紅茶の味噌煮込み

オックスフォード留学記

「自己防衛」としての質的方法論ー2018年7月時点での暫定的見解のまとめ

  • はじめに

以前2回に分けてIQMRサマースクールの体験記()を執筆したが、今回は、オックスフォードで授業を履修する中で感じ、IQMRに参加してある程度まとまった、政治学の質的方法論に対する私見というか、私なりの理解をまとめたいと思う。もっとも、以下は私の2018年7月時点の認識で、おそらく欠落している視点も多いであろうし、また将来的に同じ考えを維持しているかも不明である。むしろ、今後議論の中で考えを修正、発展させていきたいと思う。

その要諦を先に箇条書きにまとめると、以下のようになる。

政治学の質的方法論は、従来、体系化・定式化されないまま研究者の「職人技」「名人芸」によって暗黙のうちに用いられてきた。
・しかし、量的方法論側からの批判を受けたことで、質的方法論自体を対象とする研究が発展した。
・そのため初期からのほとんどの研究は、量的方法論と比した場合の質的方法論の独自性とその長所を主張する、量的研究者からの「攻撃」に対する「自己防衛」としての側面を持つ。
・その目的がある程度達成されつつある状況下で、自衛の域を出て、質的方法論の新手法の開発、あるいは従来用いられてきた手法のさらなる定式化や再解釈を行おうとする研究も生まれているが、そうした研究は実証研究者によって広く受容・応用されるまでに至っていない。
・質的手法を用いる実証研究は、長年方法論を体系化せずに行われ、それで成立してきたために、多くの質的研究者は、質的研究の価値さえ「自己防衛」によって示されてしまえば、それ以上の定式化を行うことに特に価値を見出していない。
・そのため質的方法論者が議論する方法と質的研究者が実際に用いる方法との間には乖離があり、「方法論者の独り歩き」的状況が見られる。
・結局、質的方法論は量的方法論からの批判への対処に非常に大きな功績を挙げたが、それ以上の独自の発展の可能性は不透明である。

  • 「自己防衛」としての質的方法論

政治学における質的方法論に関する研究が顕著に増加するきっかけとなったのは、King, Keohane, Verba (1994) (以下KKV)の発表によるところが大きい。逆にそれまでは、質的方法論がそれ自体として体系的に論じられることは稀であった*1。KKVは、質的方法論と量的方法論は同じ目的とロジックを共有するとの前提のもと、量的方法論の立場から、現在の質的研究をどのように改善できるか、を論じたものである。同書は政治学者の間に非常に大きな反響を呼び、現在に至るまで、政治学方法論における最重要文献とされ、同書の出版以降にトレーニングを受けた研究者なら誰もが一度は目を通したことがあるはずだ。

KKVの貢献は広く評価されたが、同書は質的研究者に危機感を抱かせ、また彼らの大きな反発を呼ぶことにもなった。結局のところ、KKVがいかに「質的研究も重要だ」と言ったところで、彼らは量的方法論の立場から質的研究の方法論的問題点を指摘し、量的方法論の枠組みの中に質的研究を統合し、それを劣位に位置づけようと試みているのだと受け止められたのである。

KKVという「黒船」の到来によって存在論的不安にさらされた質的研究者は、「質的研究には独自の価値があり、単なる量的研究の下位互換などではない」ということを示す必要に迫られ、そのために質的方法論を対象とした研究を行うようになる。KKVの出版翌年の1995年には、早くもAmerican Political Science Review(APSR)上で同書に対するレビューが特集され、David Laitin、David Collier、Sidney TarrowといったビッグネームがKKVへの評価と反論を行った。その後も数多くの政治学雑誌や書籍において質的研究に関する議論が行われ、とりわけBrady and Collier (2004)やGeorge and Bennett (2005) はKKVとセットでアサインされる必読文献になっている。

こうした諸研究によって、量的研究に還元できない質的研究の役割が明らかにされ、量的方法論の立場からの質的研究への批判の幾つかは当たらないことが示されつつあると言ってよいだろう。具体的には、質的研究は特定の事例における政治現象の原因を分析するもので、全体での変数間の関係を解明しようとする量的研究とは性質が異なる、質的方法論は、量的方法論では分析できない因果メカニズムや、複雑な因果関係(causal complexity)、そして同じ結果へと結びつく複数の因果経路(equifinality)の解明を行うことができる、質的方法論はDSO(Data-Set Observation)ではなくCPO(Causal Process Observation)に則っている、といった主張が展開された。

個々の研究の質的方法論の独自性に関する見解は必ずしも一致しているわけではないが、質的方法論の研究者の中では、大まかに質的方法論の、量的方法論と比した場合の相違についての共通理解が形成されているように思われる。こうした質的・量的方法論の比較という意味での質的方法論の研究は、Goertz and Mahoney (2012) に至って1つの完成を見た。彼らは、量的方法論が確率論的なロジックに基づいているのに対し、質的方法論は集合論(set-theory)のロジックに基づいており、両者はそのバックグラウンドにある数学的な考え方から異なっているのだという。前者は変数間の相関に注目するが、後者は変数が必要条件あるいは十分条件であるかに関心を持つ。XがYに与える影響を推定することを目的とする前者に対して、後者はYから出発し、複数ありうるXを発見し、それがYをもたらす必要条件なのか、十分条件なのか、はたまたINUS(Insufficient but Necessary part of a condition which is itself Unnecessary but Sufficient for the result)やSUIN(sufficient, but unnecessary part of a factor that is insufficient, but necessary for the result)なのかを同定することを目的としている(集合論的な考え方についてはSchneider and Wagemann (2012)やRagin (2008)に詳しい)。

以上はかなり大雑把なまとめだが、質的方法論の1990年代以後の飛躍的な発展は、少なくともGoertz and Mahoney (2012) に至るまでの間、KKVを初めとする量的方法論の側からの批判に対して、質的方法論は単なる「量的方法論の観察数が少ない劣化版」などではなく、独自の価値を有しており、質的方法論の方が向いている分析がある、そして統計手法が発展しても質的研究の意義は失われない、という反論を(明示的にあるいは暗黙のうちに)主旨として展開してきた、と理解している。そしてそうした主張は一定の説得力をもって受け止められているといってよいだろう。その証拠に、例えば現在では多くの研究者が、統計分析によってXとYの全体としての相関を検証し、XからYに至るメカニズムを過程追跡(process tracing)によって確かめる、といった、混合手法(multimethod)を採用して研究を行うようになっているが、これは質量にまたがる複数の手法を別々の目的で用いるアプローチであり、質的方法論と量的方法論がそれぞれ別々の強みを持っているという前提に立たなければあり得ないものである(Seawright 2016)*2

ここに至って、KKVから質的研究者が受けたショックはある程度緩和され、「自己防衛」としての質的方法論の当初の目的は一定程度達成されたといえる。問題はその先である。

  •  独自の発展の限界

量的研究と比較する形で質的研究の独自性を主張する、という形の質的方法論研究が当初の目的を達成して一段落すると、次に目指されるのは、量的研究との差別化の文脈を離れた、質的方法論それ自体の発展、つまりその定式化・体系化である*3。周知のように、量的方法論の分野では日々新しい統計手法が開発され、Political Analysisのようなジャーナルに論文が掲載されている。それと同じように、質的方法論の開発を進めていくことを志向する研究者も現れた。

発表される雑誌は必ずしも決まっておらず、Comparative Political Studiesのような方法論に特化していないジャーナルに掲載されることもあるが、近年ではSociological Methods & Researchという社会学の雑誌が質的方法論の主要な掲載媒体となっているようである*4。ただ、同誌は質的方法論に特化しているわけではなく、量的方法論の論文もあれば、方法論ではない論文も掲載されている。

そうした近年の質的方法論の研究でどのようなことが議論されているのかという実例を幾つか挙げてみたい。ぱっと思いつくのは、Bayesian process tracingというもの。これは過程追跡(process tracing)、つまり原因から結果へと至る因果メカニズムを事例分析によって明らかにするという研究方法を、単に事例を分析するのではなく、ベイズ統計の論理、つまり事前確率と事後確率という考え方を用いて行うというものである。あるcausal-process observationがあったときに、それが出てくる前の研究者の中での「仮説が正しい確率」が、その証拠によってどのように変化したかを評価する。と聞いてもそれだけでは何のことだか分からないと思われるが、私は後で述べる理由からこれをきちんと勉強したわけではないので、詳しい説明はTasha Fairfield(やAndrew Bennett)の研究(Fairfield and Charman (2017)など)をご参照頂きたい。

もう1つは、James Mahoneyが院生と共著している一連の論文が挙げられる。例えばBarrenechea and Mahoney (2017)は集合論の考え方を用いてBayesian process tracingを行う、という内容で、Mahoney and Barrenechea (2017)は従来事例研究で用いられてきた反事実分析(counterfactual analysis)をより体系的に集合論を用いて説明している。また、IQMRでアサインされた未発表論文は、critical event analysisなる方法論を提唱していた。

しかしながら、こうした量的方法論との比較の文脈から離れた質的方法論の研究は、本来それを応用する存在である質的研究者によって幅広く認知され、受容・応用されているとは言い難い。Bayesian process tracingを、「その方法論の実例を示す」という目的以外で利用した論文はまだ見たことがないし*5、hoop testやsmoking-gun testといった過程追跡の用語が実証論文で用いられているのはほとんど見ないし、Mahoneyによる最近の論文は、質的方法論と量的方法論との違いを議論する研究よりも参照されていない*6。そもそも、質的研究者が、方法論ではなくサブスタンスに関する自分の研究の中で方法論の論文を大量に引用することはあまりない。事例選択に関してバイアスがあるだろうという批判に予め対処するとか、計量分析を用いないのはなぜかということを正当化するために引用するということは想像しやすいが、方法論自体に割かれる紙幅は量的研究者よりも平均して少ないだろう。また、方法論自体を研究対象としない実証研究者で、質的方法論に関する議論に通暁している人自体も少ない印象がある*7。なぜこのような状況が生まれているのだろうか。

  • 「方法論者の独り歩き」

それは質的方法論の出自に関係があるのではないかというのが、IQMRを含めて質的方法論を勉強するなかで至った私の理解である。つまり、上記のように質的方法論が盛んに議論されるようになった背景には、量的方法論の側からの挑戦があり、その危機感によって動かされてきた側面がある。もしそうした脅威がなければ、従来のように方法論に高い関心が寄せられないまま、現在に至っていたかもしれないのである。

というのも、事例研究というのは、それを行うのに必ずしも方法論の厳格な定式化を必要としないし、また定式化されずに十分成立してきた。もちろん、選択バイアスを最小化できる形で事例を選択すべきとか、因果メカニズムを図式化するとか、自分が今因果推論の中の何を目的として分析を行っているかに自覚的であるべきとかいうのは、質的方法論の議論が進んだ現在においては当然だが、事例研究を行うのに数学の公式やソフトウェアは必要ではない。

そもそも、量的方法論が発展する以前に優れた量的研究は存在しないのとは対照的に、質的方法論の議論が発展する以前から優れた事例研究は無数に存在している。質的方法論研究者が優れた事例研究の例としてほぼ100%(!)引用するSkocpol (1979) を初めとして、Moore (1966)、Luebbert (1987) など、こうした研究は必ずしも方法論に関する議論を前提とせずに書かれており、にもかかわらず現在においてもその重要性を認められている。近年書かれる事例研究においても、「なぜ他ではなく事例研究を用いるのか」という意味での自己防衛のために方法論に言及されることはあっても、それ以上方法論が議論されることは稀で、でもそれに関わらず研究の内容は評価されていることが多い。実際の質的研究は、質的方法論研究者が定式化するような形では、必ずしも書かれていないのである。例えば、Skocpol (1979) の因果メカニズムを質的方法論の議論を元に定式化しようとすると、あまりに複雑なことになって無理が出てくると言われる。

私見では、質的方法論というのは、結局「我々は何をやっているのか」の確認である。これまで無自覚に何となく見よう見まねでやってきた(なので見よう見まねで学べない人は研究ができなかった)ことを、明確な形で、一般的な言葉で表してみようという試みなのである。そうしなくてもこれまで成立してきたが、量的方法論の側から「お前たちがやっていることは俺たちのやっていることの劣化版だ」と言われたので、「いや、我々がやっていることはこういうことで、君たちがやっていることとはここが違うのだ」と言い返すために、まず自分たちのやり方を振り返ってまとめてみたということであると理解している。

そう考えると、質的研究を行う実証研究者から見れば、質的方法論の議論というのは、量的方法論との比較だからこそ、その存在意義を遺憾なく発揮できたが、比較という文脈を外れると、「別に確認しなくてもやってこれたんだからわざわざ必要ない」ということになる。本来の役割を一旦終えているのだから当然である。そもそも、質的実証研究者の間には、「方法論にこだわりすぎるよりも、新しいアイデアや理論的枠組みを提示することの方が重要だ」という価値観があるのではないかと思われる。

しかし、質的方法論の研究者から見れば、もちろんそうは見えない。やっと批判を退けることができた、じゃあこれから自分たちの独自の発展を希求していこう、ということになる。さらに、彼らの視野の中にはおそらく量的方法論があって、そこに引けを取らないレベルの体系化に達したい、対等なものとして質的方法論研究と量的方法論研究を成り立たせたい、という願望や規範があるのではないだろうか*8。その結果、元々、質的方法論研究者は質的研究者と同じ世界にいて量的方法論主義者と戦っていたはずが、いつの間にか質的研究者と質的方法論研究者の間に溝ができ、後者はむしろ量的方法論研究者と近づいている、同じ価値観を共有しているという状況が、生まれているのではないかと思われる*9

量的方法論においては、方法論の開発→応用という順序で進むのが通常だが、質的方法論は、「我々がやってきたことの確認」なので、使用→方法論的に見た解釈、という逆の順序で進む。必然的に、後者においては実証研究者が方法論に関する議論を参照する必要性が低くなるわけである。量的研究においては、実証研究が方法論を引用するが、方法論の側が実証研究を引用する必要性は必ずしもないのに対し、質的研究では逆に、方法論は実証研究を引用するが、実証研究が方法論を引用する必要性はさほど高くない。このように、量的方法論と質的方法論は、そもそもその性格というか意味付けが全く異なるのである*10。もっとも、例外として質的比較分析(Qualitativev Comparative Analysis: QCA)などは方法論が先に来て、ソフトウェアなども使用した分析を行うものだが、こちらは純粋に方法論としての有効性があまり広く認められていないといえる*11

  • まとめ

以上をまとめれば(冒頭にまとめを書いたので特にまとめる必要はないかとも思うが)、政治学における分析手法としての質的方法論は、量的方法論の側からの批判をきっかけに「自己防衛」の手段として発展し、量的研究と比した場合の質的研究の独自性を明確にする、という目的を持って当初発展した。しかし当初の目的がある程度達成されてしまうと、それ以上の目的が不明確であるため、今後の発展が見込まれるかは不透明な状況である。質的方法論の研究は「これまでなされてきたことの意味付け」という性格が強いため、実証研究者にとっては、量的研究との相違さえ示してしまえば特に方法論の議論を参照する必要性も薄れてしまう。そのため、質的方法論の独自の発展を希求する質的方法論研究者と、質的な実証研究者の間に乖離が生まれ、「方法論者の独り歩き」状況が発生しているのが現状である*12。量的方法論との相違を議論する中で台頭してきた第1世代の質的方法論研究者が今後退場していくなかで、質的方法論が新しい世代の研究者によって新たな発展を見せるのか、あるいは下火になってしまうのかは注目に値する。

なお、ここでは、研究対象としての質的方法論に現状では限界があるように見えるという趣旨のことを述べたが、質的研究(質的手法を利用したsubstanceに関する実証研究)に無理があるとは、私は露程も思っていないことは明確にしておきたい。私自身も、質的手法を主に利用する研究者の卵であり、既に第一期の質的方法論研究によって示されてきたとおり、質的研究には独自の価値が存在し、それは政治学の発展に欠くことのできないものであると確信している。ただ、質的方法論というものの付き合い方についての自分の考えとしては、「自己防衛」としての質的方法論、プラス最近は何が議論されているかぐらいは把握して教えられるようにしておきたいが、自分で方法論を研究対象にするところまで深入りしたいとは思っていない、というところである。方法論者にも満足されるようなデザインで研究したいとは思うが、あくまで対象はサブスタンスとしたい。

ずいぶん長くなってしまった割に、質的方法論に詳しい人なら当たり前の話、あるいはとんでもなく間違った話だったりするのかもしれないが、とりあえず自分の現在の理解をまとめるために記事にしてみた。

  • 参考文献

Barrenechea, R., & Mahoney, J. (2017). A set-theoretic approach to Bayesian process tracing. Sociological Methods & Research.

Brady, H., & Collier, D. (2004). Rethinking social inquiry : Diverse tools, shared standards. Lanham, Md. ; Oxford: Rowman & Littlefield.

Fairfield, T., & Charman, A. E. (2017). Explicit Bayesian analysis for process tracing: guidelines, opportunities, and caveats. Political Analysis, 25(3), 363-380.

King, G., Keohane, R., & Verba, S. (1994). Designing social inquiry : Scientific inference in qualitative research. Princeton, New Jersey.

George, A., & Bennett, A. (2005). Case studies and theory development in the social sciences. Cambridge, Mass. ; London: MIT Press.

Goertz, G., & Mahoney, J. (2012). A tale of two cultures [electronic resource] : Qualitative and quantitative research in the social sciences. Princeton, N.J.: Princeton University Press.

Luebbert, G. (1991). Liberalism, fascism, or social democracy : Social classes and the political origins of regimes in interwar Europe. New York ; Oxford: Oxford University Press.

Mahoney, J., & Barrenechea, R. (2017). The logic of counterfactual analysis in case-study explanation. The British Journal of Sociology.

Moore, B. (1966). Social origins of dictatorship and democracy : Lord and peasant in the making of the modern world. Boston: Beacon Press.

Ragin, C. (2008). Redesigning social inquiry : Fuzzy sets and beyond. Chicago ; London: University of Chicago Press.

Schneider, C., & Wagemann, C. (2012). Set-theoretic methods for the social sciences : A guide to qualitative comparative analysis. Cambridge: Cambridge University Press.

Seawright, J. (2016). Multi-method social science : Combining qualitative and quantitative tools. Cambridge: Cambridge University Press.

Skocpol, T. (1979). States and social revolutions : A comparative analysis of France, Russia, and China. Cambridge: Cambridge University Press.

 

*1:そもそも質的なものに限らず、方法論が研究の対象とされること自体がある時期までは稀であったとも言えるのかもしれない。

*2:以前は複数の手法を同じ分析に使用し、同じ結果が出ることを確かめるというtriangulationと呼ばれる形の複数手法の併用が行われていたが、これは質的方法論と量的方法論が同じ目的を持ち同じリサーチクエスチョンに答えるものであるという仮定に基づいており、Seawrightが主張するような現在の混合手法とは異なる。

*3:もっとも明確にどの時点から変わったという時期区分ができるわけではない。今なおどちらのタイプの研究も共存しているだろうし、どちらも目的としている研究も存在するだろう。あくまで大まかな区分として2つに分けた。

*4:IQMRでAndrew Bennett先生に聞いてみたらそういう答えが返ってきた。

*5:手法が新しくて発展途上というのはあると思うし、私が知らないだけかもしれないのだが…

*6:もちろん新しい論文の方が引用数が少ないのは当然だが、それにしてもという感はある。

*7:そもそも量的研究との相違を議論する研究すらもほとんど参照しない人も多いのではないか。質的研究者のコミュニティ内だけで生活していると、方法論に関する指摘をあまり受けない状況はあると思う。

*8:これはIQMRに参加して強く感じたことである。

*9:例えばこのような状況の例として、DART(Data access and research transparency)に関する議論を挙げることができるかもしれない。DARTは質的研究についてもインタビューなどのデータを公開し、再現性を高めることを主眼とした取り組みで、Collin ElmanやDiana Kapiszewskiといった質的方法論に強い関心を持つ研究者が中心に入って推し進めている。IQMRはまさにこうした人々が組織しているもので、サマースクールの期間中にもDARTに関するセッションがあった。しかし質的研究者の一部には、研究の足かせになるものとしてDARTに反対する人も多い。

*10:ただ、質的方法論の中でも、インタビューやフィールドワークの技法などに関しては、独自の発展に成功しているのではないかと思う。もっとも、これらはデータ収集の方法論であり、これまで議論してきたのはデータ分析の方法論である。ここでは後者だけを議論の対象にしていることに注意したい。

*11:QCAは米英、特に前者ではかなり懐疑的に見られていてほとんど誰も使わないが、大陸ヨーロッパでは比較的使用されているらしい。

*12:このような状況はもしかすると、量的方法論と量的研究の間にも多少はあるのかもしれない。方法論研究者と同じレベルで方法論を理解できる研究者は必ずしも多くはないと思われるので、メソッドの発展に比して応用がそれほど進まない、という状況はありそうだとは思う(が量的方法論を一人前に語れるほど詳しくないので断定的なことは言えない)。