紅茶の味噌煮込み

オックスフォード留学記

散髪迷走記、あるいは「ぼんち揚」をめぐる物語

外国に住むということは、当然だが、生活上のあれこれを外国のものに切り替えていくということを意味する。現地の銀行にお金を移し、現地の食材を使って料理をし、現地のティッシュで鼻をかまなければならない。もちろん日本から持ってくることができるものもあるし、変わらない習慣などもあるだろうが、多くのものについては早晩現地化するものだろう。

散髪というのは、そうした事例の1つである。髪が長い人の場合、日本に一時帰国したときだけ切る、ということもできるが、髪の短い人間は1ヶ月に1回は散髪を必要とする。1ヶ月に1センチ伸びるとして、30センチの髪の人が31センチになるのと、5センチの人が6センチになるのとでは見た目にも全然違うだろう。私も世の多くの男性と同じく、髪は短いので毎月散髪しなくてはならない。

しかしイギリスの散髪文化というのは日本とはかなり違っている。まずシステムが全く異なる。私が行くのはbarber(理髪店)だが、日本ではシャンプーや顔剃り、時にはマッサージといったサービスがあるのに対し、イギリスではただ切るだけで流さない。その代わり1回12ポンド程度と、価格は非常に安く抑えられている。言うなれば、街のbarberが全部QBハウスなのである。また、通常予約はできない。店に行って、埋まっていたら待って、大体1人20分程度で終わるので、空いた席に順番に座っていくという形式である。

技術的なことは詳しくはわからないが、1つ気づいた点として、バリカンの使用頻度が高い。長さが1・2・3の3種類あり、客はそれぞれの長さのイメージを知っていて、自分の希望する長さを伝えるようになっているようだ。

そして困るのが、通常のヘアスタイルが日本とは大きく違うという点だ。例えば私は日本ではサイドとバックをツーブロック(端に近い部分を短くカットして上から長い部分を被せるカット)にしていたが、これは和製英語らしく、イギリスでは通じない。一対一で対応する英語もない。最初"undercut"と呼ぶのだと教えられたが、undercutは短くする部分をそのまま野ざらしにして、上から毛を被せないのでこれは違う。次に、"graduated haircut"だと言われたこともあるが、これはだんだん短くなるグラデーションということで、undercutよりはイメージが近いものの、ツーブロックのように2つに分かれているのではなく、徐々に短くなるので、これも厳密には同じではない。離散変数と連続変数の違いと考えて頂ければ分かりやすいだろう。結局、説明するとしたら、graduated haircutみたいだけどdisconnectedなやつ、という風に色々言葉を付け足して説明するしかなくなる。

ただ、そうやって伝えたところで、相手との髪型の共通理解がないから、相手と同じイメージを共有できているかは、実際カットされるまで分からない。これがしばしば悲劇を生む原因になるのだ。

昨年オックスフォードにやってきたばかりのピカピカの1年生であった私は、早速散髪に関する情報収集を始め、複数の友達から、Covered marketにあるDukesというbarberが良いという評判を聞いて行ってみた。1回目は、その店の恐らく一番古株らしい強面のおじさんが担当し、100%ではないにせよ一応伝えたかったことも伝わったようで、それほど原型を崩すことなく切ってもらえた。

しかし、それで安心した私は、次の散髪以降迷走することになる。一度日本人がやっているところも試そうと思ってオックスフォード外のさる日本人経営のところに行ったら、店主がちょっとおかしい人で、再び行くのはやめにした。そこでDukesに戻ったのだが、今度は見るからに新人の理容師に、サイドとバックを全体的に短くカットされてしまい、それを見た友達の1人から、金正恩みたいな髪型だという汚名を頂戴した。そこで別の店に行ったら、今度は何も言っていないのにもみあげを消し去られた。私にとって散髪は、毎回びくびくしながら行く恐ろしい賭け事のようになってしまったのである。

そこで何度目かにようやく出会ったのが、Waltersというところで今切ってもらっている理容師である。といってもこの方、正直に言って見た感じ20代アジア人男性の髪を切るのに長けているとは思えない。というのも彼女は推定50代くらいの太ったオーストラリア人のおばちゃんで、恐らく染めた白銀の短髪を逆立て、豪快にガハガハと客と談笑しているのが常の姿なのであるから、私がそうした印象を抱いたのも理解してもらえるだろう。写真はないので見てもらうことはできないが、彼女に非常に似ているアニメのキャラクターがいる。リトル・マーメイドに出てくる魔女、アースラである。アースラから邪悪さを抜いたら彼女になると考えてもらえば、まず85%正確であると思って頂いてよい。

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しかし驚くなかれ、このおばちゃんはハサミを握るや極めて有能な理容師へと変貌し、私の完全とは言えない説明から私が求めている髪型を理解し、かつそれで合っているか何回も聞き直してくれるのだ。この相手の希望を理解するまで聞き直す、という能力はなかなか得難いものであり、振り返ってみると私が経験した散髪上の失敗の多くは、意思疎通の齟齬によるものであったと思う。それは言語的な問題ももちろんあるが、先に述べたように彼らは我々にとってよくある髪型というのを理解していないし、私は彼らが理解していないということを十分に理解していなかった。技術的な問題ではなかったのだ。相手と同じ共通理解の上に立ってコミュニケーションを取る、ということがいかに難しいか、失敗から学ぶことはあった(という後付けの正当化)。

しかもこのおばちゃん、話も面白く、私が日本から来たと言うと、25年前に(!)日本に行った話をしてくれた。聞く所によるとおばちゃんの妹だか姉だかが、昔日本で英語を教えていたらしく、彼女を頼っておばちゃんは一度旅行に行ったらしい。そこでアボカドと間違えてわさびを食べて以来二度とわさびは口にしていないとか、お好み焼きがめちゃくちゃおいしかったからまた食べたいとか、そういうエピソードを豊富に持っている。というか、25年前に行っただけなのに、未だにokonomiyakiなどという長ったらしい単語を覚えていることは、驚異的である。

そうした会話の中で、おばちゃんは日本にいた時に食べまくっていた大好きなお菓子があると言い始めた。名前がなかなか出てこなかったのだが、ついに思い出したその名前は、「ぼんち揚」である。カリッと揚げた甘じょっぱく香ばしい人気の揚げ煎餅で、私自身も言われてみればかなり好きな部類に入るお菓子だが、おばちゃんはその味が忘れられないらしく、bonchi bonchiと連発して懐かしがっていた。 

そして、ここにおいて、我々の間に1つの歴史的な協定が結ばれたのである。すなわち、私が一時帰国時にぼんち揚を買ってくれば、次回の散髪代をタダにしてくれるというのである。ぼんち揚の値段を考えてみればこれは私に一方的に有利な条件のようだが、おばちゃんにとっては遠い異国から懐かしい味をもたらしてくれる私の存在は貴重なはずで、たかだか20分の散髪には十分値する取引のようである。大航海時代の商人の気持ちが手に取るようにわかる。

この取引をしたのが夏前。夏の間、この協定を私はしっかり覚えており、ぼんち揚をスーツケースに詰めて渡英した。そして、先週、髪の伸びてきた私はついに、ぼんち揚を携えておばちゃんの元へ向かったのである。

持ってきたぼんち揚を見せるとおばちゃんは大喜びで、今日はいい日だ、食べるのが待ちきれないと終始テンションが上がりっぱなしだった。きっと帰って一瞬で平らげてしまったことだろう。そして私はしっかりと無料の散髪を享受した。今度冬に帰国する時には、またぼんち揚を持って帰ろうと思う。

オックスフォードの日常の、一コマである。