紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

「目的」としての日本研究、「手段」としての中国研究?

学期が終了し、オックスフォードは徐々に学生の数が減って空っぽになりつつあるが、私も今週パリ経由で帰国する予定だ。パリで3泊ストップオーバーするという旅程は1ヶ月ほど前に決めたのだが、ここに来てパリの政情が怪しくなってきた。毎土曜日に大規模なデモが行われるということだが、ちょうど私が帰りの飛行機に乗るのも土曜日なので、急遽最終日のホテルを空港付近に移した。気をつけて行ってこようと思う。イギリスでもBrexitをめぐる混乱があるし、また欧州各国で排外主義的な政党が選挙で勢力を伸長する傾向が見られるという、何とも落ち着かない時期にヨーロッパに留学に来た感じがする。

イギリス国内でも多様性ある社会を好まない人達が多くいることはBrexitの過程で浮き彫りになっているが、少なくともオックスフォードにいる限り、そのような人に出会うことはほとんどない。学部生は裕福な白人がほとんどを占めているのでまた別世界な感はあるが、オックスフォードの院生は留学生の割合が高く、中でも私が所属しているカレッジ(St. Antony's)は特にそうである。ヨーロッパを始め、各地域から留学生が来ていることは、これまでのブログでも紹介してきた。

時々ダイニングホールを上から眺めてぼーっとしていることがあるのだが、そうすると気づくことがある。多様性あるカレッジの中でも、ある程度バックグラウンドに従ったグループができていることだ。あのテーブルはラテンアメリカ系の人が多いとか、あっちはドイツ人が固まっているなとか(ドイツ人がおそらくカレッジの最大勢力)、こっちではアジア系の学生が集まっているとか。もちろんお互いの行き来は頻繁にあるわけだが、似た者同士が引き合うのはある程度自然なことだろう。

St. Antony'sが多様性に富んでいる大きな理由の一つとして、地域研究のセンターが同カレッジに付属していることがある。中東研究センター、ラテンアメリカ研究センター、ヨーロッパ研究センター、そして日本研究センターなど。こうした研究センターが提供するプログラムに所属する学生の多くが、St. Antony'sに所属している。

私は研究内容に日本が特に関係ないので、日本研究センターと直接の繋がりはないのだが、やはり日本人ということで日本研究関連の院生に友達は多い。ある時、彼らと中国研究のプログラムに所属している友人とを比べて、両者の間には結構大きな違いがあるのではないかと思った。(※以下特にデータの裏付けのない個人の印象である。)

日本研究を専攻している、修士課程(博士になるとまた別だと思う)の、日本をバックグラウンドに持たない学生*1と、中国研究を専攻している、修士課程の、中国をバックグラウンドに持たない学生を比較した場合、前者の方が平均的に対象(日本/中国)に対する造詣が深いように思えるのだ*2。つまり、日本研究の修士をやろうという人は、たいてい日本文化に惹かれて入ってくるし、既に日本で一定期間を過ごした経験もあるという人が多い。他方で中国研究の修士は、どちらかというと「今の時代中国を理解していると、キャリアの上で有利だ」というメンタリティで入ってくる人が多いような印象がある。言い換えれば、日本研究の修士に入るのはこれまでの選好の「結果」でありそれ自身が「目的」という傾向が強いのに対して、中国研究の修士に入るのは将来のキャリア決定の「要因」であり目的達成のための「手段」という側面が強いのではないだろうか。(知らんけど。)

これは一見、日本にとって「良いこと」であるようにも感じられる。「日本好き」が日本を勉強してくれているのだ。それ自体悪いことではないに違いない。ただ、見方を変えれば、日本研究は日本好き「しか」集められなくなりつつあるということも言えそうだ。日本経済が右肩上がりであった時代には、日本を理解していることで、将来の仕事に繋がり、キャリアアップを図れる可能性があった。しかし今日本語を話せたとしても、残念ながら特に実利は得られないのが現状だろう。

その論でいくと、かつての日本研究の学生たちは、今の中国研究の学生たちと似た傾向があったはずだが、実際はどうだったのだろう。気になるところである。

まあもっとも、経済的な成功がその地域への関心を高める唯一の要因ではないことは、中東研究への注目の高まりを見れば明らかだが、ネガティブな出来事によって注目を集めるのはあまり望ましいこととは言えないだろう。

 

*1:いわゆる「非日本人」だがイコールではないのでこの語は使わない。

*2:なお、ネイティブの割合は日本研究より中国研究の方が圧倒的に高い。