紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

長旅の(とりあえずの)終わり(?)

東京でこの記事を書いている。

ブログの方では発表していなかったのだが、この度自分が学生時代を過ごした東京大学に職を得ることになり、それに合わせて本帰国した。博士課程のためにオックスフォードに旅立ったのが2017年のちょうど今頃であったから、その間一時帰国などあったにせよ、都合5年間イギリスを拠点に生活していたことになる。その前の6年あまりは関西から出てきて東京で過ごしていたわけだから、だいたい5・6年周期で人生に転機が訪れていることになる。新しい仕事も最初の任期が5年なので、またその後で再び拠点を変えることがないとはいえない。分からないけど。

最終的に東大に戻ることを選んだものの、ポスドクになってからの1年間は日本と海外の両睨みで就職活動をしており、帰国を決めた経緯とか、海外での面接体験などは改めて記事にしたいと思っている(書けないことの方が多いけど)。今回は簡単な報告と、イギリスを去って日本に戻ってきたことへの雑感、というような話に留めようと思う。

Twitterなどを見ていても、在英何十年みたいな人は結構いるので、私がイギリスにいた5年間という期間は、自慢するほどの期間ではないだろうが、同時に海外在住期間の分布というのはおそらく最初の1年間に大半のobservationが集中していて、そこから長い裾野が広がるright-skewedな分布だと思うので、全体から見ればやはりかなり長い方にはなるのではないかと思う。

何より私の実感として、この5年間というのは自分の中身をかなりの程度変えてしまうような、そんな重みを持つ期間であった。25歳の誕生日を迎えてすぐ渡英し、30歳の誕生日の後帰国したわけだから、20代後半をすべてイギリスで過ごしたことになる。渡英前の自分と今の自分は全然違う人間なような気がしていて、なのに今、渡英前の自分が過ごしていた東大に戻ってきていることに正直言えばまだ違和感がある。今のキャリアの段階に比して非常に恵まれたポジションを与えてもらったことに対する大きな喜びはありつつ、日本に戻ってきていること自体に戸惑いもあるのだ。まあ何といってもまだ帰ってきたばかりである、これから時間が経てば再び日本になじんでいくのだろうとは思う。

5年前には、日本からイギリスへと、確かな方向性を持って旅に出たわけだが、今となってはどちらが旅の起点で、どちらが終点なのか分からなくなった。今も自分のベースはイギリスにあって、日本に旅に出ているような気分ですらある。

この奇妙な感覚は、帰国が近づいても、「自分がイギリスを離れて日本に本帰国する」という実感が最後までいまひとつ湧かない、という形でも表れた。もちろんしばらく会えなくなる友達に一人ひとり別れを告げる過程で、感傷的な気分になり、イギリス生活の終わりを意識することは何度もあった。しかしそれがどうも、自分の人生における一大転機とか、1つの大きな区切りであるという意識に結びつかないのだ。イギリスでの生活と日本での生活は継ぎ目なしに繋がっているような感覚があって、今でもドアを開ければロンドンの街が広がっているのではないかという錯覚に陥る。こうした出来事自体が初めてなのだから、こうした感覚も初めてである。

でもこの感覚を、忘れたくはないとも思う。もちろん日本にいるのにイギリスにいるように生活していては単なる社会不適合者だが、日本で生きることしか想像できない自分にも戻りたくない。これはどちらがいいとかそういうつまらない話ではなくて、いつでもその気になればまた大きく環境を変える決断ができるような、そしてどこにいても自分は一緒だと思えるような、そういうフラットな心構えで居続けたいということだ。実際そうするかどうかは別として、そういう気持ちでいたいということ。

私は帰国前最後の一週間をケンブリッジの所属カレッジで過ごしたのだが、チェックアウトする際に、手続きしてくれたカレッジのポーター(フロント係/コンシェルジュ的な人)が、”See you next time”と言ってくれた。さよならではなく。何気ない言葉だが、それが印象に残った。次来るまでの、しばしの別れ。だからこれは「長旅の終わり」ではなく、「長旅の(とりあえずの)終わり(?)」なのである。

まずはこれからの東京生活を、楽しみたいと思う。

このケンブリッジののどかな風景は、また懐かしくなるだろう。

 

ロンドンでメンズ服を買う①:導入

やはり5年間海外で生活していると、色んなことが現地化されてくるもので、つまみもなしにビールが飲めるようになるし、パブで仕事ができるようにもなるし、休日など昼間からビールを飲んでも罪悪感を覚えなくなる。Sushiを寿司とは別モノとして評価できるようにもなるし、湯船につからなくても平気になるし、気温が28度くらいになると異常に暑く感じたりする。

私にとってはファッションもそういうもので、留学当初はこっちの服屋に行っても「あまりピンとくるものがないなあ」などと思っており、帰国の際にまとめて服を買ったりしていたのだが、徐々にこちらのブランドを覚えていくと、気に入ったアイテムが見つかるようになり、なかなかイギリスのメンズ服もいいなと思えるようになってきた。

今となって考えてみれば、イギリスのブランドを気に入るのも当たり前の話で、イギリスはことメンズ服においては、イタリアや日本などと並んで世界の中心地の1つになっているからだ。日本で近年大流行しているらしいBarbour(バブアー)もイギリスのブランドだし、John Lobb、Edward Green、Church's、Crockett & Jonesといった高級紳士靴のブランドはことごとくイギリス発祥で、高級テーラーが集まるロンドンのサヴィル・ロウは「背広」の語源ともされる。

そこで今回は、5年間で少しずつ蓄積したイギリス(ロンドン)のメンズファッション事情について書いてみようと思う。なお、私はファストファッションは好きではないが、一方でグッチだアルマーニだグローバルなハイブランドにも興味がないので、ここで対象としているのは、うまく説明できないが「ちょっと手を伸ばせば届きそうな、こだわりを感じるイギリスのブランドやショップ」という感じである。今回はその導入編。

イギリス人のおしゃれ二極化現象

ロンドンはヨーロッパの他の都市と比べておしゃれな男性が多い街だと思う。街を歩いていて、あるいは地下鉄に乗っていて、「うわこの人のセンスめちゃかっこいいな」と思うことはままあって、個人的な見解だが、一般におしゃれなイメージのあるパリよりは遥かにその辺を歩いている人の洗練度は高いと思う。(ただ一方でもちろん、ダボダボのTシャツに半ズボン、そして長い靴下、みたいなお兄さん/おじさんもいっぱいいる。)

とはいえ、平均的なファッションへの関心は、たぶん日本/アジアの方が圧倒的に高い。この差は(ジェンダーギャップの大きい社会で常に「美しく」あることを求められがちな)女性においてより顕著だと思うが、男性においても、服に何らかの関心を持っている人の割合は日本の方が高いような気がする。というか、男たるもの服なんかにこだわらない、みたいなマスキュリニティ規範が存在していて、これは日本よりもイギリスの方がはるかに強い気がする。

イギリスで感じるのは、一部の人が突き抜けておしゃれで、その他の人はあまり服に気を使わない、という二極化現象である。まあこれはどこの社会でもそうかとは思うが、ロンドンでは特に、思わず二度見三度見してしまうような段違いにおしゃれなおじさんが時々いる。サヴィル・ロウ(高級テーラーが集まる通り)やジャーミンストリート(高級紳士靴ブランドが集まる通り)などの高級紳士服で有名なスポットを歩いていると、この種のおじさんを観測できる可能性が高い。

日本のプレゼンスは高い

これもロンドンで服屋巡りをしていると感じることだが、ファッション業界における日本のプレゼンスはめちゃくちゃ高い。例えば日本の代表的なメンズショップの1つであるBEAMSの商品がロンドンのセレクトショップに置かれているのをよく見かける(ただSHIPSとかUNITED ARROWSとかは全然見かけない)し、EDWINのデニムも頻繁に目にする。こちらのブランドでも、和服にインスパイアされたジャケットを売っていたり、なぜかNiwakiという日本のガーデニング用品のブランドとコラボしているところがあったりする。

極めつけは、この前ショーディッチのSon of a stagという評判の高い、デニムを中心に扱っているショップに行ってみたのだが、やけに日本の聞いたこともないブランドがたくさん並んでいて、不思議に思ったので店員に聞いてみたら、なんとその店ではほとんど日本から仕入れたものしか売っていないらしい。しかも家に帰って店に置いていたブランドをググってみると、地方で生産している小規模な会社だったりして、非常に驚いた。

その店の人は、日本で作られた物のほうが圧倒的に質が高いから、扱うものが日本のものばかりになるのだと言っていた。日本ではファッションへの関心が高く、また地方も含めて手仕事でレベルの高い縫製などを行える技術が残っているために、ファストファッションなどではない質の高い商品を作るブランドが残っている、ということなのではないかと思う。イギリスでは、一部の人は関心が高いものの、大半はTopshopとかPrimarkとかNextとかH&Mとかのファストファッションしか買わないから十分な需要もなく、ノーザンプトンの靴工場などを除いてあまりもう国内に力のある工場が残っていないのかもしれない。日本も今後それが続くのかどうかはわからないが。ちなみに、そのショップでは結局何も買わなかった。日本で買う場合の倍以上の値付けがされていたので・・・。

日本とイメージの違うブランド

他に私が面白いと思った点として、日本でのイメージとイギリスでのイメージがかなり異なるブランドの存在が挙げられる。その代表がBarbourとClarksだ。最近日本でも大流行しているらしいBarbour(Youtubeでファッション系Youtuberの動画を時々見たりしているのだが、Barbourは頻繁に取り上げられている)は、オイルドジャケットが有名で、ブランド名を知らない人も、下の動画に出てくるようなジャケットを着ている人を見たことはあるのではないかと思う。

そもそもBarbourをなぜ日本ではバブアーと発音するのかよくわからないのだが(英語的には「バーバー」に近いはず)、日本ではかなりいい値段で売られていて、ロイヤルワラント(王室御用達的な意味)が与えられている由緒正しいブランドで、渋くてかっこいいみたいなイメージがあると思う。

確かにそれは間違っていないと思うのだが、イギリスでは街中でそんなに頻繁にこれを着ている人を見かけるわけではない。ただ、Barbourの直営店はけっこう色んなところにあって、扱っている店もよく見かける。どういう店でよく見かけるかというと、地方都市にあるアッパーミドル以上のおじさんが行くような店、ツイードのジャケットとかシャツとかが置いてあるような店のカジュアルセクションでよく見る。オックスフォードにもこの手の店がよくあった。元々が釣りとかハンティングで着るようなカントリーファッションのブランドなので、ロンドンの街中でこれを着ている人がたくさんいるわけではないのだ。

あともう一つは、Barbourはジャケットだけを売っているブランドではないということ。イギリスではBarbourのシャツも、セーターも、ボトムスも売られている。特にシャツは色々なチェック柄があって、私も何枚か持っていて気に入っている。

続いてClarksだが、日本ではワラビーやデザートブーツなどが有名で、「そんなに高くはないけどおしゃれな実力派ブランド」みたいな感じで知られていると思う。基本的にスエードのブーツ以外はあまり扱われていないのではないだろうか。しかし本国イギリスでClarksに行ってみると、店の構えの安っぽさに驚くと思う。Clarksは地方都市の目抜き通りには必ずといってよいほどあるが、殺風景な店に適当な感じで雑多な靴が置かれている。ワラビーやデザートブーツが有名なのは同じだが、スニーカーも含めて、その他にも色んな種類の靴がある。私は履きやすいし価格も良心的なので、Clarksは結構好きなのだが、日本で抱いていたイメージとは違った。日本のイメージと合致するのは、SohoにあるClarks Originalsという店舗で、こちらはブランドの原点に回帰というコンセプトでスエードのブーツ系の靴を若干高い価格帯で展開しているおしゃれな店である。

全体像を知るためのおすすめショップ

私も渡英当初そうだったように、一部の超有名ブランドを除いて、イギリスに一体どんなブランドがあるのか分からない、という人も多いだろう。こういう場合、セレクトショップに行けば、色々なブランドから選ばれた商品があって、全体像を把握するのに非常に有益なものだが、イギリスにはどういうわけかあまりセレクトショップという業態が見られない。日本だと、UNITED ARROWSとかBEAMSとかも、自社ブランドが多くはなっているが、一応セレクトショップであって、特に海外のブランドの商品などを仕入れて売っていると思うが、イギリスのショップは基本的に自社の商品しか置いていない(靴やバッグなどは例外)。なので、個別に各ブランドの店に行かなければ商品が買えないことになる。あと、そもそも小さい店が多く、扱っている商品の数が少ない。

色んな店を回るのがめんどくさい、あるいはそもそもどんな店があるかわからない、という人におすすめできるセレクトショップ的な店は2つあって、それはLibertyとJohn Lewisである。Libertyはロンドンの中心地であるOxford Circusの近くにある伝統あるデパートで、まあ扱っているものは基本的に高級であり、プレゼントを探す時以外に私が利用することはあまりないのだが、木造の歴史ある建物や雰囲気が好きで、近くに行くとつい立ち寄ってしまう。

このLibertyは地下一階がメンズのフロアになっていて、イギリスで売られている有名なブランドは、一通りぜんぶ揃っていると言ってもよい。扱われているブランドの数が非常に多く、そのため各ブランドの商品数は必然的に比較的少なくなるが、価格帯やスタイルをチェックして、選択肢の全体像をまず把握するにはもってこいである。この近辺には主要なブランドの店が集中しているので、ここで見定めたブランドの路面店に行ってみるのがよいだろう。

ただ、高級デパートである以上、Libertyで扱われているブランドの価格帯はかなり高めなので、もう少しリーズナブルなものを検討したい場合は、John Lewisが意外におすすめである。ここもまあ百貨店の一種なのだが、どちらかといえば電化製品や家具などに強い印象がある中級のデパートである。ロンドンではOxford Circusに店舗があるのだが、John Lewisの強みはむしろ、地方都市にたくさん店舗を持つという点だろう。オックスフォードにもケンブリッジにもあったし、イングランドの地方都市のHigh StreetにはだいたいJohn Lewisがあると言っても過言ではない。

John Lewisのメンズ服は、特にフロアが大きいわけでも、店の中で中心的な位置を占めているわけでもないのだが、意外に色んなブランドが揃っていて、価格も(あくまで比較の上だが)それほど高くはない。私もオックスフォードにいた際は、ロンドンには頻繁に行けなかったので、代わりによくここに行ってイギリスにはどんなブランドがあるのか勉強していた。

さて、こんな感じで全体像を把握したら、次は個別のショップを訪れたい。次回からは、カジュアル編、フォーマル編、セール編などに分けて、もう少し詳しく紹介していこうと思う。

 

 

コロナに罹った

なんと前回の投稿から2ヶ月以上も間が空いてしまった。この間何があったかというと、色々あったようでもあり、特に何もなかったようでもあるのだが、まあ人生というのは得てしてそういうものだろう。

ただ、まあ重大事件というのは確かにあって、それは何かというと初のコロナ罹患である。正直なところ、コロナ下で国際的な移動も何度もしてきたし、もはや誰もマスクをしていないこの野蛮な国であるイギリスに長い間いて、一度も罹らなかったのだから、自分はもう罹らないか、すでに罹って無症状で終わったものだと思い込んでいた節がある。先月もひどい風邪をひいて、眠れないほどの咳が一週間以上続いて苦しかったのだが、それはコロナではなかった。

なので、ある日喉が何となく痛い(大した痛みではなかった)感じがしたときは、「また風邪をひいたのか、前みたいな咳が出なければいいな」と思った程度であった。それが6月6日の夜で、だいたい全快したかなと感じたのが6月15日あたりだったので、約1週間あまり罹患していたことになる。その期間の症状を簡単にまとめると、

  • 発症日(6/6)
    若干の喉の痛み。前日の夜更かしで睡眠不足のせいで風邪を引いたかと思う。
  • 2日目(6/7)
    同じような喉の痛みと、若干の身体のだるさ。
  • 3日目(6/8)
    前日と同様。
  • 4日目(6/9)
    全身が熱くて4時ごろ起きる。鼻水や咳や痰が出始める。検査して陽性。熱は朝の37.6をmaxに、解熱剤を飲んでからは36.8から37.4の間を推移。
  • 5日目(6/10)
    また4時ごろ目が覚めると、熱はない感じだったが、眉間の辺りの頭痛と、右の喉・首筋の痛み。飲み込むと痛い。その後二度寝すると、どちらもかなりマシになる。起きてからは、風邪の症状のみ。熱は36度台後半。起きた当初、嗅覚がかなり鈍っていることを発見。香水を鼻に近づけてもよく分からない。コーヒーや部屋のフレグランスに鼻を近づけると何とかわかるかな程度。咳が少しずつ悪化している気はするが、この前の風邪の時みたいに、呼吸のたびに絶えず咳が込み上げてくるような感じではない。引き続き解熱剤を飲む。前日からやたらと喉が乾く。夕方昼寝してからちょっとしんどくなる。夕食あまり食べられず。熱は37.5までまた上がる。
  • 6日目(6/11)
    5時半頃一旦目が覚めるが、二度寝で8時くらいまで寝られる。前日までの熱っぽさや身体のだるさなどがかなり和らいでおり、これならギリギリ日常生活ができるかもという程度になっている。右の喉の痛みは目覚めた時特に強い。喉から首筋から耳の奥にかけて痛い。咳は良くはなっていない。解熱鎮痛剤は飲まなくて大丈夫。
  • 7日目(6/12)
    頭や身体の感じはもうほぼ平常通り。咳痰鼻水喉の痛みはまだあるが、少しマシになってきている感はある。
  • 8日目(6/13)
    喉の痛みがなくなる。咳が夜にかけて少しひどくなる。検査すると線がほとんど残ってない。
  • 9日目(6/14)
    咳や鼻水もマシになっている。仕事復帰する。

コロナに感染したことのある人なんて周りには余るほどいて、逆に罹ったことのない人の方が珍しいイギリスではあるが、とはいってもやはり自分が罹ってみると不安にはなるもので、こちらでは重症にならない限り病院には行けないから、とりあえず部屋でじっとしているしかなかった。リスク要因のある人だったり一定以上の年齢だったりしたら、これはまあ不安になるよなと思う。

興味深かったことが2つあって、まずは検査キットの線が、だんだん回復するにつれて薄くなっていくこと。ウイルスの検出量に応じて線の濃さが変わるらしい。写真を見てもらえればわかるが、最初に検査したときはこれ以上ないくらいはっきり線が出て、それが日数が経過するにつれて薄くなり、最後にはほとんどわからないくらいになっている。ただ一番右のやつでもまだ線は完全に消えていなくて、有と無の決定的な違いについて考えさせられた。

もう1つは、オミクロンは味覚嗅覚障害がほとんど出ないと言われていたのに、私には一定程度その症状が出たこと。正直これが一番不安で、長引くと困るなと思っていたが、幸い比較的早く回復した。面白いのは、私が部分的に失ったのは嗅覚だけで、味覚は無傷であったため、「本当の味覚」を初体験したことである。嗅覚を失うと、食べ物の「味」が思いの外弱く感じられた。というのも、我々が普段「味」だと思っているものの中には、実際は「匂い」も含まれているのである。本当の味覚とは「味マイナス匂い」だったのか!と思った。

私は模範的市民であるので陰性になるまで他人と会うのを避けていたのだが、レッセフェールの総本山であるイギリスでは、コロナに感染したら5日間は外に出ないようにしましょう(努力目標)、という程度のルールしかないので、恐らく巷には陽性の人間がうじゃうじゃいるんだろうと思った。とりあえず私は今後数ヶ月は感染することもないと思われるので、季節も良いし、旅行など積極的にしていこうと思う。

 

学会ハシゴ紀行:LA→ホノルル→ナッシュビル

先月の下旬から昨日まで約2週間にわたって、2つの学会に出席するためにハワイとテネシーナッシュビルに行ってきた。数日毎に違うタイムゾーンに移動し、2週間も外泊するのはけっこう体力的にもしんどかったが、とても実りある時間だったので簡単に書いておこうと思う。

私は最初の対面国際学会が、PhD1年目の終わり(2018年)に行ったアメリ政治学会(APSA)で、それ以降コロナやら何やらがあって、一度も国際学会に行けていなかった。特に、2020年3月にホノルルで開催されるはずだったInternational Studies Association(ISA)は、とても楽しみにしていたのだがコロナで最初の学会キャンセルとなり、非常に残念に思っていた。

そういう事情もあって、ようやく少なくとも表面上は正常化しつつある今、行ける間に学会に行っておきたいということで、ナッシュビルで行われるISAに加えて、ハワイで行われるAASに応募したという次第である。ISAの方は出せばだいたい通るような感じなのだが、AASは個人で出すと採択率が低く、パネルで出すと高いということで、イギリスの日本研究関連の院生3人と組んで出すことになり、無事採択された。

出発できない

ただ、ハワイが大変なのは移動である。日本にいるとイメージが湧きにくいかもしれないが、イギリスとハワイはまあ日本とブラジルの関係にあり、要は地球の反対側なのだ。だから直接行こうとすると、20時間以上移動に費やすことになる。さすがにそれは嫌なので、ロサンゼルスで一休みしてからホノルルに向かうことにしていた。

しかし、出発初日からいきなりトラブルに見舞われた。いつも通りフライトの2時間ほど前にヒースロー空港のターミナル5に行くと、British Airwaysのチェックインカウンター前が大変な行列になっている。最初はまあ30分もすればチェックインできるかなと思っていたら、1時間経ってもほとんど進まない。私はオンラインでチェックインを済ませており、荷物を預けるだけなのだが、それでも同じ行列に並ぶ必要があり、抜け道がないままひたすらに時間が過ぎていった。同じような状況にある何十人のイライラが募るなか、なんとフライト時間の30分ほど前になって、係員が急に「LA行きの人たちは、もう間に合いません」と宣言したのだ。

今までフライトがキャンセルになったことは何度かあるが、チェックインカウンター前の行列のせいで飛行機に乗れないという馬鹿げた事態は初めてである。当然周りも意味がわからないという反応で、BAの社員に文句を言う人が続出したが、結局その後カウンターの外で1時間近く待たされた末に、明日の便に振り替えるから今日のところは帰ってください、と言われ帰る羽目になった。聞くところによると、BAはコロナ禍で大量の従業員を解雇したせいで、需要が戻ってきた今人員を確保できておらず、そのために今回のような混乱が発生したのだという。現在もこの問題は解決されていないため、今後しばらくヒースローでBAを利用する人はかなり早めに空港に行くことをおすすめする。私はその後乗るアメリカの航空会社の方をむしろ心配していたのだが、まさかBAに裏切られるとは思っていなかった。

LAからホノルルへ

アメリカ入国のためのコロナ検査を受け直したり、夜になるまで振替便の情報が来なかったりと、ストレスの溜まる一日を過ごしたが、翌日は無事アメリカン航空の便に乗ることができ、最初の目的地、LAに到着した。LAには、UCLA政治学社会学のPhDに在学している友人が1人ずついるのだが、後者が空港まで車で迎えに来てくれた。LAの滞在時間は24時間以内だったのだが、軽く近くを案内してもらった後、サンタモニカでその2人とシーフードを食べて、辺りを散歩したのは良いリフレッシュになった。

2人とも、以前は日本に帰国した際に時々会ったりしていたのだが、社会学の友人の方は日本人ではないので、彼女が日本を離れて以来会う機会はほとんどなくなっており、3年ぶりくらいに会うことができてよかった。LAはあまり観光する時間もなかったのだが、圧倒的な気候の良さを前に、ここで大学院生活を過ごしていたらどうだったかなー、などと考えさせられた。現実には、私のやりたいような研究をやっている人は西海岸の有力大学にはほとんどいないので進学の可能性はなかったわけだが、USC(南カリフォルニア大学)には少しいるので、いつか在外研究などで住んでみたいなと少し思った。

さて、息つく間もなく今度はホノルルに飛んだのだが、着いてまず驚いたのが、ホノルルのダニエル・イノウエ空港の古さと閑散とした雰囲気だった。私はハワイに行くのは初めてで、日本で流布している理想化されたハワイのイメージを先入観として持っていたのだが、その後も学会の空き時間に全然イメージと違うハワイを見て驚くことが多かった。どこまでがコロナの影響なのか分からないのだが、ホノルルのダウンタウンはかなり寂れていて、窓ガラスが割れていたり、空き店舗が多かったり、何らかの中毒を抱えているような感じの人が相当うろついていたりと、夜には来れないなという雰囲気だった。ワイキキはさすがに栄えているのだが、それでも空いている店舗がちらほらあったり、お土産を探しに行こうと思った雑貨屋が軒並みなくなっていたりした。また、そもそもワイキキは相当に商業化された感じで、あまりローカルな面白さのある場所はなかった。

ただ、自然の美しさはさすがなもので、ビーチはとても綺麗だったし、ダイヤモンドヘッドからの景色は比類ないものだった。意外にもビーチはそんなに混雑しておらず、のんびりと過ごすにはちょうどよい。ノースショアの方のビーチに行くと普通にウミガメがいてびっくりした。もし次回ハワイに行くなら、他の島かオアフ島の他の地域に滞在したいものだ。

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ダイヤモンドヘッドからの景色

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LAからホノルルの飛行機には、米軍の若い軍人がたくさん乗っていて、これからホノルルでの勤務を開始する、というような話をしているのが聞こえた。島を巡る中でも、基地や軍用地に出くわすことが多く、またイオラニ宮殿などに行って植民地化前後のハワイの歴史などを聞きかじっていると、観光地化、基地、併合、などといった要素で沖縄とハワイには共通性が多くあるように思った。次の次の単著プロジェクトでは沖縄について扱いたいと思っているので、ハワイとの比較も含めてその際にまた詳しく勉強したい。

ハワイで出席する学会は、アジア研究学会(Association for Asian Studies)で、正直私がメインとする学会ではなく、またこの時期の学会の常で、キャンセルが相次いでおり、あまり学会自体は活発なものではなかった。私にとっては次のISAが「本番」であり、AASの方は前哨戦という感じだった。それでも自分の研究は発表したし、Twitterでフォローし合っていた人と初めて対面で会ったりと、それなりに意義のある機会ではあった。

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AASのオープニングレセプションは屋外

ISAは楽しい!

一週間弱のホノルル滞在を終えると、次はテネシー州ナッシュビルに移動して、ISAに出席した。学会がなければナッシュビルという場所には一生来なかったと思うが、学会の開催地は郊外の何とも奇異なリゾートだった。Gaylord Oprylandという名前なのだが、巨大なホテルや会議場の全体が温室のようにドームに覆われていて、中は植物園になっており、人工の川が流れていたり滝があったりする代物で、中にいると、ここは世界の終末にあたって富裕層だけが逃れてきた核シェルターではないか、というような錯覚を覚えた。ダウンタウンからは離れていて、周辺にはほとんど何もないため、中で食事をせざるを得ないのだが、レストランのオプションが少なく、しかも物価がバカに高い。何が悲しくてこんなところでホリデーを過ごすのか、と私は思ったが、けっこう繁盛しているようなのが不思議だった。

しかし肝心のISAはめちゃくちゃ楽しかった。学会が楽しいものだという観念はあまり日本にはそぐわないかもしれないし、私もあまりそういうイメージは抱いていなかったのだが、ISAは非常に楽しい。何が良かったかというと、まず久しぶりの友達や知り合いにたくさん会える。オックスフォード→ケンブリッジと移動していると、両大学の出身者に知り合いがかなりできるので、色んなところに散らばっている彼ら彼女らと再会できるのもいいし、そこからまたネットワークが広がっていくのがさらにいい。他大学の院生やポスドクのような若手もたくさん来ていて話しやすい。また、毎日多くの分科会が夜にレセプションを開催しており、そこでは飲み物や食べ物が無料である(重要)。自分の所属している分科会のものに行けば、関連する分野の研究者と知り合うこともできる。

もちろん、初対面の人とその場で簡単な話をして、その後も続く「ネットワーキング」ができるほど世の中簡単ではないので、ここで行われているのは、「種まき」とその収穫である。どういうことかと言うと、まずここで初めて会う人とは、お互いの存在を軽く認知して、極めて緩く繋がったり、繋がらなかったりする。もしかしたらもう二度と会わないかもしれないが、もしかしたら数ヶ月後、相手が書いた論文を目にするかもしれない。あるいは、1年後のISAでまた出くわすかもしれない。そうしたとき、「あ、去年レセプションで会いませんでした?」という話になる。すると今度は、もう少し深い話をするようになり、それが繰り返されると、友達や広義の同僚と呼べるような存在になっていく。逆にその後一切出くわすことがないようなら、別にその相手とは(プロフェッショナルな意味で)ネットワーキングする必要がなかったということであり、それはそれで問題ない。

また、特に相手が自分よりもシニアである場合、レセプションで突撃してもまともに取り合ってもらえる可能性は低い。だが、自分のシニアな知り合いがその人に自分を紹介してくれれば、こいつの話を聞いてもいいと思ってもらいやすくなるだろう。既にいる知り合いというのは過去の「種まき」の結果であり、それがまた新たな収穫を生んでいくのである。博士課程の間は、あまりそういったネットワーキングができている感覚がなかったが、ポスドクになってから、特にケンブリッジの気さくで親切な教員たちのおかげで、また自分がHistorical International Relationsというアイデンティティを持つ分野を定めたことで、急激にネットワークが広がりつつあることを感じている。アカデミアは実力主義のイメージが強いが、実際には良くも悪くもとんでもない縁故主義の世界だと思う。前述のようにネットワークとは一朝一夕にできるものではなく、継続的な努力が必要で、私はまだその入口に立ったにすぎない。

今回の学会で一番の収穫は、自分の発表ではなく、某University Pressの某シリーズのエディターをやっている先生と会うことができ、自分のbook proposalに非常に好意的な反応をもらえたことである。博士号を取ってから1年が経ち、そろそろ出版社にコンタクトを取るべきだと思いつつ、一回トライすると二回目はないので、万全を期したいという思いから先延ばしにしていたが、今回ISAに行くからということでようやく重い腰を上げて動き始めた。まだまだ先が長いプロセスなのだが、とりあえず査読に出してもらえるところまではいけそうな見込みができて、非常に嬉しい。去年は博士号を取った以外はあまり運のなかった年だが、今年は今のところいい感じに進んでいる。このまま出版までたどり着けるように願う。

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ナッシュビルダウンタウン

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Post-apocalyptic nuclear shlterことGaylord Opryland



オックスフォード、1年越しの卒業式

先月の最後の週末に、オックスフォードに行ってきた。卒業式に出るためである。

といっても、私がプログラムを修了し、博士号を取得したのは2021年の2月、1年も前のことである。なぜ今頃卒業式なのかというと、まずもちろんコロナということもある。2020年のコロナが始まった辺りから1年余りの間、卒業式は開催されていなかったはずで、それが再開されてからまだそんなに日は経っていない。

しかしそもそも、オックスフォード(他の大学も?)が面白いのは、日本みたいに春(か秋)に全員分の卒業式が1回あるという仕組みではなく、年に何回も卒業式は開催されていて、その中から自分が参加したい日を予約する、というシステムであるところだ。しかも、別に自分が修了した年に卒業式に出ないといけないという決まりもない。極端な話、例えば30年後に自分の子供と同じ卒業式に出る、なんてことも理論的には可能なはずだ。

このブログでも何度も言ったと思うが、オックスフォードやケンブリッジというのは極めて分権的な大学で、カレッジという単位が非常に高い重要性を有している。卒業式も、この日はこのカレッジとこのカレッジとこのカレッジ、という風にカレッジ毎に割り当てが決まっていて、自分のカレッジを通じて予約する。そんなわけで、私は2月26日の回を予約したのである。

本当は夏の気候がいい時に卒業したかったのだが、予約した時点では自分がいつまでイギリスにいるか不透明だったのと、卒業式は2人までゲスト用のチケットをもらえるので、両親が来られる時期にしようということで2月になった。ただ、結局両親は諸事情で来られなくなってしまったのが残念なところである。学部や修士のときは、実家が遠いということもあるが、「どうせまだ博士があるだろう、そっちが本番」ということで卒業式に来なかった両親だが、結局博士課程の卒業式にも出られなかった。ただ、コロナの特別措置か、当日はライブストリーミングがあり、親のみならず親戚も卒業式の様子を見てくれていたようである。便利な世の中だ。

ウクライナ侵攻の週末

そんなわけで私は式の前日、2月25日にオックスフォード入りして、友達数人とお祝いのディナーをして当日に備えることになっていた。ただ、正直なところこの日の私の気分は重く、とてもお祝いをしたいような心持ちではなかった。というのも、日付を見てピンとくる人もいるだろうが、この日はロシアによるウクライナ侵攻の翌日だったからである。

あからさまで正当化し得ない武力の行使による侵略が行われたことは国際政治を勉強している人間として大きなショックであったし、今後の世界の展望に対して不安にもなった。イギリスで勉強していれば、ウクライナという国にそれまで特別な関心を抱いていたわけでなくてもウクライナ人の友達は何人かできるもので、そういう人たちが悲痛なポストをSNSにしているのを見るのも心が痛む。欧米の一部のコメンテーターが言うように、この戦争が「『ヨーロッパ』で起きた」ということに特別な意味があるとは思わない(他地域での紛争を当然みたいに言うことには怒りを覚える)が、そうでなくてもこれは国際政治的に大変な出来事なのは疑いようもない。

そんな中で個人的なお祝いをしていてよいのだろうか、というような気分になっていたわけだが、オックスフォードに着いてまず親友のドミニクとその彼女のジャーナと話をしていると、多少は自分の卒業式のことに頭が戻ってきた。祝えることは祝えるうちに祝わないと、ということと、大変なことが起きたからといってそれが祝われるべきことを祝わない理由にはならない、ということを言われてそれもその通りだなと思った。

思い出の店でディナー

そうこうしているうちに7時が近づいてきたので、3人でディナーの店に移動した。私がこの特別な日のディナーの場所に選んだのは、Jee Sahebという、St. Antony's Collegeの近くのNorth Paradeというエリアにあるインド料理屋である。

イギリスのインド料理が美味しいということ、また日本でのインド料理の扱いとは違って、食堂的なものではないきちんとしたレストランが多いという話はどこかで書いたかもしれないが、私がオックスフォードの3年半で一番多く通った店が、このJee Sahebである。St. Antony'sの院生はたぶんほとんど皆行ったことがあるし、常連も多いと思うのだが、とりわけドミニクと私は週一回、日曜日にここで夜ご飯を食べることをルーティンとしていた。1年目にはヴィクターという、3人目のメンバーがいたのだが、彼が卒業した翌年以降は、その時々で違う人を加えたり、または2人で行ったりして、ずっと通い続けてきた店である。店長も私たちのことを認識してくれていて、行ったら握手してくれることを密かに自慢に思っていた。

その日は久しぶりだったので、店長に実は明日卒業するんですという話をして席についたら、ほどなく残りの参加者が来た。1人はゲルダというエストニア人で、私の2年目からの付き合い。彼女もカレッジの友達である。もう1人はカリムで、以前にもブログで言及したことがあると思うが、レバノン人でケンブリッジの博士課程に在籍中、今はパートナーがオックスフォードにいるのでオックスフォードに住んでいる。この4人が、今もオックスフォードにいる人の中では一番私が仲の良い友達で、彼らにお祝いしてもらえるということはこの上ない喜びだった。

オックスフォードで得たのは学問的な知見だけではなくて、むしろそれよりもっと私にとって重要なのは、そこで出会った人たちである。世界中から来た同年代の友達と毎日のように食事を共にし、くだらないことから真面目なことまで色んな話をしたことは間違いなく私の一生の財産で、こんな豊かな時間は、ここでなければ得られなかっただろうと思う。いつもはマンゴーラッシーばかり飲んでいたのに今日はお祝いということで頼んだワインで乾杯をするときに、つい胸が熱くなってしまった。みんなも楽しそうにしてくれて嬉しかった。いつも通りのエビとほうれん草のカレーを食べて、その後一軒パブに行ってから宿泊先に戻ると、仕事終わりに駆けつけてくれたパートナーが到着していて、無事当日を迎えられることになった。

旅立ちの儀式

当日は8時半に集合だったので、7時過ぎには起きて、荷造りと着替えをした。前日に受け取った博士課程用のガウンは、赤と青という謎の配色だが、ひと目見てオックスフォードと分かるという意味では良いのかもしれない。借りるというオプションもあったのだが、記念だし、以前オックスフォード出身の先生がオフィスのドアにこのガウンを掛けているのを見て憧れていたので、買った。ただ、ウール素材で349ポンド、ポリエステルでも199ポンドという価格設定には納得していない。このガウンは3つの店でしか扱っておらず、寡占市場で明らかに価格が高く設定されている。ちなみに、皇室で初めて海外で博士号を取った彬子女王のエッセイが出版されているのだが、それが『赤と青のガウン』というタイトルである。オックスフォード関係者でなくても、博士課程の大変な日々の様子などがよくわかるエッセイなので、結構おすすめ。

まあそれはそれとして、当日の朝はまずカレッジに行って登録を済ませ、そしてカレッジに来ていたプロのカメラマンに写真を撮ってもらうことからスタートした。私はオックスフォード生活で後悔していることがあって、何かというと、入学式に当たるmatriculationの日に、このプロのカメラマンによる個人写真を撮ってもらわなかったことである。最初と最後に写真を撮っていれば比べられたのにな、と思ったが、せめて最後はきちんと撮ってもらおうということで、一番乗りしてしっかり撮ってもらった。その他にも自分たちでたくさん写真を撮った。こういうのは絶対後から見返したくなるので、できるだけたくさん写真を撮っておくのがいい。

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集合時間になると、カレッジの学務主任的な人の誘導に従って、みんなぞろぞろと会場のSheldonian Theatreという建物に向かう。博士と修士ではまたルールが違うのだが、博士はこの時点ではアカデミックガウンを着ず、在学生が着るsub fuscという黒のガウンを着る。式の途中までこれを着て、途中で一旦退場し、赤と青のガウンに着替えて戻ってくるのである。ちなみに学部生や修士は出ていくともう戻ってこない。博士は大学幹部の後ろの一段高い席、修士は下の席の前の方、学部は下の席の一番後ろに座るようになっていたりと、学位のレベルによって卒業式における扱いがあからさまに違うのがちょっと面白かった。

式の内容は正直なところ、事前にほとんど何の説明もなかったため、卒業生も皆手探りでやっていた。式自体がほとんどラテン語で行われたため、だいたいみんなぽかんとしているのが可笑しい。自分の名前が呼ばれる瞬間だけは聞き取れたが、一瞬で終わってしまったので感慨を覚える暇もなかった。それでも式のハイライトは2回ほどあって、1回目は正面に座っているVice-Chancellor(オックスフォードのChancellorは名誉職なので、実質的な学長はVice-Chancelor)と2人の大学幹部の前に行ってお辞儀をする場面、そして2度目はDPhilガウンに着替えて、拍手の中再入場してくる場面だ。

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といっても、上記のように誰も式のマナーを説明してくれなかったため、最前列にいた私たちはVice-Chancelorの前に行っても何をしたらよいか分からず、随分まごついた。ただ実際のところ、多分学長も含めて誰も式のしきたりを完全には把握しておらず、おっかなびっくりやっているような印象を受けた。昔なら、学部から博士までオックスフォードで教育を受けて、その後オックスフォードに勤めて何十年という人も多かったのだろうが、今となっては多くの分野で特に採用にあたって内部出身者が優遇されるということもないし、教職員の中でもオックスフォードのシステムに慣れていない人が大多数だと思われる。そう考えると、伝統とは一体何なのかという疑問が浮かんでくる。

さて、バタバタしながらも無事に式が終わると、前日ディナーに来てくれたメンバーが、式場にも駆けつけてくれていて、ひとしきり写真を一緒に撮った。そこからカレッジに歩いて戻って、ランチはカレッジの食堂で特別のランチが無料提供される。こういう「タダ飯」に出会う度に、これまで支払った学費や寮費を少しずつ取り返している(が全然足りない)気分になるのは、さもしい大阪人の性なのだろうか。料理は大変豪華で、特にローストビーフが美味しかった。

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ランチの途中で、カレッジのトップであるRoger Goodman先生(日本研究者)が、スピーチをしたのだが、彼自身もSt. Antony’sの出身であるというところから、カレッジに誇りをもたせるような見事なスピーチで、それを聞いていると自分は卒業したんだ、オックスフォード生活もこれで正式に終わりなんだとしみじみ思った。あの日々はもう戻ってこないと思うと、正直悲しい。

オックスフォードでの3年半は、大変なこともあったけど、間違いなくこれまでの人生では最良の時間だった。青春というものが小説や映画の外にも実際にあるとしたら、私にとってはこの時間こそがそれであったといえるだろう。去年博士号の取得が決まった時点で実質上私のオックスフォード生活は終わっていたのだが、それに正式にピリオドを打つ卒業式というイベントは、一生に一度しかない、これまた味わいの深い経験であった。今後の人生においても、the best is yet to comeだと思い続けたいけれど、オックスフォードの時間をこれからもずっと思い出し続けるだろうということは、疑いようがない。