紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

「エスニック料理」とは何だ

飲み会続きの毎日である。今日は朝から(!)大学時代のサークルの友人たちとバーベキューをしてその後ランチで高校の同級生たちとタイ料理を食べ、その前は大学のクラスの友人たちと和食の居酒屋で飲み、さらにその前は東京にいるオックスフォードの友人で集まって沖縄料理屋で飲み、またその前はスカッシュをした後にイタリアンに行き、またまたその前は焼肉、ワインバー、その他諸々と、一時帰国中は連日何かしらの予定が入っている。まあありがたいことである。

さて、こうして人と飲みに行くときに、何を食べるか、どのような店を選択するかという問題は、言うまでもなく死活的に重要である。その選択如何によって、話が弾み笑顔が飛び交い、人類みな兄弟、心の友よ、といった言葉が交わされる至福の空間が生み出されることもあれば、皿が飛び交い料理が床に弾み、お前なんか顔も見たくない、英語交じりの日本語を使うな、これだから紅茶を味噌で煮込むようなやつに店を選ばせたらダメなんだ、しょうもない記事ばっかり書きやがって、などという罵詈雑言が浴びせかけられる凄惨な飲み会が展開される可能性もあるのだ。

そういうことを考えていたときに、これは今回の一時帰国の話ではないのだが、以前こうした店選びの文脈で友人から発せられた言葉に引っかかるものがあったことを最近思い出した。何かというと、エスニック料理」(あるいは「エスニックフード」)という表現である。

エスニック料理とは何か。「エスニック」とは英語のethnicのことであろうから、つまり直訳すれば「民族料理」となり、従ってありとあらゆる民族集団(民族とされるものも一様ではないとか、そもそも民族なるもの自体がsocially constructedなのだという議論は真っ当だがとりあえず脇に置いて)の料理がすなわち「エスニック料理」であるということになる。しかし、実際にはそういう風にこの語は運用されていない。フランス料理をエスニック料理と呼ぶ人を目にしたことはないし、中華料理に対しても使用されている印象はない。それでは一体何がエスニック料理で、何がエスニック料理ではないのだろうか。その謎を解き明かすため、取材班は現地へと向かった。

綿密な現地取材によって得られた情報(i.e. 適当にネット検索した結果)によると、「デジタル大辞泉」にはエスニック料理の定義として、「民族料理。特に、アジア・アフリカの料理のこと。」とあり、もう少し詳しい説明を載せている百科事典マイペディアでは、以下のように説明されている。

エスニックethnicは〈民族の〉という意味であるが,日本でエスニック料理という場合は,インドネシア,タイなど東南アジアの料理や,インド,西アジア,中近東といった地域の料理をさすことが多い。日本の料理とは異質な,そして従来から知られている中国や朝鮮などの外国料理とも違うエキゾチックな味や雰囲気を楽しみたいという人が増えて,近年,そうした国々の料理を専門とするレストランが多くなっている。

まあ要するに、外国料理のうち、香辛料を使っていたりする、一般的な日本人には馴染みがないような料理のことをぼんやりと呼ぶ言葉だということになるだろう。やはり思ったとおり、エスニック料理という言葉は全ての民族集団の料理を含む形では運用されていないのだ。そこにはフランス料理、イタリア料理といった西洋の料理は含まれず、また中国・韓国といった近隣の国々の料理も入っていないようである。ロシア料理なんかは微妙なところかもしれないと想像する。

つまり、「エスニック料理」という言葉は、字義通りに解釈した意味と、実際に使用される意味が異なっている、より具体的には、前者の中の一部が後者である、ということになる。私が気になるというか、この言葉に違和感を覚えるのは、このエスニック料理という言葉の使い方が、私たちの対外認識と重なっているような気がするからだ。つまり、「エスニック料理」という呼び方は、個々の差異を無視した(メキシコ料理とタイ料理の違いは、フランス料理とイタリア料理の違いよりも小さいのだろうか?)ある種乱暴な呼称で、しかも「何だか異質な、よく分からない、ちょっとこわごわ興味本位で冷やかしながら食べてみるようなもの」という印象が付きまとう。そうした印象がない、純粋にその料理を愛していて深く理解したいと言うのなら、タイ料理、インドネシア料理、ブラジル料理といった個々の名前で呼べばいいわけで、「エスニック料理」というような曖昧模糊とした変な言葉を使う必要はないはずだ。少なくとも私の感覚では(そして恐らく多くの人々の感覚とも離れてはいないと思う)、エスニック料理」という言葉には、(もちろんほとんどの人は意識していないにせよ)そのカテゴリに入れられる文化に対する、一種の軽侮があり、俗な言い方をすればそれを「下に見ている」という側面があるように思われる。だから気持ち悪いのだ。西洋も我々にとっては本来大いに異質であるはずなのにも関わらず、それは一つ一つ区別して、場合によっては「高級」イメージを付けたりしながら、他方で他のいわゆる「第三世界」の国々の文化は大雑把にまとめて軽く扱ってしまう、そうした心性がこの言葉にはうかがえる。

ところで、「エスニック」という言葉は直接的には英語からの輸入だと思われるが、英語でも "ethnic food / cuisine" という表現は使用されるのだろうか。試しにまた適当にGoogleで検索してみたところ、単にethnic foodと検索した場合は約 202,000,000 件、ダブルクォーテーションマークで囲んで検索した場合には約 4,300,000 件の結果が出てくることから、少なくとも日本語の「エスニック料理」(約 23,800,000 件/約 3,190,000 件)に匹敵する一般的な表現ではあるようだ(日本語の検索結果と英語の検索結果の母数がどれだけ違うのかはよく知らないのでこの数字にあまり意味はないのだが)。そして日本語と同じように、この言葉がどのように運用されているのかを調べようと思って情報を漁っていると、Washington Post紙のウェブサイトに面白い記事があった。

これはアメリカのニューヨーク大学のKrishnendu Rayという教員が書いたThe Ethnic Restaurateurという本に関するインタビュー記事らしいのだが、アメリカにおけるethnic foodの歴史とそれに対する認識について、面白いことが書いてある。

The word ethnic has this complex history of both trying to reflect changing relationships and understandings of culture and trying to avoid more taboo terms. It came into play mostly in the 1950s, and is most commonly used in the world of food to mark a certain kind of difference — difference of taste, difference of culture. But you will also see marketing absorb it as a less fraught term than race. You see it in aisles at stores, where products that are not for white people might be advertised as being for ethnic people. You see it in the grocery store. Food that isn't associated with whites will be called ethnic.

最後の太字部分に書いてあるように、アメリカ人にとっても、ethnic foodとは、マジョリティとしての白人にとって異質なものを意味するようである。ただ、何がethnic foodであるかの意味範囲は時代によって異なり、過去にethnic foodの代わりに使われていたforeign foodという言葉は、ドイツ料理やアイルランド料理に対しても使われていたという。さらに記事は続く。

When we call a food ethnic, we are signifying a difference but also a certain kind of inferiority. French cuisine has never been defined as ethnic. Japanese cuisine is not considered ethnic today. Those are examples of cuisines that are both foreign and prestigious. There is no inferiority associated with them.

上で我々が「エスニック料理」と言うとき、対象を下に見ているのではないかという話をしたが、ここでも同じようなことが書かれている。ethnicという言葉を付けるときは、劣等なものというイメージが付与され、それはフランス料理に対して使われたことはないし、日本料理は現在ではその意味範囲を脱しているが、他の多くのアジア・中南米・アフリカといった地域の料理には使用されるという。そして、その認識の違いは、アメリカ人が各料理に対して払う値段にも如実に反映されていて、 フランス料理や日本料理には数十ドルを払うのに、ethnic foodとみなしたものには10ドル程度しか払わない。

そうした差別化の背後には、他文化に対する理解の欠如や、自文化中心主義があり、人種差別的な要素も含まれ、それぞれの国から来る移民の社会経済的地位の違いなども関係しているとRayは述べている。結局のところ、日本でもアメリカでも、恐らくその他の多くの国でも、各国料理に対する見方はこうした文化的な「ヒエラルキー」を反映していて、また実はその構造は多くの場所で似たり寄ったりなのではないだろうか。別に「言葉狩り」をするつもりは毛頭ないし、多くの人は他意もなく使用しているわけだから、人がこうした言葉を使うことを一概に否定しようとは全く思わないが、個人的には、「エスニック料理」という言葉は使いたくないし、どうしても使うとすれば西洋料理にも、中華料理にも、全ての料理に対して使用したいものである。

「今日エスニック料理食べてくるよ。え?いや、フランス料理。」