紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

関西人に対して「方言が出ないですね」と言う人が犯している二重の過ちについて

私は関西人である。大阪に生まれ、中学の時に奈良に引っ越し、大学で東京に出てくるまで、18年間を関西で過ごした。関西育ちで両親も関西人であるから、私は当然関西弁を話す。東京にも7年近く住んだが、「標準語」に染まらず、魂を売らずに生きてきた。

にも、かかわらずである。東京で初対面の人に、よく「あんまり方言が出ないですね」と言われる。世の常として、努力は必ず報われるとは限らないのだ。現実はいつも厳しい。しかし一体なぜだろう。

実際に、私が気づかない間にいわゆる「標準語」のアクセントで話している、という可能性は否定したい。「あんまり方言が出ないですね」と言う人と同じくらいの数の人に、「関西出身ですか?」と聞かれるからだ。ちなみに、そうだと返すと「やっぱり、そうだと思いました」としたり顔で言う人がいるが、これには困惑する。分かって当然のことを分かっても、それは別に大した功績ではないのだということは、意外に常識ではないらしい。

しかし、やはりそれ以上に違和感があるのが、私に対して「あんまり方言が出ないですね」と言う人だ。確かに私は、関東人と話す時には、収納するという意味で「なおす」とは言わないし、捨てるという意味で「ほる」とは言わないし、ふざけることを「いちびる」とは言わない。また、「~やんけ」とか「~してはる」とも、あまり言わない。最大限の譲歩である。人生は妥協の連続だ。だが、私のアクセントは明らかに関西弁のそれなので、なぜそれを関西弁だと認識できない人がいるのか、理解できない。つまり、「方言が出ないですね」という発言は、まず事実認識の面で誤りがある。

これまでは、こうした人達は、音感というものに乏しいのではないかという仮説を持っていた。「音痴仮説」である(まあ音感がないのと音痴とは正確には違うが)。我ながら誠に失礼な話である。なので、「方言が出ないですね」と言われる度に、「ははは、そうですかね~」などと返しながら、「この人きっと歌下手なんだろうなあ」と心のどこかで思っていたことを、ここに告白する。この仮説はまだ検証されていないが、音感がないからアクセントというものを認識できないのなら、それは仕方がない。その人のせいではないからだ。本人が努力してもどうにもならない問題で相手を責めたり、偏見を持ったりするのはいけないことである。文明化された関西人である私は、こうした人達に対してとやかく言わないことにしていた。

しかし、いつだったかこの話を友人にした際に、新説が提唱された。「お世辞仮説」である。つまり、どういうことかと言うと、私に対して「方言が出ないですね」と言う人は、「方言を話す」ということをネガティブに捉えており、実際には私の関西弁を識別できるにもかかわらず、私への配慮で、私が喜ぶだろうと思って「方言が出ないですね」とお世辞で言っているのだという説である。この説を聞かされたとき、私は目から鱗が落ちるような思いがし、また大変に衝撃を受けた。すなわち、彼らを若干の憐憫の目で見ていた私は、実は相手から憐れみをかけられていたということになる。これは耐え難い屈辱である。音痴仮説を持っていた私よりも、相手の方が随分失礼ではないか。

なぜかといえば、関西弁を話すということは、何ら恥ずかしいことではないからだ。私はそれに何の問題も感じていないし、proudly Kansaianなので、むしろそれを誇りに思っている。そもそも、ここまで何も言っていなかったが、関西弁を「方言」と言われるとまずちょっとイラッとする。関西弁と関東弁(東京弁)は対等であり、上下関係などない。「標準語」などというものは、国家が社会を一元的に支配しようとする試みの一環であり、無批判に受け入れて良いものではないのだ、ということは政治学が私に教えてくれた。あんまり関係ないが、奈良県民としての誇りから、私は鎌倉にある標準よりも大きな仏像を、「中仏」と呼んでいる。しかし、相手が引け目に思っていないことを、勝手に邪推して「配慮」するとは、なんと陰険なやり口であろうか。こういう輩には断固として抵抗しなければならない、と思いを新たにしたのであった。

ところで、本当はこの記事は先月末くらいに書く予定だったのだが、実は月末に学会があったので控えていた。というのも、学会のような初対面の人が多い場では、特にこれを言われることが多く、院生である私にとって大抵の人は目上なので、このブログを読んでいる人がその場にいて私が「ははは、そうですかね~」などと愛想笑いをしているのを見られたら、恥ずかしいからである。そして私が内心上記のように思っていることを知られるとまずいからである。権力への抵抗の道は長く険しいのだ。