紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

カタール日記 総集編:ドーハでわしも考えた

約2ヶ月半に及んだカタール、ドーハでのフィールドワークを終えた。この間の生活について、ブログでも毎週まとめようと思っていたのだが、最初の2週間しか続かなかった。この点に関しては誠に慚愧の念に堪えないのだが、言い訳をすれば、毎週更新するほどの材料がなかったのだ。下記の記事を見れば分かる通り、第2週の時点で既に退屈を感じ始めていたのだが、その後も一発逆転で刺激的な毎日になる、ということは特になかった。

もっとも、刺激的でなかったからといって、何か不快な体験があったとか、この国が嫌いになったとか、そういうことではない。ゼロはマイナスではないし、阪神が優勝しないということは巨人が優勝するということではないのだ。

というわけで、今回はカタール生活の全体を振り返って、考えたことをまとめたい。

研究上の成果 

さて、私がなぜカタールに滞在していたかというと、 博士論文の研究(天然資源と国家成立過程の関係)でカタールを事例の1つとして扱っていたためであった。そう、お忘れかもしれないが、私は研究のためにカタールに行っていたのである。私自身が一番お忘れである。

研究上の目的は2つあって、1つは、カタールの脱植民地化期の一次史料を収集すること、もう1つは、独立期を知る人にインタビューすることだった。ただ、前者に関しては、既存の研究のほぼ全てが、イギリス側の一次史料のみを用いており、実際現地にどれだけ史料があるか疑問であったこと、後者に関しては、カタールの独立が1971年であることを考えると、当時のことを知る人が存命である可能性が低いこと、またいたとしてカタールの重要人物にそう簡単にアクセスできるのかという疑問があり、フィールドワークで何ができるのかについては、自分でも懐疑的だったのが正直なところだ。それでも、研究対象としている以上、一度現地に赴いて、生活を体験し、現地の研究者とのネットワークを築くことも必要であろうと思ったため、行くことにしたわけである。

結局、(残念ながら)私の予想は当たり、直接的なフィールドワークの成果はあまりなかった。まず、Qatar National Libraryという巨大な図書館に何度か通い、一次史料の所在について聞いたら、まだ組織自体が新しく、所蔵資料のカタログ化も進んでいないため、何があるか自分たちでも把握していないと言われた。展示ブースの資料も、多くがイギリスから借りているような状況であった。現在政府が公文書館を整備しようとしているという噂を耳に挟んだが、まだ先のことであるらしい。

インタビューに関しては、数人に一応話を聞くことができたが、いずれも政策担当者として当時活動していた人ではなく、二次的な情報を持っている人であった。かつ、現在のカタールの周辺国との関係を反映してか、何の話をしてもblockadeに結び付けられることもあり、そういう時はとても対応に困った。同時期にフィールドワークをしていたレバノン人のケンブリッジのPhDの友人がいたのだが、彼は色んな研究者に頼んでも、全然インタビュー相手を紹介してもらえず、フラストレーションが溜まっているようだった。私達のように、2・3ヶ月ふらっと来て、すぐに色んなものにアクセスができるほど、カタールは甘い国ではないようである。とはいえ、負け惜しみを言えば、「何もないことを確認した」ことも一つの成果とも言えるかもしれない。

まあ、厳密に言えば収穫はゼロではなく、QNLで独立期の写真を結構な数収集することができたのと、今後取り組めるかもしれない研究テーマを1つ思いついたのは、一応の収穫であった。そして何よりの収穫は、このケンブリッジの友人であったかもしれない。以前の記事でも書いた通り、オックスフォードでなかなか関心の近い院生を見つけられないというのが私の不満であったのだが、今回出会った彼は、中東が対象地域でIR専攻という、私と共通点の多い関心を持っていて、また性格も合った。今後一緒に研究することもできるかもしれないし、そうでなくても良い友人ができたことは糧になるだろう。

ハードの充実とソフトの不足

研究面では大して面白味のあることも言えないので、生活面に移ると、カタールの生活環境は、何事も「ハードの充実とソフトの不足」でまとめられるような気がした。以前の記事でも書いた通り、ドーハで見るものはどれも、ふんだんに資金が投入されていることをうかがわせるようなものが多かった。ホテル、美術館、ショッピングモール、車、街行く人が持っているハンドバッグ・・・。私が所属していたジョージタウン大学カタール校の設備も、素晴らしいものであった。いわゆる「ハコモノ」の充実度には、目を瞠るものがある。

ただ、その空間を埋めるべき中身については、まだかなり発展途上という印象である。食事のクオリティ、観光地とされる場所のコンテンツ、大学における研究・教育、などなど。巨大で壮麗な建物を有している一方で、所蔵資料のリスト化も行っていない前述のQNLなどは、その最たる例と言えるかもしれない。

そもそも、カタールという国家が成立してからまだ50年弱しか経っていないし、現在のような形でドーハの街が発展し始めたのは、それよりもさらにはるかに最近のことである。それを考えれば、いわば「天から降ってきた」(地から湧いてきた)石油・ガス収入を利用して、「形から入る」という今の状況は当然だと言える。ハードもソフトも充実していない状況と比べれば、余程マシというものだ。

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海岸沿いに立ち並ぶ高層ホテル群も、稼働率は低いという話を聞く

人は優しいが・・・

カタールで暮らす中で驚いたことの第一は、出会う人の親切さであった。私が滞在していた大学の寮の従業員は、フロントの人から清掃係、セキュリティに至るまで皆非常に礼儀正しく、にこやかで親切であった。レストランに入っても笑顔で質の高いサービスを提供してくれるし、滞在中病院にお世話になることがあったのだが、その時の看護師や医師もとても優しかった。何より、私が大学でお世話になった先生方は、ほんとうに素晴らしい人達だった。特に、Zahra Babar先生とMehran Kamrava先生、この2人には、一方ならぬお世話になった。

ただ、上記の人々は皆、カタール人ではない。カタールだけではなく湾岸諸国に共通だが、国内に居住している人のうち、その国の国民の割合は非常に低く、サービス業に従事しているのはほとんど外国、特にインドやフィリピンからの出稼ぎ労働者である。大学においても、カタール人の教員は少なく、特に私の所属していたジョージタウン大学では、おそらくゼロだったのではないだろうか。外国人として、外国人らしい生活をしている限り、日常生活の中でカタール人と接することはほぼないといってよい。カタールにおいては、カタール人の社会と、外国人の社会は二分されている。さらに言えば、外国人の社会の中でも、いわゆる「ブルーカラー」の社会と「ホワイトカラー」の社会は断絶しているようである。そこには、「移民の統合」などという問題は生じ得ない。彼らは短期間、仕事のために滞在しているだけであって、その仕事が終わればカタールに留まることなく自国に帰ることを要求されている。一度、所属大学の先生に「退職した後もここに留まるんですか」という無知な質問をしてしまったことがあったのだが、大学教授であろうが何であろうが、退職してしまえば即出国しなければいけないわけである。こうした移民労働者の扱いについては、湾岸各国で問題になっているし、働いている人から不満の声を聞く機会もあった。

他方で、カタール人と会う機会も何度かあった。インタビュー相手が中心であったが、一度その1人が主催する、「マジリス」に招待して頂くという貴重な経験もできた。マジリスというのは、週に1回ほど、誰かの家の応接間で開催される社交の場である。親族や友人が集まって、(男女別で)お茶や食事を共にしながら、近況を報告し合ったり、諸問題について議論したりする。私が参加させて頂いたのは、引退した元大学教授の方のマジリスで、来ているメンバーは元大使とか、元大学学長とか、石油会社の重役とか、そういうお偉いさんばかりで、ゲストが到着するごとに全員立ち上がって一人ひとり挨拶していくのだが、来る人来る人みんな「何だこの若い東洋人は?」という感じで戸惑いながら挨拶されるのでとてもアウェーな雰囲気であった。本来親しい人が集まる場に迷い込んでしまったのだから、まあ当たり前かもしれない。そして、会の最後に、「このマジリスでは毎回誰かが短いスピーチをして議題を提供し、議論することになっている。今回はせっかくだから君が何か言ってくれ。」と突然無茶ぶりをされ、何か適当な話を急ごしらえですることになった。その日はへとへとになって帰路についたのを覚えている。

しかし、驚いたのが、インタビュー相手のカタール人と街を歩いていると、そこかしこで元大使とか、会社の重役といった人と出くわすことだ。これはこのインタビュー相手の人がそもそも顔が広いというのもあるのだろうが、小さな国で、少ない国民で要職を回しているからこそ、「みんな知り合い」のような状況が生まれるのだろう。

カタールの人を観察していると、やはりカタール人は「特権階級」なのだなと思わされる。ショッピングモールに行けば、カタール人家族にフィリピン人メイドが付き添って買い物に来ているのをよく目にするし、外国人のドライバーが運転する車で大学に来るカタール人学生を目にすることも多く、マジリスではインド人とみられる使用人がお茶を給仕していた。 使用人に対する態度などを見ていても、そうした対等でない関係に疑問を持っていない人も多いのではないか、と想像される。もっとも、私はたかが2ヶ月、外国人の立場から社会の表層をちらっとのぞき見しただけなので、何も断定的なことを言う資格はないし、そのつもりもない。上記は、別に誰かを批判しているわけではない。ただ、カタールが相当特殊な社会であるということは、言えるのではないかと思う。

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カタールでのアカデミックキャリア

上記のケンブリッジの院生とは、オフィスも隣で、寮も同じだったこともあり、色んな話をした。その中でよく話題に上ったのが、「この国で研究者として働きたいと思うか」であった。博士号を取得した後、ポスドクあるいはAssistant Professorなどの身分で、カタールに就職するのは選択肢になりうるか、という話である。私達の回答は共通で、「待遇は良いだろうけど、ちょっと・・・」というものだった。

私達が所属していたジョージタウン大学は、ハード的には申し分ない設備を有しているし、資金も潤沢にあると思われる。おそらくだが、教員の給与も相当高いに違いない。そうでなければ、砂漠の真ん中に人を呼べないだろう。なので、きっと給料の安いイギリスの研究職と比べれば、条件面では恵まれているということは想像に難くない。

ただ、この国で何年も生活していくのは、容易なことではないなと2人の意見が一致した。夏は外を出歩けないほど暑くなるし、街には緑がほとんどなく、娯楽にも乏しい。街を歩いていて歴史や文化を感じることもあまりなく、社会的な制約も厳しい。食事が美味しいわけでもない(※これはイギリスも同様)。

何より、紛う方なき権威主義体制の下にある社会で、政治学の研究を行うということには相当な困難が伴う。カタールは他の周辺国と比べれば、格段にオープンで縛りも緩いとは言えると思うのだが、そうは言っても、日本やイギリスと比較できるものではない。何を言ってもOKで、何がNGか、明確な基準があるわけでもなく、というかそれが恣意的に決まってしまうのが権威主義体制なのだ。私にはそのようなストレスに耐えられる自信はない。

 

とまあ、こういうことを色々と考えた2ヶ月間であった。ところで、もちろんこの記事のタイトルはここから来ている。

インドでわしも考えた (集英社文庫)

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