紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

ゾウの時間、査読の時間:論文出版こぼれ話②(EJIR)

先月頭にEuropean Journal of International Relationsという雑誌に、新しい論文が掲載された。私は博士課程まで、「天然資源が主権国家の独立過程に与えた影響」というテーマを研究していて、事例としては東南アジアのブルネイ、中東のカタールバーレーンなどを扱っていたのだが、博論の次の大きなプロジェクトとして、近世日本(主に江戸時代)を藩などで構成される国際システムとして捉え、それを国際関係論の観点から解釈することで、従来の理論で前提とされてきたことを問い直す、というような研究に現在取り組んでいる。元々これは博士課程の途中から、サイドプロジェクトとしてやり始めた研究なのだが、今後数年(これを書籍として出版するまで)は、これを自分のメインの研究としてやっていくつもりだ。

今回出た論文はそのプロジェクトの最初の論文で、主権国家の構成要素の1つである領土、それを構成する1つの要素であるところの直線的な国境(linear borders)というものが、従来はヨーロッパで誕生し、他地域にはその後ヨーロッパから伝播したと考えられていたものの、実際にはヨーロッパにおける発展と同時期に日本でも同じようなものが発達しつつあったのだ、ということを示している。詳しくはぜひリンク先を読んでみてほしい。
https://doi.org/10.1177/13540661221133206

強欲な出版社とオープンアクセス

少し脱線するが、この論文はオープンアクセスなので無料で誰でも読める。学術誌を出版している商業出版社は強欲で、学術論文をいくら書いたところで、あるいは査読したところで研究者には1円も入ってこないのは周知のところだが、読者にとっては、通常論文は掲載されている雑誌を所属大学が購読しているか、あるいは自費で一本ごとに購入しないと読むことができない。それを誰もが読めるようにするためにオープンアクセスという仕組みがあるのだが、それがなぜ可能かというと、研究者の側が出版社にお金を払うからである。つまり、自分は無償で論文を発表した上に、さらに金を払って公開するということだ。なんという馬鹿げたシステムだろう。冗談は顔だけにしてほしいものだ。

そしてこのオープンアクセスにかかる費用は何十万という単位なので、普通の研究者は自分では負担できない。だが欧米の有力大学では、大学が各出版社と包括契約を結んでいて、所属研究者のオープンアクセス代をまとめて払っており、個別の研究者は無料で(あるいは相当割引された価格で)論文をオープンアクセスにできる。私の場合、論文がアクセプトされた時点ではケンブリッジに所属があり、ケンブリッジがSAGEと契約していたため、この費用を免除されたのである(後に公開される際には東大に所属を修正しているが)。国内の大学でそういう契約を広範にしているところはあるのだろうか。いずれにしても、万国の研究者は団結していつかはこのアンフェアなシステムを打破するべきだと思う。

EJIRという雑誌

さて、この論文が掲載されたEuropean Journal of International Relationsという雑誌は、European International Studies Associationという学会と、European Consortium for Political Researchという学会の国際関係分科会とが共同で出しているもので、私が国際関係論で一番好きな雑誌である。私が現在取り組んでいて、この論文もその範疇に含まれる歴史的国際関係論(historical international relations)という領域は、このEJIRという雑誌をその中心的な発表先として展開しており、また非西洋の事例に関する研究も比較的多く発表されている。お気に入りの雑誌に論文が掲載されて、正直とても嬉しい。

ヨーロッパの雑誌だということもあり、また掲載される研究の方向性がアメリカの動向とは違うので、残念ながらEJIRはアメリカではあまり重視されていないようだが、ヨーロッパ(以下イギリスはヨーロッパに含まれることとする)では掛け値なしにトップジャーナルの1つとみなされている。どれくらいかというと、国際関係論の最高峰はヨーロッパでもInternational Organizationと認識されているのだが、その次にEJIRとInternational Studies Quarterlyが来るぐらいである*1。ISQはアメリカ的な雑誌であって(Daniel Nexonがエディターをやっていた時は違ったと言われているが)、EJIRの方がヨーロッパでは読まれているといっても間違いではないと思う。

というわけで、多分日本の人はあまり気づいてくれていないだろうけど、EJIRに論文を載せるというのは結構大きなことで、これだけでイギリスならオックスブリッジやLSEは無理だが、それ以外の大学の専任講師職はどこか引っかかるだろうというくらいの業績にはなる。実際に知り合いで、PhDの間にEJIRに単著論文1本を載せ、修了と同時にロンドン近郊の大学の専任講師になった人がいる。まあ自分でそんなことを言っていても仕方ないのだが、相場感を分かってくれる人がどうも日本には少ないのでこんなところでアピールしてみる。

査読が長い

しかし今回の出版経験で辟易したのは、査読にかかる時間の長さであった。この論文は幸いにして最初に投稿した雑誌にアクセプトされたのだが、投稿したのは2021年の8月である。つまり出してからオンライン掲載されるまで1年3ヶ月かかっている。8月に投稿してから2ヶ月経ってもステータスが「査読者選定中」のままで、業を煮やしてmanaging editorにメールしてみたら、1人は既にレビューを提出したのだが、2人目が途中で断ってきたので代わりを探しているとのことで、結局4ヶ月かかった。そこから3ヶ月で原稿を再提出して、今度はすぐに結果が出るかと思ったら、またそこから4ヶ月も待たされた。それも何度かmanaging editorに問い合わせをしてせっついてもらった結果である。この人は毎回すぐに返事をくれて、嫌がらずにリマインドなどもしてくれたのだが、担当のエディターが問題で、この人がレビューが出揃ってもずっと仕事をせず、なかなか結果が出なかった。ようやく結果が来たと思ったら、査読者自身もそこまでこだわっていないような些細なコメントがまだ残っているからといって、conditional acceptanceではなくminor revisionにされて、そこからまた3ヶ月ほどかかった。どうせ査読者のコメントをそのまま横流しするだけなのに何ヶ月も仕事を止めるなら、なぜ義務でもないエディターの仕事をするのだろうと苛立ってしまう日々だった。

特に就職がかかっている若手研究者の場合、査読の遅れはキャリアを左右しうる重大な問題である。コロナになってから、ジャーナルはどこも査読者の確保に苦労していると言われており、査読にかかる時間は全体的に延びる傾向にある。同じレベルの研究でも、どのタイミングで業績が出るかは運の要素が非常に強く、それによって就職も左右されるわけだから、アカデミアにおける成功も失敗も、随分と相対化して見なければならないと思った。

「この道しかない」ことはない

EJIRが日本ではあまり認知されていないという話をしたが、日本では、「海外の研究」とか「世界水準の研究」などという話が展開されるときには、どうもアメリカばかりを参照した話がなされがちである。これは国際関係論においては「北米」ですらなくて、というのもカナダではトロント・マギル・ブリティッシュコロンビアといった超有名校以外では、アメリカよりもむしろヨーロッパに近いタイプの研究が行われているからである。確かに学界に占めるアメリカの比重は他国より大きいし、彼の地における動向に気を配っていることは重要ではあるのだが、間違ってもすべてをアメリカに還元できるほど大きなものではない。「世界=アメリカ」という発想は当然のごとくアメリカ経験者から出て来がちであり、私の意見ももちろんヨーロッパ経験者のポジショントークという側面はあるわけだが、違いは前者が必ずしもそれ以外の地域で行われていることに通じていない(知る必要性を感じていない)のに対して、後者は「メインストリーム」としてのアメリカでの動向を一応は踏まえた上で、それにプラスしてヨーロッパや他地域の動向を把握しているということだろう。

良くも悪くも、「第一」の国以外にベースを置く者は、そこを見据えた上でそことの距離を測っていかざるを得ないわけであるので、そうした立場にいる人間は、「自分の周りで起きていることが世界を代表するもので、それが遍く世界の標準であるべきである」という発想にはたどり着きにくい。「そういう世界もあります」と「それが世界です」は全然違うのだ。今他でもないヨーロッパで、国際関係論におけるヨーロッパ中心主義に対する見直しが進んでおり、非西洋/グローバル国際関係論が盛り上がっているのも、やはり少なくとも学界において、自分たちの帝国主義的発想を見直さざるを得ない立場に置かれているからではないだろうか。そう考えると、没落するのも悪いことではないのかもしれない。

もちろん世界にはアメリカとヨーロッパしかないわけではなくて、これからはもっと他地域からも独自の研究潮流が出てくればいいなと思う(なかなかまだ難しいようではあるが)。日本の歴史や地域に根ざした「伝統的な」国際関係論コミュニティは、アメリカよりむしろヨーロッパと親和性が高いのではないかと私は思うのだが、ヨーロッパに留学する人もあまり多くないので、情報が伝わらないのか、身の回りに同志はあまり見つけられておらず、この辺が最近の悩み(というほどでもないが)である。まあ別にこれはどちらかと繋がらなくてはならないという話では全然なくて、もしどこかと学び合うとすれるならば、ヨーロッパで行われていることは私たちの参考にもなるのではないか、さしあたり彼らのフォーマットを利用すれば英語で研究も出しやすいのではないか、という程度のことである。

政治学や国際関係論では、どういうわけかその人の立場にかかわらず、英語で書くことと量的手法を用いること、そして査読論文至上主義が不可分とみなされがちなようである。そこでは英語で研究を発表するということが、すなわちアメリカに行って最新の手法を身に着けて査読付き論文に専念するということと半ばイコールにされている。それに肯定的な人も否定的な人も、そういう前提をなぜか共有しているように見える。しかしそうすると、学術論文は英語をメインに書きたいがアプローチは質的・歴史的、日本語で学術書や一般書も書きたいという私のような人間はどこに居場所を見つければよいのかよくわからない。

でも実際には、英語で書くということは、特定のアプローチや媒体を選択することと全然同義ではない。質的な研究を多くの研究者がリスペクトする媒体に掲載することは、わざわざ言うのもバカらしいほどありふれており、いやでもトップジャーナルには載っていないと言うならば、それはその人のトップジャーナルの定義が狭すぎるか、見ている範囲が違うのである。例えば私のいる領域の研究者は、American Political Science Reviewを自分の学問分野のトップジャーナルとは思っていない*2が、Review of International Studiesはトップジャーナルだと思っている。いやでもそういう方向性では就職できないと言うならば、見る国を変えれば全然そんなことはないことは上記の通りだし、APSRを読んでいないなら政治学者ではないと言うならば(さすがにそんな人はいないだろうけど)、そんな了見の狭い学問はこっちから願い下げだが、まあ言ってしまえばイギリス・ヨーロッパなどでは政治学と国際関係論は、関連のある別の学問という程度なので実際に私は政治学者ではないのかもしれない。

要するに、私はみんなやりたいようにやればよいのでは、と思う。私も普通の人間なので、人の研究がつまらないと内心思うことは正直あるが、別にそれを当人に言う必要はない。英語で書けば読者は増えるよな、とは思うが、日本語で書かないとアプローチできない読者層だっているのだろう。何事も、diversity and inclusionが大事だ。マナー講師じゃないのだから、他人の家に入っていって生活指導をする必要はないだろう(マナー講師もそんなことはしないか・・・)。

例えば上記のような「メインストリーム」の方向性を志して、アメリカでやっていきたいという人がいれば、それはもう go for it 以外の言葉が浮かばない。そういう方面でお手本になる人は既にたくさんいらっしゃるし、発信も多くされているので、情報には困らない状況が既にできているだろう。だけど私が個人的に最近危惧しているのは、留学したいし英語で研究もしたいが、アプローチは質的・歴史的というような学生が、自分には日本に留まるのか、アメリカに行ってバリバリAPSR的な研究をやるのかの二択しかないと思ってしまうのではないかということである。実際には「第三の道」があるにもかかわらず。

質的研究、歴史研究、地域研究をやって、英語でハイレベルな媒体に研究を発表することは当たり前に可能であり、そういう人は既に結構たくさんいる。こうした研究を志向して留学したいと思う院生や学部生が、自分を曲げなければいけないと思い込まないように、今後私自身が、周囲とも協力しながら「こういう道『も』あるよ」という「布教活動」をしていかなければいけないのかな、と思っている。自分も日本で修士をやっていた頃は、周りの人とやっていること、やりたいことが違いすぎて「本当にこれでいいのかな」と思い続けていた記憶がある。なので、これから微力ながら、私が進んでいる(途上の)道について、できる範囲で「道案内」をしたいと思う。まあ結局は、他人が何をやっていようと自分はこれをやる、というくらいの頑固さとこだわりが必要、という話になるのかもしれないが。私も別に自分がやっているようなことをみんながやるべき、とは全然思っていなくて、というか人と違うことをやるのが好きなので、みんながやり出したら興味を失ってしまうかもしれない。来る者拒まず去る者追わず、mind your own businessでいきたい。

12月に入ってから、どんどん寒くなってきた。今夜は鍋にしようと思う。

 

*1:International SecurityはIR全体を扱っている雑誌ではないのでここには入れていない。

*2:私も長らく読んでもいなかったが、少し前に編集チームが変わってから、色々な意味で多様性を重視するという方針になり、実際に質的研究で出版される例も出てきたので、多少読むようにはなった。