紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

なぜ蚊に刺されるとかゆいのか

夏である。私は7月生まれということもあり、幼い頃から夏を愛してきた。梅雨が明けてセミの声が聞こえ始めると心が浮き立ち(※このセミクマゼミでなければならない)、広葉樹の林を目にすればそこに棲んでいるであろうクワガタやカブトムシに思いを馳せ、暑い外からクーラーの効いた室内に入った時の、オアシスとはかくやあらんという快感を愛し、夏の風物詩たるスイカや枝豆や「ずいき(芋茎)」を飽きるほど食べ、夕暮れ時のヒグラシの声を聞いては感傷に浸ってきた。もっとも、日本の夏が年々その凶暴さを増し、一方私は少年時代の無尽蔵の体力を失うのにつれて、自分が愛しているのは、現実の夏というよりも「概念としての夏」であることに、最近になって気付かされつつある。

このように極端にポジティブなイメージを夏に対して抱いている私だが、やはり許しがたいものが一つある。である。近年はヨーロッパにいることもあってあまり刺された記憶はないものの、子供時代には、望んでもいない奴らの寵愛を受けていた。耳元を飛ぶ時の何ともイライラする羽音、すんでのところで逃げられる悔しさ、そして何より数分後に訪れる激しいかゆみ。ああ本当に困った虫である。

f:id:Penguinist:20200829004249p:plain

ところで、余談(①)だが、蚊というのは、なぜあんなに絶妙な速度で飛ぶのだろうか。蚊がもう少しのんびり飛んでくれれば、我々はいとも簡単に奴らを仕留めることができ、かゆみに悩まされることも少なかっただろう。逆に、もっと高速で飛んでくれれば、刺されようがどうしようもないと、我々も潔く諦めることができ、ストレスも減るだろう。中途半端な素早さのせいで勝敗が拮抗するから、倒せなかった時のイライラが募るのである。個人差はあるだろうが、概ね私たちの(家に出没する)蚊に対する勝率は、今年の阪神タイガースと同程度ではないだろうか。まあ蚊は病気を媒介するから、全く歯が立たなくても困るので、もしかすると意外にも、あの中途半端な敏捷さは、蚊と人間双方の絶滅を防ぎ、バランスを保つ均衡解なのかもしれない。

そういえば、余談(②)だが、皆さんは蚊に「刺される」と言うだろうか、それとも「食われる」と言うだろうか、あるいは「かまれる」と言うだろうか。私の家では、「かまれる」とよく言っていたような気がするが、「食われる」も「刺される」も同じように聞いたように思う。下の記事によると、「食われる」「刺される」に比べて、「かまれる」は分布が西日本に偏っているので、東京へのコンフォーミズムにまみれた西日本出身の諸氏におかれては、使用にご注意頂きたい。

さて、本題(というものがあるとすれば)に戻ると、「かゆみ」である。皆さんは、「なぜ蚊に刺されるとかゆいのか」ということを考えたことがあるだろうか。当たり前だ、わけのわからない名前のブログで屁理屈をこね回しているくせにそんなことも知らないのか、とお思いの方もいるかもしれないが、そうではないのだ。「蚊は血を吸うときに唾液を注入していて、それに含まれる物質がアレルギー反応を起こしてかゆくなる」というような、通り一遍の科学的な説明を求めているのではないのである。そんなことは先刻承知である。私の問いはもっと深遠なのだ。

つまり、蚊の唾液に何とかいう物質が含まれているとして、なぜそれがアレルギー反応を起こし「かゆみ」を生じさせる必要があるのか、ということだ。蚊の親切だろうか。「ここ、刺しときましたんで、あとでムヒとか塗っといてくださいねー」という、いわば犯行声明のようなものなのだろうか。しかし、どうせムヒを塗らせてかゆみを止めさせるなら、最初からかゆくする意味はない。いや、製薬会社と結託して、かゆみ止めの売上げのためにかゆみを生じさせているという、陰謀論もありうるか。だが、この論理には穴がある(当たり前だ)。というのも、そもそも蚊は自分の唾液が人間にかゆみを生じさせていることを知らないはずである。前世が人間だった、という可能性を捨てきることはできないが、やはり科学の一端を担う研究者の卵として、「蚊の親切」説は棄却せざるを得ない。

余談(③)だが、皆さんはかゆみ止めは何をお使いだろうか。やはり一番有名なのは、CMの効果もあって「ムヒ」とか「ウナコーワ」とかだと思うが、私が子供の頃家にあったのは、もっぱら「カユドメリン」という薬だったのを覚えている。かゆみを止めるからカユドメリン、なんとも潔い名前である。見習いたいものだ。

さて、蚊に刺されるとかゆいのは、蚊の親切ではないとすると、なぜだろうか。今まで見逃していた蚊の優しさに気づき、不覚にも落涙してしまった皆様には申し訳ないが、実は「答え」はとっくの昔に明らかになっているのである。すなわち、かゆみとは、体を守る防衛反応の一つである。順天堂大学環境医学研究所のウェブサイトには以下のように書いてある。

皮膚に異物が付いた際に、かゆみを感じることによって、異常が起きている場所を私たちに知らせ、その異物を掻いて取り除こうとする行動を起こすことから、かゆみは一種の生体防御反応であると考えられています。

とのことだ。つまり、蚊によって何か異物が注入されたことを感知した私たちの身体は、「かゆみ」を生じさせることによって、我々にアラートを送っているのである。寝ている時に突然激烈な音を立てるあいつ、緊急地震速報みたいなものである。

これで一件落着、となるくらいなら、こんな長ったらしい記事を書いていない。私はまだ納得していない。上の説明には、ニ点問題がある。まず、上のサイトでは、「異常が起きている場所を私たちに知らせ、その異物を掻いて取り除こうとする行動を起こす」と言うが、蚊に刺されたところを掻いたところで、蚊の唾液は取り除くことはできない。むしろ、掻きすぎると皮膚が傷ついて痛い。子供時代に、年長者に「あんまり掻いたらダメ」と言われた経験は、多くの人にあるだろう。つまり、掻いても今更ムダである。だから、蚊に限って言えば、「かゆみ」によって場所を知らせる意味は特にないはずだ。もちろん、蚊を媒介として重篤な病気にかかった可能性があるような時には、初動が早い方がいいということはあるだろうが、でもそんな病気の治療法が見つかったのはたかだかこの100年やそこらのことであろう。その前から我々はかゆかったのだ。やっぱりかゆみに意味はなさそうだ。もっとも、アレルギー反応全体がそうというわけではなく、気付けることでその後の結果を変えられるようなものもあるだろうから、意味がある場合もあるのだろう。でも蚊はそれには当てはまらない。

もう一つ、「なぜ『かゆみ』でなければならないのか」という、より根本的な問題がある。我々の身体が何らかのサインを出さないといけないとして、なぜそれが「かゆみ」などという、中途半端なしかし場合によっては本当に鬱陶しい感覚である必要があるのか。別に、患部が点滅するとか、音を発するとかでもいいではないか。かゆいところは黄色に点滅し、痛いところは緑色に点滅するとか、大いに分かりやすいし、苦しくもないので、よっぽど良いのではないか。よく、痛覚がないと身体の悪いところがわからないから、痛みも大事なんだ、などと言う人がいるが、それは「何もサインがない」場合と比較しているからそういう結論になるだけであって、立論として不十分である。他のより苦しみの少ないサインがあるなら、痛みなんかよりもそっちの方が良いに決まっているのである。かゆみは痛みほどしんどくはないが、それでももっと楽な知らせ方があるはずだ。なぜこんな意地の悪いシステムを我々の身体は選択したのか。解せない。 

というわけで、私はまだ、「蚊に刺されるとかゆい」ということに納得していない。これからも夏が来るたびに、問答無用のかゆみと戦いながら、「なんでやねん」と言い続けるだろう。人類がかゆみを乗り越えるまで。