紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

2024年の読書

自分が本を書く側に回ったからか、あるいは研究費で本を買えるようになったからか、はたまた帰国してから簡単に本屋に行けるようになったからか、この1-2年ほどは読書熱、特に小説以外のノンフィクション、人文書の読書熱が圧倒的に上がっている。今年からはそれが高じて、同年代の色んな分野の研究者と編集者を誘って2ヶ月に1回ほど、人文書の読書会(とその後の飲み会、あるいはこっちがメイン)を開催している。これがまた楽しい。

とはいっても依然として小説もわりと読んではいるので、今年読んで面白かった本をノンフィクションと小説に分けて紹介したい。なお、自分の専門分野の本は除外している。

ノンフィクション編

前田隆弘『死なれちゃったあとで』中央公論新社、2024年

今年読んだ本で一番心に残ったのは、これかもしれない。タイトルの通り、筆者の周りで亡くなった人について、その前後の話とか回想を書いたエッセイ本なのだが、人の死ぬまでにも、死んでからにも色んなストーリーがあって、それを湿っぽくならずに、時にユーモアを交えながら、お涙頂戴に流れずにでも感情を揺さぶるような書きぶりで綴っている。筆者のことは全然知らなかったし、ただ書店でたまたま手に取っただけなのだが、予想外に忘れられない一冊になった。

トーマス・ジョイナー『男はなぜ孤独死するのか』(晶文社、2024年)

私は一人の時間が絶対に必要なタイプで圧倒的にintrovertなのだが、同時に寂しくなるのはすごく嫌いで、孤独についてはひどく恐れている。5年間をイギリスで過ごして親しい友達もできた後に帰国すると、かつては話が合った日本の友達と合いにくくなっていたり、あるいはライフステージが進んでなかなか会えなくなったりしていて、ソーシャルな繋がりの形成や維持に難しさを感じていた。

そんな中で出会ったのがこの『男はなぜ孤独死するのか』という、なかなか衝撃的なタイトルの本なのだが、これはよくある危機感を煽るだけのくだらない本とか、何の根拠もない説教垂れ流し本とかとは違って、心理学者による、実際の研究成果に基づいた確かな本である。男性の自殺率や孤独の確率が高いのは、生育過程で対人スキルが発達しないまま大人になったり、仕事の成功を追求するあまり人間関係を疎かにしてしまうからといった、まあ当然といえば当然な説明なのだが、エビデンスを与えられると対策も考えやすい。

これを読んでから会う人会う人に「最近孤独死しないためにソーシャルな繋がりを頑張って作ってるんだよね」ということを言っていたら苦笑されたが、年寄りになってから始めても遅いのである。上記の読書会なんかもその一環と言えなくはない。

しかしこうして並べてみるとなぜか「死」についての本が多くて、今も中公新書の黒木登志夫『死ぬということ』を読んでいるのだが、別にまだ50-60年以上死ぬつもりはなくて、むしろ生きるために読んでいる。ただ、今年父方の祖母が亡くなって祖父母が全滅したので、自然と死について考えることが多くなったのかもしれない。

宋恵媛、望月優大『密航のち洗濯』(柏書房、2024年)

日本社会における多様性に学問的というよりは一般的な意味での関心があり、難民支援協会がやっている「ニッポン複雑紀行」の記事に注目していたのだが、そこから出た本がこちら。ファミリーヒストリーであり、政策とか歴史をマクロに記述するのではなく、1つの家族にフォーカスして、そのストーリーを語る中で政策や法律の話が出てくる、という形式になっていて、単に勉強になるだけではなく読み物として純粋に面白い。小説のPachinkoと一緒に読むとより面白いかもしれない。前述の読書会でも取り上げた。

本筋ではないが、本書で取り上げられている尹紫遠は、朝鮮人初の歌集を刊行した人物らしいが、本書に出てくる彼の短歌も素晴らしいものだった。

 

小説編

テイラー・ジェンキンス・リード『女優エヴリンの七人の夫』

大女優の回想録を書くことになった記者を主人公として、過去と現在が徐々に交わりつつ愛というものを真正面から扱った小説。今年はあまり小説を新規開拓しなかったのだが、その中で印象に残ったのはこれだろうか。

北方謙三水滸伝』『楊令伝』『岳飛伝』シリーズ

今年の前半は、小説は北方謙三の『水滸伝』と、その続編にあたる『楊令伝』『岳飛伝』シリーズばかり読んでいた。それだけでも19+15+17=51冊もあるので、読破するのにさすがに時間はかかった。もともと私は小説に関しては、これと決めた人を片っ端から読んでいく「焼畑読書」をやるタイプなので、水滸伝シリーズを読んでいる間は次に何を読むか悩まなくていいし、またある程度面白いことが分かっているので当たり外れに一喜一憂しなくてもよくてたいへん楽であった。

私はずっと時代小説が好きなのだが、藤沢周平池波正太郎山本周五郎といった最上の書き手はあらかた読み通してしまって、最近の書き手は確かに面白いものはあるのだが、やはり今風のエンタメ小説の一環として書かれている感じがあって、藤沢や池波の小説と同じようには楽しめない。同じノリで楽しめるものを探していて、たまたま今頃になって水滸伝と出会ったというわけである。

まあこれだけ長くなると、さすがに惰性になってくる部分はあるし、時代設定もあって登場人物がほぼ男ばっかりとか、言い出すとあまりよろしくないような側面もあるのだが、やっぱりこのジャンルは好きで身体が求めている。

北方版『水滸伝』は、もちろん設定や人物に本家と共通点はあるのだが、基本的にオリジナルバージョンであって、『楊令伝』とか『岳飛伝』はほぼまったくのオリジナルである。今年イギリスに滞在していたときに中国人の友達に水滸伝(英語ではWater Margin)を読んでいる、という話をしたが、ああそうなんだ、という程度の反応だった。

司馬遼太郎に手を出す

上記と同様に時代小説の(主観的)枯渇を受けて、ついに手を出したのが司馬遼太郎だった。私が好きなのは、時代設定は歴史的だが登場人物等はまったくのフィクションという「時代小説」であって、実在の歴史上の人物を扱う「歴史小説」は守備範囲外だったのだが、そうも言えなくなった。

司馬遼太郎はずっと私の出身地(中学の時に引っ越したが)である大阪の東大阪市に住んでいたことから、最寄り駅の近くには司馬遼太郎記念館というものがあり、縁があったのだが、筆者が「筆者」として突如語り出す独特の文体に抵抗もあって読んでこなかった。しかしなんでわざわざ好き好んで出身地でもない東大阪のようなごみごみしたガラの悪い町に住んでいたのかと思っていたら、司馬は猥雑な町に住むのが好きだったかららしい。蓼食う虫も好き好きというやつだ。

依然として文体には違和感もあり、ドハマリするというほどぴったりとは来ていないのだが、長くてまずまず面白いので、読むものを考えなくてよい安心感があってぼちぼち読み進めている。

 

そんなわけで今年も終わりである。2025年も楽しみ。