まあこれはもう清々しいほどに明快な人種差別であって、わざわざ説明するまでもないだろう。もちろん「中国人と一緒にするな」というようなそれ自体差別的な下らないことを言いたいわけではなくて、ある集団の人々を一緒くたにしてその中での差異や個性を無視して貶めるという行為を問題にしているわけである。

これも今振り返れば、レベルの低い人間がいるもんだな、という風にしか思わないが、それを聞いたときはやはり腸が煮えくり返った。直接言われていたら頭からビールをぶっかけるぐらいのことならしていたかもしれない。

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ぶっかけるならやはりギネスだろう。

あとから聞いたところによると、どうもこの男は私の友達に懸想していたらしく、何回かデートに誘ったりしていたみたいで、私がよく一緒にいることに嫉妬して逆恨みでそのような暴言を吐いたようだ。そもそも彼女は長年付き合っているパートナーがいるので、私に八つ当たりするのはお門違いも良いところだし、そもそも彼に可能性は1ミリもないわけだが…本当に下らない。

  • 腸が煮えくり返った時にどうするか

ここまで3つの腸が煮えくり返ったエピソードを長々と紹介してきたわけだが、いずれの場合でも、腸が煮えくり返った時にどのように対処するか、という問題に悩んだ。例えば1つ目のエピソードで、この投稿に対してコメントをして彼の問題点を指摘することもできただろうが、それで何か解決しただろうか?より激しい反発を引き起こし、自分も消耗させられるだけではないだろうか?しかしじゃあ何もしないでいいのだろうか?何が正解か判断するのは難しい。この件の場合は、直接コメントするのは避け、粛々と正式の手続きに則ってなすべきことをしたが、いつもそのような窓口があるとは限らない。

以前にも、オックスフォードでの人種差別に関するワークショップについて記事を書いたが、今もこうした場合について何がベストな行動なのか、という点について納得のいく答えは出ていない。

  • 最後に一首

最後に、最近読んだ歌集に今回の記事にちょうどいい短歌が載っていたので、「オチ」ということで紹介して終わりたい。

 

五臓六腑がにえくりかえってぐつぐつのわたしで一風呂あびてかえれよ ― 望月裕二郎

 

*1:その後FB社がしかるべく対応し、差別的なコメントを削除したため。

*2:少し話は違うが、Oxford Unionという、歴史ある学生自治会が、ドイツの極右政治家Alice Weidelや、トランプの顧問であったSteve Bannonを講演に呼んだ際、話す機会を提供することで彼らのヘイトに満ちた発言にcreditを与えることになると大きな反発が起きた。
https://www.theguardian.com/world/2018/nov/02/far-right-german-politician-pulls-out-of-oxford-union-event
https://www.bbc.com/news/uk-england-oxfordshire-46240655

*3:例えば死刑制度なども、ある人にとってはそもそもディベートの俎上に置くことすら許せないようなことであるだろうし、何がディベート可能なことか、というのはこれはこれで議論の対象となりうる。

新しい年を迎えて

あけましておめでとうございます。

2018年は過ぎ去り、2019という新しい年がやってきた。「2018」という数字は埃に覆われてくすんで見えるようになり、一方で「2019」という数字にはおろしたての新鮮さを感じる。などというのは今だけのことで、我々はじきに2019も使い古してくたくたにしてしまうに違いない。私が以前やってい(て続かなかっ)たブログには、こんなことが書かれていた。なーに寝ぼけたこと言ってんだべらぼうめ、という感じである。

2015年は大きな心配事もなくぬるりと過ぎ去り、早くも2016年がやってきた。2016という数字は何か近未来的な数字であるように思われる。

さて、2018年は私にとっては可もなく不可もなくといった年であった。去年のおみくじは確か凶で、不安な幕開けであったわけだが、学業も概ね順調であったし、私生活でもまあ特別悪い年ではなかったといえよう。論文も1本出版できたし、初めて海外学会での発表を経験し、Transfer of Statusも無事通過して、学部内でも少しずつ認知してもらえるようになってきたと思う。オックスフォード生活も相変わらず楽しいし、一生ものだと思えるような友人もできた。

しかしまあ、テニスやスカッシュをやっていて思うのだが、今あるものを守り切ろうとだけ思ってプレーしていると、なかなかうまくいかないものである。失点したくないという思いが先行すると、結局心体が萎縮してミスが生まれたり、ラケットを振り切れずにネットにボールを引っ掛けてしまったりするのだ。何が言いたいかというと、現状維持ではなく向上を目指さないと、という話である。6-4で勝てそうなセットであっても、6-3、6-2を目指して努力しないと、結局タイブレークにもつれ込んでしまうこともあるから。テニスを知らないとわからない話になってしまった。

というわけでまあ、私事ながら、本年の目標を簡単に書いておきたいなと思う。私事ながらと言ったが、ブログは私事を書くところなので誰に気兼ねする必要もないのである。前言撤回。

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高校テニス部の友人たちと新年恒例のテニス会をした。
  • 英語論文の出版

やはりこれが今年一番の悲願である。自分は日本語では幸い、査読論文2本とブックチャプター1本(もう1本あるのだがそちらはあまりアカデミックでないのでここではノーカウント)、書評1本を出せているのだが、英語の業績は日本語論文の英訳版1本しかなく、英語の学界ではまだ存在していないも同然である。この世界、やっぱり最終的にものを言うのは業績だと思うので、早く1本目の論文を出版したい。こういうのは静止摩擦と動摩擦の話と一緒で、最初動き出すまでが一番大変だと思うのだ。1回できてしまえば、2回目以降は「それよりは」楽になると思っている。今出したい論文が2本あって、うち1本は修士からずっと取り組んできた研究なのだが、どちらが先でもいいから、今年中に1本は最低限アクセプトまでこぎつけたいものだ。 

  • イギリスを知る

もっと自分が今住んでいる国のことを理解しなければ、と思う。オックスフォードの院生コミュニティは非常に国際的であるため、日常生活の中で「イギリス」を感じることは意外に少ない。ともすると自分がイギリスに住んでいるという事実すらも忘れそうになるほどだ。1年目は、まずオックスフォードでの生活に慣れ、軌道に乗せることが重要だったため、イギリスに深入りする余裕がなかったが、2年目になって余裕が出てきたため、そろそろ本格的に行動しないと、言っている間に卒業を迎えてしまいそうだ。

イギリスを知る、というのは具体的に言うと、テレビや新聞でイギリスのニュースにもっと積極的に触れる(今は家にテレビがない)、イギリス国内の色々な場所へ足を運ぶ、といったことになるだろう。この国の歴史、文化、そして今何が起きていて、人々は何を考えているのか、ということを知りたい。

  • 日常にメリハリをつける

博士課程あるあるだと思うのだが、私は放っておくとずっとだらだらと研究してしまう。これは全然褒められたことではなくて、「だらだらと」研究しているので、長時間、それほど高くない集中度で研究をやっており、そのためあまり効率が良くない。結果他のことをやる時間が減っていき、部屋やオフィスで過ごす時間が無駄に増えてしまうことになるのである。まあ冬のイギリスは気候が悪くてあまり外に出る気にならない、という問題点もあるのだが、それにしたって漫然と一日を過ごすのではなく、区切りをつけて何事も意識して取り組みたいものだ。そのためにポモドーロ・テクニックなどを導入することも考えたのだが、 私は根本的に自分の意志以外のものによって行動を制約されることが何よりも嫌いなので、多分これは私には向いていないのではないかと思う。

  • 研究以外の何かを深める

上と関連するのだが、研究以外に何か「自分はこれをやっている」と自信を持って言えるものを確立したいとずっと思っている。趣味という次元で良ければ、今の私にもスカッシュ、テニス、ビリヤード、小説、音楽、映画、短歌 etc. と色々あるのだが、どれもそれほど深くは掘り下げていない。浅く広くという感じである。しかし、研究だけが人生ではないし、もう1つ軸が何かあった方が、本業の研究の方も上手く回るような気がしているのだ。それに、私の師匠もそうだが、 一流の研究者と言われる人の中には、何か自分の専門以外にすごく詳しい分野があって、そこでも名を成しているという人が多いように思う。今年中にその「何か」の足がかりくらいはつけたいなと思う。 

  •  ブログは週1を目標に

思いがけず長く続けることができているこのブログだが、続けていると段々固定読者も増えてきて、久しぶりに会った人や初めて会う人に「ブログ読んでるよ」なんて言われることも増えてきた。本当にありがたいことで、とても励みになる。自分の考えていることをネット空間にさらけ出す(まあそのごく一部しか出していないわけだが)というのは最初抵抗があったが、自分は研究も含めて、「文章で生きていきたい」と考えているから、良いトレーニングにはなっていると思う。

ただ、忙しい時期など、ついつい更新が滞ることもあって、11月には無理やり月末に「記事を書くという記事を書く」という禁じ手を使ってしまったこともあった。月3記事が自分の去年の適正ペースだったわけだが、今年はもう少し頑張って週1記事くらい書ければと思う。何かここをこうした方が良いとか、こういうことについて書いてくれということがあったら、教えてください。

 

また年末に、これらの目標をどれくらい達成できたか振り返ってみたいと思う。あまり具体的でない目標も多いが。

ちなみに今年のおみくじは吉だった。安心した。

 

2018年に読んだ小説

言うまでもなく大晦日だ。街は静まり返り、そば屋は年に一度の特需に湧き、うどん屋はそれを見てほぞを噛み、夜になれば誰もその勝敗の行方に興味のない合戦が始まる。プロ野球選手などは「チームの勝利が最優先なので、個人の記録はどうでもいいです」などと殊勝に言ってみせるのがもはやテンプレートのようになっているが、同じことを言う紅白出場歌手を見てみたいものだ。

この時期になるとインターネット上では色々な人が「今年のまとめ」的なことを書いているが、一年を振り返るというのは重要なことだと思う。私は2018年のまとめは年が明けてから、2019年の目標というようなものと一緒に書きたいなと思っている。

今日書くのもまとめといえばまとめなのだが、「今年読んだ小説」のまとめである。本来は「今年読んだ論文」もまとめるべきなのかもしれないが、まあそれはまた今度ということで(たぶんやらない)。私はだいたいやることがないなと思ったら小説を読むタイプで、オックスフォードに来てから電車に乗る時間が激減したこともあって冊数は減ったが、それでもまあ結構読んでいる方だとは思う。ほとんど全てKindleで読んでいるので、いつ買ったかも分かりやすいし、一箇所にデータがまとまっているので収集しやすい。

ということで、2018年に読んだ小説は、手元の集計では68冊。まあ5日に1冊程度のペースだろうか。ちなみに前半日本にいた2017年は89冊だったので、21冊減ったことになる。以下は読んだ本のリスト。

日付 タイトル 著者
1/5 たそがれ清兵衛 藤沢周平
1/7 雪明かり 藤沢周平
1/15 半生の記 藤沢周平
1/15 夜の橋 藤沢周平
1/23 夜消える  藤沢周平
2/11 ながい坂(上) 山本周五郎
2/15 ながい坂(下) 山本周五郎
2/17 彦左衛門外記 山本周五郎
2/22 人情武士道 山本周五郎
2/26 人情裏長屋 山本周五郎
2/26 町奉行日記 山本周五郎
3/6 大炊介始末 山本周五郎
3/6 松風の門 山本周五郎
3/13 雨の山吹 山本周五郎
3/13 花匂う 山本周五郎
3/20 おれは一万石 : 1  千野隆司
3/20 朝顔草紙 山本周五郎
3/24 花杖記 山本周五郎
3/24 ちいさこべ 山本周五郎
3/29 天地静大(上) 山本周五郎
3/31 天地静大(下) 山本周五郎
4/4 美少女一番乗り  山本周五郎
4/4 酔いどれ次郎八 山本周五郎
4/9 羊と鋼の森  宮下奈都
4/9 あんちゃん 山本周五郎
4/9 艶書 山本周五郎
4/20 ひとごろし 山本周五郎
4/20 つゆのひぬま 山本周五郎
5/5 月の松山 山本周五郎
5/5 菊月夜 山本周五郎
5/26 やぶからし 山本周五郎
6/3 逢魔が時に会いましょう  荻原浩
6/17 ならぬ堪忍 山本周五郎
6/17 与之助の花 山本周五郎
6/26 おさん 山本周五郎
6/29 花も刀も 山本周五郎
6/29 一人ならじ 山本周五郎
6/29 dele  本多孝好
6/30 dele2  本多孝好
6/30 神隠 藤沢周平
6/30 無用の隠密 未刊行初期短篇  藤沢周平
7/18 四日のあやめ 山本周五郎
7/18 明和絵暦 山本周五郎
7/18 金魚姫  荻原浩
7/18 三人屋  原田ひ香
7/27 扇野 山本周五郎
7/27 怒らぬ慶之助 山本周五郎
7/27 田園発 港行き自転車 上  宮本輝
8/4 田園発 港行き自転車 下  宮本輝
8/4 あとのない仮名 山本周五郎
8/29 風流太平記 山本周五郎
9/2 山彦乙女 山本周五郎
9/28 梟の城 司馬遼太郎
9/28 火星に住むつもりかい?  伊坂幸太郎
9/28 結婚相手は抽選で  垣内美雨
10/19 新装版 風の武士(上)  司馬遼太郎
10/21 新装版 風の武士(下)  司馬遼太郎
10/23 新装版 俄 浪華遊侠伝(上)  司馬遼太郎
10/24 新装版 俄 浪華遊侠伝(下)  司馬遼太郎
10/26 恋歌  朝井まかて
10/28 真綿荘の住人たち  島本理生
11/3 ギブ・ミー・ア・チャンス  荻原浩
12/4 風雲海南記 山本周五郎
12/7 新装版 白い航跡(上)  吉村昭
12/7 明星に歌え  関口尚
12/15 新装版 白い航跡(下)  吉村昭
12/19 おさがしの本は  門井慶喜
12/21 砂の王宮  楡周平

一見して分かるのは、山本周五郎率の高さ。実に29冊を山本周五郎が占めていて、割合としては43%に上る。ここ2-3年は個人的に時代小説ブームで、まず藤沢周平から入って、ほぼ読み尽くした後池波正太郎に移り(2017年の池波正太郎率は30%)、そして今年に入って山本周五郎へと進んだ。しかし夏頃に山本周五郎もあらかた読み切ってしまい、そのせいで今年の終盤は作家が多様化している。焼畑農業式あるいはバッタ大量発生式読書である。個人的に、この3人を超える時代小説家は今後生まれないのではないかと悲観していて、となるとじきに読むものがなくなるのだが、その話は長くなるのでまたの機会にしたい。

山本周五郎は何を読んでも面白いのだが、あえて挙げるとすればこのあたりはどうだろう。『大炊介始末』の「おたふく」、『花匂う』の表題作、『町奉行日記』の「わたくしです物語」などがおすすめ。

大炊介始末 (新潮文庫)

大炊介始末 (新潮文庫)

 
花匂う (新潮文庫)

花匂う (新潮文庫)

 
町奉行日記 (新潮文庫)

町奉行日記 (新潮文庫)

 

時代小説以外では、伊坂幸太郎『火星に住むつもりかい?』、荻原浩『金魚姫』、宮本輝『田園発 港行き自転車』が面白かった私の中では「困ったときの伊坂幸太郎荻原浩」というのがあって、次何読もうかなと考えてすぐ思いつかないときは、とりあえずこの2人のものを買うと大抵ハズレがない。

伊坂幸太郎は『アヒルと鴨のコインロッカー』以来断続的に読んでいて、ストーリーもさることながら、彼の小説の随所に散りばめられるユーモアが大好きだ。『火星に住むつもりかい?』は、暴走した政府が市民を相互に監視させ、「危険人物」を公開処刑するというディストピア的な世界が舞台になっているが、こういう背筋の凍るようなシステムにも一応の正当化原理はあって、そのシステムの歯車となる人間とそれに流される人間がおり、実際の歴史を考えても、「ありえない世界」ではないのが恐ろしいところだ。

荻原浩は感動系の作品も多いが、『オロロ畑でつかまえて』などのユニバーサル広告社シリーズなどのオモシロ系が個人的にはおすすめ。「情けない人」をユーモアたっぷりに描くのが上手い。

宮本輝は父親の本棚に有ったので時々読んでいたが、『青が散る』などは30-40年前の青春ってこんな感じだったのか、という観点で面白かったが、変なオヤジっぽい説教/床屋政談が入るときがあるのと、いくらなんでもこんなコテコテの関西弁を喋る人はいないだろうというぐらいの喋り方の登場人物が多いために、少し遠ざかっていた。しかし、『田園発 港行き自転車』はスケールの大きい、優しい小説でとても面白かった。相変わらず関西弁はコテコテ過ぎるけど。

火星に住むつもりかい? (光文社文庫)

火星に住むつもりかい? (光文社文庫)

 
金魚姫 (角川文庫)

金魚姫 (角川文庫)

 
田園発 港行き自転車 上 (集英社文庫)

田園発 港行き自転車 上 (集英社文庫)

 
田園発 港行き自転車 下 (集英社文庫)

田園発 港行き自転車 下 (集英社文庫)

 

最後にもう1つ取り上げたいのが、本多孝好の『dele』。ドラマ化もされた小説で、といってもこの作品自体はそんなに自分には響かなかったのだが、本多孝好は元々大好きな作家の1人だ。作品が映画化されていたりもするものの、どちらかというと寡作な方で、それほど有名ではない。そのため好きな作家を聞かれた際に通っぽく聞こえるという点で非常に重宝するのだが、その点はおいても実際に素晴らしい作家で、特に青春小説の優れた書き手である。高校時代に『MISSING』、『MOMENT』、『FINE DAYS』といった作品を読んで、クールで少しナイーブで真っ直ぐな登場人物に魅了されたのを覚えている。新しい作品を読むのが楽しみな作家だ。

dele (角川文庫)

dele (角川文庫)

 

来年は小説だけでなく、一般書や専門書、論文などもまとめられればと思うが、実現されるかはわからない。それでは良いお年を! 

きのこたけのこ論争という結果の分かり切った議論について

日本に帰って来ると食べたいものが沢山ある。寿司はその筆頭で、海外でもSushiが食べられるとは言ってもそれはSushiであって寿司ではない(両者は似て非なるものである)し、ラーメンもまた海外で食べられるものの大半はRamenに過ぎない。イギリスの有名和食チェーンWagamamaに至っては、あれはただの高温の水に浮かんだ細長い小麦粉の塊である。やはり帰ってきたら本物を食べたい。

この前本郷三丁目駅から東大に向かって歩いていたら、本郷通り沿いにある「おかしのまちおか」が目に入った。そういえば日本のお菓子も久しく食べていないな、と気づいて入り、何かめぼしいものはないかと探し始めたら、懐かしいものがあった。たけのこの里である。明治の大ヒット商品であり、タケノコの形をしたクッキーをチョコレートでコーティングした、あれである。子供の頃から好きだった。

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ふと隣に目をやると、なんだかいびつな形をした、「たけのこの里」の類似商品があった。きのこの山と言うらしい。知らない子だ。しかし世間ではどうやら「きのこの山」は「たけのこの里」と同じくらい人気があるらしく、「きのこの山たけのこの里 国民総選挙」などというわけのわからない催しまで開催されているらしい。

日本に民主主義が根付いていることを再確認することができるこの企画は、「きのこの山」と「たけのこの里」のどちらが良いかを投票によって決める、というものである。なんとナンセンスな企画だろうか!

好みは人それぞれだから?どっちも美味しいから?いやいや違う、たけのこの里」の方が美味いに決まっているからだ。あのサクサク感、クッキーとチョコレートの高次元の融合、円錐状の美しいフォルム…!それに比べて「きのこの山」はどうだろう、クッキー部分はカサカサで、クッキーとチョコレートは分離し、安定しない形状のせいで自立できない。

きのこの山」を食べている途中で、ふと調べたいことがあることに気づいたらどうすればいいというのだろうか?すぐに調べ物をしたい。今すぐ知りたい。でも急いで食べたくない。おざなりになんかせず、チョコレートとクッキーと真摯に向き合いたい。「きのこの山」はこうしたお客様からのご要望に応えることができない。形がまっすぐでなく、チョコ部分を接地させずに置くことができないからだ。大切な本や机が溶けた「きのこの山」のチョコレートによって汚れてしまったというご経験をお持ちの方は多いだろう。被害者の会も設立予定だと聞く。

その点「たけのこの里」ってすげえよな。最後までチョコたっぷり立てられるもん。チョコが机に接することない安定した形状のおかげで、我々は心置きなく調べ物に集中することができるのである。身分の安定しない大学院生には「安定」の重要さが身にしみて分かっているのだ。

これだけでも「たけのこの里」の優位性は明らかであるが、学問的誠実さのためにも、以下のサイトに上がっている中からいくつか選んで、きのこ派からの予想される反論に予め対処しておきたい。

  • 反論①:たけのこはきのこより手が汚れる

きのこは茎部分がクッキー、傘部分がチョコレートと分かれているのでつまみやすいが、たけのこはチョコレートで覆われているのでつまみにくいという意見。
しかし、たけのこは全面チョコレートではない。下の方にはクッキーだけの部分があるのだ。きのこ派の皆さんはたけのこのチョコでない部分をつまめないほど不器用なのだろうか?大抵の人はたけのこだって手を汚さずにつかめるはずだ。それにそもそも、チョコが溶けるほどたけのこを放置しておくのは先方に対して失礼であると、知り合いのマナー講師が言っていた。

  • 反論②:チョコレートとクッキーを別々に食べられるからきのこの方が良い

このような意見もあった。ズバリと言っている割にはあまりズバッとしていない。

私が「きのこの山」を推す理由は、ズバリ3つの味を楽しむことができるからです。1つ目はチョコ部分のみ、2つ目はスナック部分のみ、3つ目はチョコとスナック同時。 

確かにきのこの場合は、チョコ部分とクッキー部分が分離できるので、2つの味を別々に楽しめるという「メリット」を感じる人は多いだろう。しかし、ここで素朴な疑問が生まれる。別々に食べるなら、なぜそもそも1つの商品にする必要があるのだろうか?チョコレートとクッキーを買ってきて、別々に食べればいいではないか。上の意見に対しては、「3つの味」を味わいたいなら、1つ目にチョコレートを食べ、2つ目にクッキーを食べ、3つ目に「たけのこの里」を食べれば問題解決だということを教えてあげたい。 
そもそも、Wikipedia情報では、「きのこの山」の開発経緯自体が結構適当なものであるようだ。

明治製菓の社員が、アポロチョコレートにビスケットを付けた姿がキノコに似ている事を発見し、コンセプトが生まれ商品が開発された。

じゃあアポロチョコレートとビスケットを食べてはどうだろうか!

  • 反論③:きのこの方がチョコレートの量が多い

チョコレート含有量をきのこ支持の理由にする人もいるようである。

チョコレートのボリューム感がよい。甘いもの食べてるぞ、と感じる。たけのこは薄くチョコが塗ってあるので、ボリュームを感じない。

しかし、私ならチョコレートが欲しければチョコレートを買うだろう。

 

とまあ、こういうわけで「たけのこの里」の大勝利は論を俟たないのである。ところで、マクドナルドの略称はマックではなくマクドが正しい。マックだけだと誰の子孫か分からないからだ。 

「目的」としての日本研究、「手段」としての中国研究?

学期が終了し、オックスフォードは徐々に学生の数が減って空っぽになりつつあるが、私も今週パリ経由で帰国する予定だ。パリで3泊ストップオーバーするという旅程は1ヶ月ほど前に決めたのだが、ここに来てパリの政情が怪しくなってきた。毎土曜日に大規模なデモが行われるということだが、ちょうど私が帰りの飛行機に乗るのも土曜日なので、急遽最終日のホテルを空港付近に移した。気をつけて行ってこようと思う。イギリスでもBrexitをめぐる混乱があるし、また欧州各国で排外主義的な政党が選挙で勢力を伸長する傾向が見られるという、何とも落ち着かない時期にヨーロッパに留学に来た感じがする。

イギリス国内でも多様性ある社会を好まない人達が多くいることはBrexitの過程で浮き彫りになっているが、少なくともオックスフォードにいる限り、そのような人に出会うことはほとんどない。学部生は裕福な白人がほとんどを占めているのでまた別世界な感はあるが、オックスフォードの院生は留学生の割合が高く、中でも私が所属しているカレッジ(St. Antony's)は特にそうである。ヨーロッパを始め、各地域から留学生が来ていることは、これまでのブログでも紹介してきた。

時々ダイニングホールを上から眺めてぼーっとしていることがあるのだが、そうすると気づくことがある。多様性あるカレッジの中でも、ある程度バックグラウンドに従ったグループができていることだ。あのテーブルはラテンアメリカ系の人が多いとか、あっちはドイツ人が固まっているなとか(ドイツ人がおそらくカレッジの最大勢力)、こっちではアジア系の学生が集まっているとか。もちろんお互いの行き来は頻繁にあるわけだが、似た者同士が引き合うのはある程度自然なことだろう。

St. Antony'sが多様性に富んでいる大きな理由の一つとして、地域研究のセンターが同カレッジに付属していることがある。中東研究センター、ラテンアメリカ研究センター、ヨーロッパ研究センター、そして日本研究センターなど。こうした研究センターが提供するプログラムに所属する学生の多くが、St. Antony'sに所属している。

私は研究内容に日本が特に関係ないので、日本研究センターと直接の繋がりはないのだが、やはり日本人ということで日本研究関連の院生に友達は多い。ある時、彼らと中国研究のプログラムに所属している友人とを比べて、両者の間には結構大きな違いがあるのではないかと思った。(※以下特にデータの裏付けのない個人の印象である。)

日本研究を専攻している、修士課程(博士になるとまた別だと思う)の、日本をバックグラウンドに持たない学生*1と、中国研究を専攻している、修士課程の、中国をバックグラウンドに持たない学生を比較した場合、前者の方が平均的に対象(日本/中国)に対する造詣が深いように思えるのだ*2。つまり、日本研究の修士をやろうという人は、たいてい日本文化に惹かれて入ってくるし、既に日本で一定期間を過ごした経験もあるという人が多い。他方で中国研究の修士は、どちらかというと「今の時代中国を理解していると、キャリアの上で有利だ」というメンタリティで入ってくる人が多いような印象がある。言い換えれば、日本研究の修士に入るのはこれまでの選好の「結果」でありそれ自身が「目的」という傾向が強いのに対して、中国研究の修士に入るのは将来のキャリア決定の「要因」であり目的達成のための「手段」という側面が強いのではないだろうか。(知らんけど。)

これは一見、日本にとって「良いこと」であるようにも感じられる。「日本好き」が日本を勉強してくれているのだ。それ自体悪いことではないに違いない。ただ、見方を変えれば、日本研究は日本好き「しか」集められなくなりつつあるということも言えそうだ。日本経済が右肩上がりであった時代には、日本を理解していることで、将来の仕事に繋がり、キャリアアップを図れる可能性があった。しかし今日本語を話せたとしても、残念ながら特に実利は得られないのが現状だろう。

その論でいくと、かつての日本研究の学生たちは、今の中国研究の学生たちと似た傾向があったはずだが、実際はどうだったのだろう。気になるところである。

まあもっとも、経済的な成功がその地域への関心を高める唯一の要因ではないことは、中東研究への注目の高まりを見れば明らかだが、ネガティブな出来事によって注目を集めるのはあまり望ましいこととは言えないだろう。

 

*1:いわゆる「非日本人」だがイコールではないのでこの語は使わない。

*2:なお、ネイティブの割合は日本研究より中国研究の方が圧倒的に高い。