紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

ケンブリッジで自分の授業を教える

更新が1ヶ月以上も滞ってしまった。学期に入ってから色々と非常に忙しく、充実してもいたのだが、ブログに回している時間がなかったのが正直なところである。間が空きすぎて勘が鈍ったのか、安物YouTuberみたいなタイトルしか思い浮かばなかった。この期間に何が起こっていたのかについては、また別に書く機会もあると思うが、とりあえず忙しさの主たる要因の1つは、ティーチングであった。

ジョブマーケットを見据えて、プロフィールを強化しなければならないと考えていた私は、研究・教育・セミナー運営の3つの経験をポスドク期間中に積もうと考えていた。実際のところ、学期中は後ろの2つと仕事への応募に時間を取られ、思うように研究が進まなかったのが反省点だが、前にも言及したCambridge IR & History Seminar Seriesの運営に加え、今学期は自分でシラバスからデザインした修士課程用の授業を1人で教えるという、今までにないチャレンジングな経験をした。

オックスフォードの博士課程の間は、学部生のチュートリアル(全体のレクチャーに付随して各カレッジで行われる少人数の指導)を教えた経験はあっても、それはあくまで先生が作ったシラバスに則ったものであり、担当する学生も1人か2人だった。それが今学期教えたのは、修士課程の院生が対象の、自分で一から設計した授業であり、しかも英語で最初から最後まで自分一人で運営しないといけないのだから、将来のために必要とは思いつつ、正直始まるまで相当ビビっていた。自分よりシャープな学生がいたらどうしようとか、ナメられたらどうしようとか、つまらないと思われたらどうしようとか、話をもらった夏以降、不安に襲われることは多かった。

そもそもなぜ私のようなポスドクが、自分の授業を担当できるのかというと、ケンブリッジの政治国際関係学部の修士課程(フルタイムのMPhilとパートタイムのMStがあり、ここでは前者)は、基本的に全部が選択科目のセミナーになっており、各学期15個ぐらいある選択肢の中から3つを選択して受講する決まりになっている。そうなると、予め科目が決まっているプログラムとは異なり、大学側にとっては選択肢が多い方がいいわけで、結果的に色々な教員やポスドクが、自分の研究に関連する授業を自由に作成できる仕組みになっているのだ。体系的に学べないという学生にとってのデメリットはあるものの、教える側にとっては、自分がやっていることを教えればいいわけで、実際のところこの仕組みは教員の負担軽減のために考案されたのだと思う。

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ケンブリッジの紅葉は本当にきれい。

いずれにせよ、私はこの枠で”Politics of Natural Resources”というセミナーを担当し、先月末に無事完走した。始まるまではどうなることかと思っていたが、終わってみれば大変に楽しい経験だった。天然資源をめぐる政治は、私が修士課程以来取り組んできたテーマでもあるので、まあ初めて教えるにはこれしかないだろうと思って決めたのだが、正直こんなニッチな授業を取る学生はいるのだろうかと半信半疑で臨んだ。しかし蓋を開けてみると13人と、他の授業と変わらない人数の学生が受講してくれ、自己紹介の時に聞いたところ、ほとんどの学生が第一希望か第二希望で選んでくれたようであった。これは新鮮な驚きだった。

授業をやっているうちに、なぜ学生が興味を持ってくれたのか分かってきたのだが、それはどうやら近年の気候変動への関心の高まりに起因するようだ。今年はスコットランドでCOPなども開催されるなど、温暖化や環境との関係で、化石燃料への注目が増しているらしい。考えてみれば、ジョブマーケットにおいても、今年はやたらと環境やサステナビリティに関係する募集が多くて、社会で起こっていることは大学にも還元されるのだなという、当然のことを改めて実感していた。私はこれまで別に温暖化や環境との関わりに重点を置いて資源を研究してきたわけではないのだが、こうした繋がりを周囲が見出してくれるなら、それに乗っかって、そのようなフレーミングで研究をしていっても面白いなと思うようになった。その意味で、ティーチングは研究にとっても有意義だったと言える。

ところで、前述のように授業を始める前の私の懸念は、ほとんどが学生との関係に関するものだったが、いざ始まってみると、学生が本当にいい子たちばかりで助かった。みんな素直にこちらの話を聞いてくれ、授業参加も、ばらつきはあれど総じて積極的であり、私の冗談にも笑ってくれるし、授業後質問しに来たり個別に面談を希望する学生も多かった。最終回が終わった後は、私のところに来て感想を言ってくれる人が何人かいて、なるほど教育の喜びとはこういうものかと思った。もちろん、学期の中盤には中だるみのような感じで議論が盛り上がらない回があったり、話しすぎる学生と話さなすぎる学生への対処に多少苦労した面もあったが、総じて充実した経験であった。

特にはっとさせられたのは、個別に相談をしに来てくれた学生が言っていたことだった。その子は韓国人なのだが、全部で60人以上もいるコーホートの中で、アジア人は中韓からの数人しかいない。教員に至ってはほとんど全員が白人という中で、自分と似たバックグラウンドの人が教えているということが嬉しい、ということだった。自分をそうやって他者の目から俯瞰的に見ることはないし、イギリスにいると人種的な意味でマイノリティであることが普通すぎて、それをむしろ自分の個性としてアピールするような気持ちになったりもするのだが(他方でマイノリティゆえの苦労も多い)、確かに客観的に見ればそうだよな、と思った。考えてみれば、その韓国人の子と、もう1人インド系の学生は、特にフレンドリーに接してくれていたと思う。

イギリス生活が5年目になり、別にそれでイギリスにアイデンティティを持つようになるわけでは全然ないが、これまで持ってきた日本への強いアタッチメントが相対化されつつある感じもあって、自分のアイデンティティはむしろ「海外在住の日本人」という曖昧なものに変化してきているような気がする。あとどれだけイギリスにいるかも、その後どこに行くのかもわからないが、とりあえず今は今の自分のあり方が心地良い。

さて、今学期のティーチングは終わったものの、来学期には学部生向けのレクチャーを担当することになっていて、目下その準備中なのだが、とりあえず人生初の「自分の授業」を完走してみると、まあ次も大丈夫だろうと思えるようになった。英語で自分の授業を教えるなど、数年前には想像もつかなかったことだが、結局のところ人生はこうやって、少しずつ「安全地帯」を広げていくことの繰り返しなのかもしれない。