紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

「つまらない飲み会」をどう解釈するか

夏休みに入って大半の友人が帰国してしまい、またサマースクールに来ているキッズでカレッジが溢れかえっているためにカレッジからも足が遠のいているのだが、逆にその孤独を埋めるために最近はほとんど毎日夜はオックスフォードに残っている友人と食事をしている。

夏の間滞在しているアコモデーションの隣の部屋に、ケンブリッジで国際関係論の修士を取って来年度からMPP(Master of Public Policy)を始めるというドイツ人が引越してきたのだが、本業は医学生らしく、そちらの学位を終わらせるためにオックスフォードの病院で夏の間electiveなるもの(結局なんだかよく分からないが国外の機関で一定期間研修する、みたいなもの?)をやっている、というなかなか変わった経歴の持ち主である。

彼とは妙に気が合うのか、まだ会って1週間ぐらいしか経っていないが、一緒にテニスをしたり、私がカレッジの友達に紹介したり向こうがそのelective仲間に紹介してくれたりしてよく交流している。それで昨日もその仲間の飲み会に誘ってもらって顔を出したのだが、予想外にオックスフォード生活史上3本の指に入るつまらない飲み会になってしまった。

予想外というのは、2日前にもほぼ同じメンバーの飲み会に行っていて、そちらは楽しかったため、今回そんなふうになるとはまず思ってもみなかったということである。何がつまらなかったかというと、今回は2・3人前回と違う人が加わっていて、彼らが飲み会の場を支配してdrinking gameをやり始めたのである。勝手に一部でやってくれるなら良いが、全体でそれをやろうという流れになってしまい、お互いをあまり深く知らない遠慮からか誰もやめようとは言わず、結局大して盛り上がりもしない割に時間を食うだけのつまらない飲み会が出来上がってしまった。何がつまらないかというと、こういう形式になってしまうと話したい人と話したいときに話せなくなってしまうし、全体の「空気」みたいなものを勝手に作られるととても居心地が悪いのだ。

自分の勝手なやり方でグループ全体の会話を仕切ろうとする下らない人というのはどの国のどの集団にもいると思うが、ここ最近全然そういう場に行くことがなくて、drinking gameなどという自分が毛嫌いするものに自分が巻き込まれるなどという可能性が頭からすっかり抜け落ちていたので、少々衝撃を受けた。しかし考えてみれば、今までそういう居心地の悪い場は何度も、それこそ数え切れないほど経験しているのだ。大学の語学で分けられるクラスの飲み会はあまり好きではなかったし、あるサークルの1泊2日の新歓合宿があまりにつまらなくて1日目に適当な言い訳をして抜け出して帰ってきたこともあったし、わざわざ「セレクション」まで受けて入ったテニスサークルの顔合わせの飲み会があまりに合わなくてその後2度とサークルに顔を出さなかったこともあった。オックスフォードでも居心地の悪い場は最初の方に何回かあった。

それで昨夜、飲み会からやっと退散した帰り道に考えてみたのだ。「つまらない飲み会」というものをどう解釈すればよいのかを。まあ、というよりむしろ、自分がいたずらに無駄な時間を浪費してしまったという後悔を緩和するために、この無駄な時間に意味を見つけ出そうとしたのである。それすると、見つかったのである。だからわざわざブログに書いているのである。しかし考えてみれば自明のことのような気がする。

つまり、「つまらない飲み会」とは、「つまらなくない飲み会」へと到達するための通過点であり、その避けられない副産物/代償/コストなのである。特に新しい環境に入ったときには、まず周りの人間の中から上手くやっていける相手を見つけ出さなければいけない。そうすると必然的に、色々な場に出て、気が合う人を見つけ出す母集団を広げなければならないわけである。100人の知り合いの中から3人の気が合う人を見つけられる可能性は、10人の知り合いの中から3人の気が合う人を見つけられる可能性よりも格段に高い。私が上に挙げたつまらない場の事例はほとんどが、環境が変わった最初の時期に関するものであるが、別に周りの環境が変わったというわけではなくても、新しい人間関係を構築しようとする場合には一般に同じことである。

そうして色々な場に顔を出していると、必然的に何割かはつまらない、時間を無駄にしてしまったと感じるような場に出くわすことになる。しかし大抵の場合、それを経験しなければその先には到達できないのだと思う。「つまらない飲み会や人」に出遭ってしまう蓋然性とコストと、「つまらなくない飲み会や人」に出会える蓋然性とベネフィットをどのように評価するかは人によるだろうが、居心地の悪い場に出くわす可能性を嫌って新しい場を敬遠し続けると、居心地の良い場や人に出会える可能性も低くなってしまう。実際、昨日の飲み会は全体としてはつまらなかったが、隣人を含めて数人とは友達になれそうだなと思えたし、収穫はあった。次はこういう気が合いそうな人だけを集めて、「つまらなくない飲み会」を自ら作り出すこともできるのだ*1

私は誰とでも上手くやっていけるタイプではないので、他の人よりも友人関係の「ストライクゾーン」は狭いと思うのだが、それでも、環境が変わっても一応何とか毎回友人関係を構築できているのは、つまらない相手や場に出遭ってしまう可能性を厭わずに最初は色んな場に顔を出してみる、ということをしてきたからだと思う。環境が変わったとき、あるいは自分の世界を広げようとするときに味わう最初の色んな不愉快な、上手くいかない経験は、止まっているものを動かすときの静止摩擦みたいなものだ。最初動き始めるまでは余分に力も必要で、抵抗も強いが、一旦動き始めるとより軽い力でスムーズに動くようになる。要はその静止摩擦を受け入れられるかが、物を動かせるかの鍵になっているのではないだろうか。*2

この話は別に飲み会だけに当てはまるわけではなくて、例えば「つまらない学会」とは、「つまらなくない学会」へと到達するための必要な通過点であるし、「つまらないデート」とは、「つまらなくないデート」へと到達するための必要な通過点であるのだ。*3

思ったよりも長くなってしまった。つまらない飲み会で時間を浪費した上に、つまらない飲み会についてブログに書くことでさらに時間を浪費しているじゃないかというツッコミは、飲み込んで頂こう。

 

*1:ただ、つまらない飲み会が会社の飲み会などで強制参加だと、どうしようもないことになってしまう…

*2:ちなみに私は高校時代物理が一番の苦手科目だったので、この程度の理解さえも間違っている可能性を想像して震えている。

*3:「必要な」と書いたが、1回目からドンピシャの場や相手が見つかることもあると思われるので、必ずしも必要条件ではないかもしれない。しかしそういう可能性は高くないだろう。