紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

笑気ガス抜歯体験記

歯医者に行くのがキライだ。

まず混んでいるのが気に入らない。予約の電話を入れようとしても、空いている時間の方が少ないくらいだ。歯医者に行くのが趣味という人でもいるのだろうか。

次に歯医者に時々チャラチャラした連中がいるのが気に入らない。親や祖父の代からの歯医者で、無闇に日に焼けていかにも高級車乗り回して週末はサーフィン楽しんでますという風情の「ちょいワルおやじ」みたいな風貌で、常にタメ口でエラそうな歯医者に出くわしたことがある。蹴っ飛ばしてやりたいが、そんなことをしたら歯を5本ぐらい抜かれそうなのでやめておいた。

そして治療方法が気に入らない。私は注射を打つときも必ず自分の目で見ないと気が済まないタイプだが、治療中の口の中を見ることは不可能だ。自分の知らない間に何かをされるというのは、とても落ち着かないものである。それにあの音。「キーン、ギュルギュルギュル、ヒュイーン」みたいなあの音を聞くだけで冷や汗が噴き出す。もっとこう、聞いていて楽しいような、例えば「森のくまさん」みたいな音に変えることはできないのだろうか。

しかし、何年か前に親知らずを抜いたとき、私の歯医者観は修正を迫られた。その時私は、疲れがたまると右下の親知らずが腫れて痛むというサイクルを繰り返していた。まあこれは人間誰しもが経験するものであって、大人の階段には親知らずが何本か落ちていると物の本にも書いてあるので、大した事ではない。ただ痛いものは痛い。その痛みがとうとう我慢できなくなって、私は仕方なく歯医者に行った。

私が行ったのは、最寄り駅の一駅先にある、ビルの7階のけっこう大きめの歯医者だった。今となってはそこら中にある歯医者の中からなぜそこを選んだのかも忘れてしまったが、いずれにしても、担当してくれたその歯科医院の院長先生が、明るくて柔和で声のかっこいい(顔がかっこいいかはマスクを外さないとわからない)、スバラシイ人だったのだ。あまりに素晴らしい先生だったので、ついつい人生について相談してしまいそうになった。診察の結果、その院長先生が、「この親知らずは抜いた方がいいよ」と優しく仰る。私はついつい「あじゃあ抜きますー」と軽々しく返す。こうして抜歯が決定したのである。何しろ、あの院長先生に言われたら歯の5本や10本は抜いてしまいそうな勢いなのだ。もしかするとこの先生の影響で同院における抜歯数は有意に上がっているかもしれない。

しかし、歯医者嫌いの私である、その日が近づくにつれて徐々に不安が高まっていった。少し前に親知らずを抜いた友達が「親知らず抜いてから何食べても血の味しかしない」とTwitterで言っていたことが、余計にその恐怖を高めた。

だが、いつかは抜かねばならぬ歯である。親知らずには悪いが、ここで抜いてしまうしかない。泣くな親知らず。私も大人である。一度決めたことは覆さないのだ。それに私には一つ秘密兵器があった。それが「笑気ガス」である。

笑気ガス(亜酸化窒素)とは何かというと、

亜酸化窒素(あさんかちっそ)または一酸化二窒素(いっさんかにちっそ)は窒素酸化物の一種で、吸入すると陶酔効果があることから笑気ガス(しょうきガス)とも呼ばれる。化学式はN2O。 紫外線により分解されるなどして一酸化窒素を生成するため、亜酸化窒素の増加もオゾン層破壊につながる。*1

というやつだ。オゾン層破壊に繋がるというのはけしからんことであるが、私もまた人である、オゾン層には申し訳ないが身の安全を優先してしまった。泣くなオゾン層

この笑気ガスを吸うと、何だか楽しい気分になって恐怖感が和らぐらしく、私が通っていたその歯医者ではこれを抜歯の際に使用しているのだ。ガスでハイになっている間に抜歯が終わる、こんなに良いことはないではないか。というわけで、私はようやく決心を固めたのであった。

さて当日、私は朝から大学院の諸々の手続きをしに行っており、それが1時半くらいに一段落した。歯医者の予約は4時半である。腹が減った。何か食べようと考え、思いついたのは駅の近くにあるうどん屋であった。このうどん屋、立ち食いではありながらかなりの有名店で、平日の昼は行列が絶えないほどの人気である。当然味も良い。ここに行こうと決めた途端私は他のことを一切忘れ、大盛りを一心不乱にかきこんだ。

満腹になった私は電車に乗って帰路についたのだが、何か頭に引っかかることがある。何だっただろうか、私は10分ほど考えた結果、ある恐ろしいことに気づいてしまった。抜歯の当日は、6時間前以降は食事禁止だったのである。これは抜歯中に気持ち悪くなってげろげろしてしまい、それが気管に入るのを防ぐためらしいが、あろうことか私は、抜歯3時間前に腹一杯のうどんを食べてしまった。院長先生に対する申し訳無さでいっぱいになってしまった。泣くな院長先生。吐くな俺。

それでも予約をキャンセルするわけにもいかず、病院に行って正直に申告した。食事禁止は大事をとってということであり、実際にはそれでも普通に抜歯は行ってくれるとのことで安心したが、しかしいよいよ本番である。

椅子に寝かされ、血圧計を取り付けられ、顎を何だかわからない器具で開かれ、固定された。まるでこれから拷問を受けるかのようである。不安が否応なしに高まってきた。心拍数が上がる。そこで登場するのが、笑気ガスである。やあやあよくきたまあ座れ。よくわからないマスクを付けられ、よくわからない気体が体内に流れ込んでくる。どんな効果があるのか、半信半疑だったのだが、しばらく吸っても何の変化もない。これでは不安なままではないかと焦った私は、肺いっぱいにそのガスを吸い続けた。

するとだんだん、何だかわからないが楽しくなってきたのである。それはもう、突然であった。抜歯が全然怖くない。これが終わったらブログに書いてやろうははは、タイトルはどうしようかなー、なんて歯をグイグイ引っこ抜かれている最中に考えていたのである。息を大きく吸い、それを吐き出すと同時に頭が椅子に沈み込んでいくような感覚で、それが何となく楽しい。寝ているわけではないのだが、まぶたは上がらない。声は聞こえるが、どこか遠くに感じる。でも何か楽しい。正直なところ自分は笑気ガスを吸ってもテンションの上がらない人間ではないかと危惧していたのだが、全然そんなことはなかった。私も人であった。

そうこうしているうちに抜歯は終わり、マスクが外されると、意外なほどすぐに頭がはっきりしてきた。あの数十分は一体なんだったのだろう、という、フシギ体験であった。この笑気ガス、普段吸ったらどうなるのだろう、などということは、良い子も悪い子も考えてはいけない。