紅茶の味噌煮込み

オックスフォード留学記

本文化と論文文化

研究者として、研究成果を発表して世に問うのは最も中心的な仕事である。自分も良い研究をして、できるだけ多くの読者を獲得したいと思っている。だが、その研究をいかなる媒体で発表するかという点においては、分野やアプローチによって大きな隔たりがある。具体的には、大きく分けて本文化と論文文化という2つがあるように思う。

例えば自然科学において、最新の研究成果が書籍として発表されることはまずあり得ないだろう。本になるのは教科書か、一般向けの概説書くらいなもので、あとはすべて雑誌への掲載が研究発表の媒体となっているはずだ。

人文社会科学の多くの分野では、本文化と論文文化が混在していて、どちらも発表先として重視されている。ただ、経済学などは自然科学に状況が近く、専門的な研究成果が本として出版されることはほとんどないという。他の分野については、その度合いに差があって、例えば政治学社会学などでは、博士課程の在籍中にも(量より質とは言われるが)論文の出版をすることが望ましいと考えられているし、博士論文の代わりに3つの雑誌論文程度の長さの論文を提出することで博士号を取得できる制度が多くの大学で整備されつつあり、オックスフォードでも一部の院生はこれを利用している。他方で、博士論文を書籍として出版するのが目標であり最初の成果であるとされている分野も多いだろう。

自分の観測する限り、政治学においては、まだ多数派的見解では「博士論文を提出した後、数年後に書籍として出来るだけ良い出版社から出版する」というのがゴールとされているような印象を持っている。論文を出すのも推奨されているが、それには必ず「沢山のそれなりの論文よりも、1つの素晴らしい論文の方が上」という留保が付けられる。そういう場合、本文化と論文文化の折衷案(?)として、本の出版に先駆けてまずその内容を切り取ったものを雑誌論文として投稿する、というパターンがよく見られる。もっとも、方法論を専攻する人やかなり高度な計量分析を使用する研究をしている人にとっては、これは当てはまらないだろう。そうした人々の多くがモノグラフではない論文ベースの博士課程をやっており、書籍の出版は眼中にないと思われる。

特にこの話にオチはないのだが、自分の場合は、やはり今後数年の目標として、博士論文を提出した後、それを良い書籍にしたい、というところに大きな目標がある。その過程でもちろん論文は出すだろうが、それはあくまで露払いであって、本番は書籍だ、という価値観を持っている。そういう意味では、自分は本文化に近いところに位置しているのだろう。論文程度の分量で言えることは限られていて、本格的な研究テーマは書籍になるような分量が必要だと考えている。しかし論文は出さないといけないので、論文にする研究はそこまで広がりがないもの、あるいは大きなプロジェクトの一部ということになる(というほど今の段階で沢山プロジェクトを持っているわけではないけど)。

ただ、読み手としての立場からみると、上述の「今後書籍になるものの一部」という論文を読んでも、消化不良感を拭えないことが多い。本来300ページ程度の本になるもののエッセンスを30ページくらいにまとめているわけだから、スケールの大きさに反比例して細部は粗くなり、それだけ読んでも全体を把握できたという気にならない。本物はその次に出される書籍であって、論文を完結編としては見ない。そういう論文を読んでいると、ついつい、商家の店先で「てめえなんざ相手にしてねえ、主人を出せ主人を」と番頭に怒鳴る破落戸のような気分になってしまう(藤沢周平池波正太郎山本周五郎の読みすぎ)。

質的研究と量的研究が対立しながら分離しつつある現在の政治学の状況を見れば、いずれ政治学は投稿先の雑誌が別々になってしまうのみならず、媒体も前者が書籍中心、後者が論文中心という風に完全に2つの文化に分かれてしまうのだろうか、などということを最近考えていた。このようにアウトプットの仕方が多様な状況では、業績評価の基準も難しくなるだろう。他の分野の話も色々と聞いてみたい。