紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

都会の昆虫少年だったあの頃

月末から月初にかけてアメリカに行って学会発表をしていたため、更新がだいぶ滞ってしまった。このブログの月別記事数を見てみると、ほとんど月3記事ペースで書いているようだが、6月と7月は休み期間だったからか、更新頻度が増えていた。しかし8月で月3に逆戻りである。9月はどれだけ書けるだろうか。 

日本に戻ってきて、東京にいた8月の間は、美術館や博物館、水族館といった場所によく出かけた。もちろんオックスフォードやロンドンにもそうしたものは沢山あって、そちらでも行くことはあるのだが、どういうわけか日本に帰るとそうした場所に行きたくなる。というより、日本にいない間に「日本で行くべき場所」がどんどん溜まっていくのだろう。逆に日本にいる今は、イギリスに戻ったらどこに行きたいとかそういうことをよく考えている。 

今回行った場所の中で特別自分にとって印象深かったのが、国立科学博物館の特別展「昆虫」である。香川照之が載っているポスターを目にした人もいるかもしれないが、上野の国立科学博物館で現在も開催中の特別展である*1

印象深かったといっても、この展示自体が特別に私に強烈な印象を残したというわけではない。いや、最初子供向きかと思いきや大人にも面白い標本や説明などが見られ、昆虫の生態について好奇心が満たされる仕掛けになっていて、確かにとても面白いのだが、私が印象に残っているのは、この展示というよりも、それを見て昆虫が好きだった自分の少年時代を思い出したからなのだ。私は「都会の昆虫少年」だった。

生まれ育ったのは大阪の東の方の、いわゆる下町めいた特に何の変哲もない街で、野山を駆け巡って虫取りに励む少年時代を送ったわけではない。野も山もなかった。しかしそういう都市部には都市部を生活の拠点とする虫がいるもので(生息域別の昆虫紹介は「昆虫」でも展示があった)、子供のときは兄と一緒にアリを追跡してアリの巣の場所を突き止めたり、カマキリが産んだ卵を放置していたら孵化して大変なことになったり、通学路にあった花梨の樹を揺らすとシロテンハナムグリやアオドウガネが一斉に飛び立つのを捕まえたり、小学校のプール開き前の掃除の時にヤゴを採集して家で育てたりしたものだ。なかでも一番夢中になったのはやはりカブトムシやクワガタで、といっても家の周りにはいないから、家族旅行の時には両親に無理を言って毎回夜は昆虫採集に出かけた。また小学生の頃は外国産のクワガタ・カブトの輸入が盛んになった時期だったこともあり、なけなしの小遣いをはたいたり親や祖父母に時々買ってもらったりして色んな種類を飼育し、繁殖させていた。実際の昆虫と触れ合うだけではなく、図鑑を読んだりインターネットでクワガタ飼育記や採集記を読み漁って想像を膨らませたり、もっと幼い頃には学研の「昆虫たんけん」というゲーム?で遊んだりもした。そこに出てくる「ムシムシマン」というキャラクターが変な声で、強烈な雰囲気を放っていたのを覚えている。
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そうした少年時代を過ごしながら、いつしか兄も私も昆虫からは離れていき、中学・高校・大学と特に昆虫に深い関心を抱くこともなく行きてきた。今では政治学なんていう堅苦しいことをやっている。子供の頃は昆虫を初め生き物や自然全般に興味を持っていたのに、いつしかそうした興味は後景に退き、今では国家や社会といった人間の構築物を相手にしている。しかし私は昆虫少年ではあっても、決して政治少年ではなかった。というか、政治少年ってなんだ。そんなものがいるとすれば、危険なのでできるだけ半径5メートル以内に近づくのは避けるべきである。歴史少年ではあったと思うし、今も歴史的なアプローチを使って研究をしているが、歴史学をやっているわけではない。

政治学を含め、社会科学をやっている人は現実社会における諸問題に対する憤りとか、違和感を出発点にしている人が多いように思われる。当然「私の意見」をそのまま論文にしても学界で相手にされるわけはないが、何の問題意識もなく社会科学研究をやっている人がいたらそれはそれで普通ではないと思う。もちろん、こうした現実社会への憤りや使命感、あるいは公正や正義といったものの追求は、それ自体とても尊いことだと思う。自分も今の研究関心が生まれる背景には、世界のあり方に対する強い問題意識があって、研究を通じて間接的にでも世界を変えたいという思いがある。

しかし正直、それを毎日やっていると、それだけでは疲れてしまう面もある。子供の頃から好きだった昆虫や魚や動物を「純粋な好奇心」の赴くままにそのまま研究している人が羨ましく見えたりするのだ。まあ、自分がそういった分野を選ばなかった(高校で「文系」に行った)のは、そうした分野に行っても自分はあまり大したレベルには達しないだろうと思ったのと、人間社会に関わりたかったからであったと思う。その点では今でも妥当な選択だったのではないかと思うが、私にとって政治学や国際関係論といった分野は、特に「必然」ではない。何か少しでも状況が違えば、他の学問を選んだであろうことは疑いがない。研究者を目指すこと自体は、少々状況が違おうが変わらなかっただろうが、分野選択は、あくまで経路依存の結果であった。まあ、他の分野を選んでいた自分を想像するというのは、結局隣の芝生は青いというやつで、私の頭の中にある昆虫研究者は、必ずしも実際の昆虫研究者と同じではないのだろうし、選択を行った今となっては、選んだ道を進むしかないのが現実である。まあ、政治学において日々生産されている研究の大半を私は面白いとは感じないけれど、自分が面白く思える研究をやっている人や、自分の研究を面白いと認めてくれる人はそれでも沢山いて、そうした人にアクセスできる環境に今自分がいるということは確かで、それはとても恵まれたことであるのだ。

そういえば、昆虫関連で、今もって謎のエピソードがある。我が家では、飼っていた昆虫が死ぬと、土に埋めて埋葬する、ということを習慣にしていた。ある時、クワガタか何かが死んだ時に、兄と向かいのアパート(昔どこかの会社の社員寮か何かだったが長らく空き家になっていた)の庭に埋めておいたのだが、翌日見てみると、埋めておいた場所の近くに、小さな花が置いてあったのである。そこに生えていたわけではなく、明らかに誰かが置いた形であった。家族に聞いてもやっていないというし、そのときは「ちゃんと大事にした褒美にムシムシマンが置いていったのだ」ということに落ち着いたが、一体あれは何だったのだろう。

 

P.S. ところで、昆虫少年だったころへの懐古に浸った私は、ちょうど近くに滞在していたこともあって、昆虫好きの聖地の1つである「むし社」(中野)を初訪問して、セールに乗じて10年以上ぶりにクワガタを買ってきた。ブルイジンノコギリクワガタというやつである。子供の頃はヒラタ系を中心に飼育していたので、初めての種類だ。かっこいいですよね?

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*1:ところでこのポスターでは、香川照之が日本の田園風景を背景に、外国産のアクタエオンゾウカブトを手に持っているのだが、これは少し誤解を招く描き方ではないだろうか。というのも、この写真だとあたかも日本でアクタエオンゾウカブトを採集したかのように見えるが、同種は日本には生息していないし、外国産の昆虫は生態系を乱すため、飼えないからといって決して野外に逃してもいけない。野外でこんな外国産のカブトムシを喜んで持っているのは危ないのだ。