紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

捨てる神(×7)あれば拾う神あり:論文出版こぼれ話③(CP)

「1月は行く」などとその過ぎる早さを指して言われるが、2023年の1月は私にとってはかなり長かった。正月早々、実家から帰京しようと思った矢先に母親のコロナ感染が発覚して滞在を延長し、ようやく東京に戻ってきたと思ったら今度は手足口病のような発疹ができたり数年ぶりの偏頭痛に襲われたりしながら、そうした体調不良の元凶と思われる、所属先から(文系としては)大きめの外部資金に応募するための申請書書きをようやく終えて、やっと1月が終わった。正月は楽しかったのだが、あれがまだ1ヶ月前とは信じられない。

苦戦からの意外な幕切れ

色々大変だった1月だが、研究の面では予想外に、非常に報われる1ヶ月となった。それは1つには、半年ほど待っていた博論を改訂した英文単著書籍の査読結果が返ってきて次のステップに進めたということがあるが、そちらは内容はともかく、時期としてはそろそろかなという予想はしていた。しかし驚きだったのが、10月頃に投稿した論文が、査読1ラウンド目で(R&Rを経ずに)Comparative Politicsという雑誌にアクセプトされたことである。前回の記事で今年の抱負として挙げていたことの1つに、「論文1本出版+1本投稿」というのがあったが、その難しい方の半分、つまり論文1本の出版がなんと1月の時点で決定してしまった。

ここまで聞くと「このlucky bastardが」と思われる方もいるかもしれないが、確かにこの雑誌の査読結果はめったにない幸運だったものの、この論文が実に8誌目で採択されたことを付け加えれば、決して簡単な道のりではなかったことを分かってもらえるだろうか。最初にこの論文を投稿したのは2020年の終わり頃だから、2年以上は採択までかかっているわけで、しかもこの論文は私の博論の一部を切り出したものである。博論ベースの論文という、院生・ポスドク時代にはほとんどそれが唯一の武器であったものが、2年もリジェクトされ続ける精神的苦痛を想像していただきたい。賠償請求をしたいぐらいだが、あいにく誰に請求すればよいのか分からない。

Comparative Politicsという雑誌

8誌目といっても、Comparative Politicsが二流の雑誌なのかというとそうではなく、むしろ比較政治学をやっている人なら、おそらく誰でも読んだことはあるし、これが一流とみなされる雑誌であることは納得してもらえるだろう。私が生まれるより前の論文だが、中東研究あるいは政治体制、国家などを扱っている研究者ならだいたい読んだことがあるだろうLisa Andersonの"The State in the Middle East and North Africa"が、CPに出た論文として私の頭に真っ先に浮かんでくるものだが、その他にも沢山の有名論文がここに掲載されている。私が過去に出したDemocratizationという雑誌に採択されたブルネイの政治体制に関する論文は、オックスフォードに進学して間もなく投稿開始したものの、Comparative Politicsからはデスクリジェクトされてしまったので、数年越しにリベンジできたということになる。ちなみに同論文は最初にWorld Politicsに投稿して、「4ヶ月後にデスクリジェクト」された苦い思い出があり、それ以来WPという地雷原には近づかないようにしている。

近年、比較政治学の「トップジャーナル」とされる雑誌では質的研究が採択されにくくなっており、Comparative Political Studies、World Politicsなどのかつては質的研究を掲載していた雑誌も、近年は専ら量的研究ばかりを掲載するようになっている(もちろん例外はちらほらあるし、ことCPSのエディターは質的研究でも良いものなら採択してくれそうな感じはあるのだが)。質的研究にフレンドリーな比較政治のトップジャーナルというと、Perspectives on Politicsか、このComparative Politicsのどちらか、というのがだいたいの共通認識ではないだろうか。

七福神に捨てられる

何で8誌も出したのにまだトップジャーナルが残っているんだと思われるかもしれないが、それはこの論文を当初は主に国際関係論系の雑誌に掲載しようとしていたからである。植民地時代の石油と国家形成、というテーマは、国際関係論と比較政治学の中間的なテーマであり、イギリスに行って以来IRに傾いている私はできればこれをIRの雑誌に出そうと思っていた。博論の内容ということもあり、水準にそれなりに自信もあったので、適当な雑誌で満足したくはなく、トップから順番にチャレンジしていくつもりだった。

というわけで、満を持して最初は天下のInternational Organizationに出したのだが、無事査読には回り、査読者のコメントもタフではあったが「これR&Rでもいいのでは?」という感じだったものの、エディターは気に入ってくれずリジェクトとなった。次にInternational Studies Quarterly、American Political Science Reviewと出したのだが、いずれも査読には回ったものの、「事例が少ない」とか、「最近同じような論文を読んだ、〇〇とかMukoyamaとか」などと言われてリジェクトされた。

ISQにハネられたのがちょうどケンブリッジポスドクを始めた2021年の夏前くらいで、カレッジでポスドク仲間の集まりに参加している最中だった。夕食を終えてもまだ燦々と降り注いでいる夏のイギリスの日差しの中で、ずいぶんと打ちひしがれた気持ちになったのを覚えている。ジョブマーケットも控えていたこの時が一番沈んでいたかもしれない。

ケンブリッジの牛たちが慰めてくれた。

次に考えられるのはEuropean Journal of International Relationsだったが、当時既にここで査読中の別の論文があり(後に採択)、全体の業績も少ないのに同じ雑誌に2つ出すのもなあ、と思って、思い切って安全保障系の内容に無理やり結びつけてInternational Securityに出すことにした。しかしやはり無理があったのか、ISからはデスクリジェクトされ、続いて同じような系統のSecurity Studiesに出したら、査読には回ったもののやはり「安全保障とは関係なくない?」と言われて落とされた。

ここまで来たら仕方ない、良い雑誌だがヨーロッパなど一部地域以外ではあまり認知度のないReview of International Studiesに出すか、などとナメたことを考えて投稿したらしっぺ返しのデスクリジェクトを食らい、このあたりでかなり諦めモードに入ってきた。もうこの論文は掲載されないのではないか、幸い書籍の方は順調に進んでいるので、そちらが出るなら論文はなくてもいいか、というメンタリティになっていたのである。

この時点で私のお気に入り雑誌、EJIRにまたトライしてもよかったのだが、別論文が採択されたこともあり、やはり同じ雑誌に2つ出すのもなあ、と思い、最後のあがきで、論文を比較政治寄りに構成し直すことにした。これでPerspectives on PoliticsとComparative Politicsをトライして、無理だったらEJIRに出し、そこでもリジェクトされたらもうトップジャーナルにこだわるのはやめてセカンドティアのジャーナルに出そうと決めた。

で、まずPerspectives on Politicsをトライしたのだが、残念ながらまたデスクリジェクトとなり、諦めモードが強まった。振り返ると、IO・APSR・ISQは一応査読まで回ったのに、その後の方がデスクリジェクトが多くなっているのは不思議である。フィットの問題なのだろうか。そして8誌目のComparative Politicsでついに採用、となったわけである。

不思議な査読結果

といっても、この査読結果もまた不思議で、2人のレビュアーのうち1人は非常に好意的で、修正すべき箇所も「踏まえていない先行研究がある」という程度だったのに対し、もう一人は逆に「この論文は間違っている。他にも色々要因あるから。」みたいな3文くらいの非常に短い(やる気も何の根拠もない)コメントで(だったら査読引き受けるなよと思った)、意見が両極端に割れていた。そうなるとエディターの判断になるわけだが、彼/彼女らがこの論文の価値を最終的に信じてくれたのだろう。ニューヨーク市立大学(編集元)に感謝。そして、肯定的なレビューの方は先行研究のことぐらいしか注文を付けていないので、R&Rにするにしても具体的な修正指示ができないため、一回目で採択となったのではないだろうか。

査読結果のメールが来たときは、「はいはいどうせ今回もダメでしょ」と思いながら期待せずに開けたので、「アクセプト」と書いてあってめちゃくちゃ驚いた。そうでなくても1回目でアクセプトされることなどほとんどないのに、これだけ苦戦した論文だから、まったく予想していなかったわけである。

教訓、のようなもの

将来のことは分からないが、たぶん今回の論文が、人生で一番苦しんだ論文になるのではないかと思う。これからもたくさんリジェクトされることはあるだろうが、自分の実力を証明しなければならないキャリアの最初期の段階で、最も心血を注ぎ込んだ博士論文の研究を、就職の心配をしながらリジェクトされ続けるというほどの苦しさは、もうおそらくないだろう。努力をしていればいつか報われる、というような月並みな人生訓は言いたくない。一定水準を満たしていれば、ジャーナルの査読結果など所詮は運なので、腐らずに、諦めずにガチャを引き続けていれば、そのうち当たりが出る「かもしれない」、というだけのことである。