紅茶の味噌煮込み

オックスフォード留学記

交友関係における経路依存

今いる学部が客観的に見て学問的に最高の環境かどうかは大いに議論の余地があるが(自分の研究関心にとっては結構良いとは思うけど)、ソーシャルライフという意味でオックスフォードに来たことは間違いなく良い選択だったと言える。端的に言って毎日楽しい。ストレスも少ない。

その理由が、カレッジを中心に、毎日誰かと面白い話ができることである。ダイニングホールで食事をした後、上階のコモンルームで紅茶を飲みながら小一時間話す、そんな毎日のひとときがどれだけ自分の生活を豊かにしてくれているか!東大にいたときは、みんな学外のアパートに住んでいて、特に大学院に入ってからは大学の知り合いも減ってしまい、研究室と一人暮らしの自宅の往復で、誰とも話さずに1日を終えることもよくあった。その時代と比べて、毎日の主観的な充実度は明らかに上がっている。

カレッジ生活の魅力は、200人近くのコミュニティが同じ敷地内に住み、生活を共にするというところだが、もちろん入学前の小学生ではあるまいし、友達100人と富士山の上でおにぎりを食べたいなどという戯言を抜かすほど皆幼くはないので、ある程度の流動性はありながらも自然とグループが形成されることになる。

しかしそのグループが形成された経緯を思い返すと、社会科学用語(というか、歴史的制度論/比較歴史分析用語?)で言うところの、重大局面(critical juncture)における多分に偶然の要素を含んだ選択がその後の結果に長期的に重大な影響を及ぼすという、経路依存(path dependence)を意識せずにはいられないのだ。

まあ友人関係の始まりが偶然の選択によるというのは別にこの環境だけの話ではなく、何でもそうなのだが、この環境が面白いのは、友人関係が以前から知っていたとか、同じ部活をやっているとかいうことにほとんど影響されていないということである。自分の友人は、ほとんど最初の1週間のオリエンテーションで出会ったか、ダイニングホールで初めて話したかのどちらかだ。オリエンテーションのイベント会場に入ったとき、誰か話しかける相手を目で探して、ぱっと目についた人に話しかける。その人が後々までの友人になる。ダイニングホールで席を探して、たまたま隣に座る。ここには純粋な意味での偶然が沢山作用していて、つまり会場に着くのが5分遅かったら、違う席に座っていたら、全く別の相手と話していたはずである。

さらに面白いのは、一定期間が経つと、新しい人と話すのが急に難しくなるという点である。一定数友人ができると、それ以上の友人ができることによって新たに得られる効用がだんだんと下がっていき(また自己紹介から始めるのは面倒くさいし)、あまり友達作りに熱心でなくなる。また、知らない前提で話しかけて以前もし話したことがあったら失礼になる、などという理由で話しかけるのが容易でなくなるのだ。最初の数週間当たり前のように見られた、ダイニングホールの各テーブルで握手と自己紹介が繰り広げられる光景は、グループ内の盛んな会話とグループ間の交渉の不在に取って代わられる。交友関係のロックイン効果(lock-in effect)である。

つまり、最初の数週間に偶然に左右されてできた友人が、その後も自分の交友関係を構成し続けることになるわけであり、最初の時期に話さなかった相手とはどんどん距離が生まれ話しにくくなるのである(まあもちろん例外はあるけど)。『四畳半神話大系』という森見登美彦のオモシロ小説があったが、自分の「あり得た姿」について思いを馳せるのは、何というか面白いと同時に何となく感傷をもたらすものである。

もう1つ思うのは、大学はダイニングホールやコモンルームといった「場」を設けたり、すべての学生はカレッジに所属しなければいけないという政策を取ることで、学生の人間関係、ひいてはその後の人生に大きな影響を与えている。「場」をデザインする側の影響力は非常に大きい。これはもっと小さなレベルでもそうで、例えば授業にグループワークを導入すれば、学生は本来なら話すことのなかった相手と共同作業をし、場合によっては個人的な交友関係にも繋がったりする(私はグループワークはあまり好きではないけど…)。誰かの何気ない(?)意思決定によって、多くの人の人生が知らず知らずのうちに影響を受けているのだと考えると、面白いような、怖いような、自分が何かを逃してしまったのではないかというような焦燥感に襲われたりもする。

f:id:Penguinist:20180511234317j:plain

そうして出会った友達とオックスブリッジ名物、パンティングをしてきた。