紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

色とは色でないものである

突然だが、皆さんは何色が好きだろうか。そんなにいきなり言われても答えられないよという方が多いかもしれない。正解だ。この質問には安易に答えてはいけない。好きな色と言っても、ジャケットに選びたい色と、カーテンにしたい色と、博士論文に使いたい色はまったく異なる。いくら赤が好きな人も、真っ赤な博士論文を提出したいとは思わないだろう(紙の色に規則はなかったはずだから、出したら受理されるのだろうか、誰か試してほしい)。たとえそれが血と汗と涙の結晶であるとしても。

「好きな色」に関して、私には苦い経験がある。その昔、中学校に入るとき、遠距離通学だったために、親が初めてケータイを買ってくれるという話になった。まだスマートフォンなるものはなく、誰もが「パカパカケータイ」か、ちょっと進んだ人は「スライドケータイ」を使っていた頃の話である。ある日、父親がなにげない風を装って私に聞いた。
「君は何色が好きや?」
私は何でそんなことを聞くのかと訝しみつつ、答えた。
「黄色」
数日後、父に手渡された箱には、全面鮮やかな真っ黄色のケータイが鎮座していた。

さて、今日私はこんな少年時代の心の傷をさらけ出すために記事を書いているのではない。もっと根本的な問題について問いたいのである。すなわち、「色とは何か」という問題だ。

何を言っているんだこいつは、と思われた方もいるかもしれない。博士論文というのは人をこんなにもおかしくしてしまうのかと、つい同情の涙をこぼしてしまった心優しい方もいらっしゃるかもしれない。だが呆れたり哀れんだりする前に、今一度考えてみてほしい。色とは何なのか?

もちろん、「ソーダ味」とは何かを世に問うた以前の記事同様、「答え」が簡単に調べられることはわかっている。ぱっと目についたのでキャノンがキッズ向けに書いた記事から引用してみる。

太陽や電球などは、それ自体が光を放っています。ですから、太陽や電球の「色」は「光の色」だと言えます。光の色は、「光の三原色」と呼ばれる、赤、緑、青の組み合わせで作ることができます。

では、光でないものの色はどうして見えるでしょうか。実はものが光を反射した色が見えているのです。真っ暗な部屋では色が見えないどころか、ものの形も分かりません。これは、物体が光を全く反射していないからです。外に出て、月明かりなどの弱い光がある場所では、ものの形は分かりますが、これは光が十分に反射できないため、色までは見分けられません。

光を十分に受けると、物体の色が見えます。この色は、その物体が反射している光の色です。たとえば緑の木の葉は、太陽や電球の光を受けると、その光のうち緑色の光だけを反射します。それ以外の色の光は物体が吸収してしまうのです。こうした反射光が私たちの目に届いて、「色」として見えています。

要するに、それ自体が光源であるもの以外の「色」とは、それが反射した光の色だということだ。

なるほど、と皆さんは思っただろうか。私は思わなかった。というのも、色々な光を物体が吸収しているのに、その物体が反射したもの、つまり跳ね返したものがその物体の色だというのだ。これはおかしくないだろうか。

だって、吸収したものと、出したもの、どちらがその物をよく表しているかといえば、どう考えても吸収したものであろう。出したもののほうがその物を規定しているというのなら、たとえば我々はみんなうんちである、ということになってしまう。違うだろう。食べ物に含まれる諸々の成分のなかで、吸収した栄養素こそが我々を規定しているのであって、決して吸収されなかった物質ではないのだ。

そうすると、我々の目に見えている色とは、本来最もその物体の本質とはかけ離れた光であるということになる。色とは色でないものなのだ。 でも一方で、物体に吸収されてしまった光の方は、吸収されてしまったがゆえに目にすることはできない。結局、私たちは物体の「本当の色」を目にすることは出来ないのだ。これを悲劇と呼ばずして何と呼ぼう。なお実害はない。

これを題材として、良い短歌が一首作れそうな気がするのだが、それを記すには余白が足りないので、やめておくことにする。