紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

短歌の近況

留学中に短歌を趣味として始めてから、早5年近くが経った。感覚的には2-3年くらいのつもりだったので、改めて計算して驚いた。4年前にこんな記事を書いている。

5年やっているとはいえ、私が短歌に向ける熱量には波があり、コロナで実家にこもりきりで博論を書いていた時期には毎日のように作歌していたのに対し、就職して忙しい時期は何ヶ月か結社(歌人の集団、何百人単位)の月詠(月に決められた数の歌を提出して選歌を受ける)をサボったりもしてきた。

しかし他の文芸ジャンルと同様、短歌に全身全霊をかけている人というのは一定数いて、そうした人たちは歌会やオンラインの場での交流を経て瞬く間に上達していく。私はそうした人たちの熱量に追いつけない。そういう話を去年WEBアステイオンに書かせてもらった。

新人賞と年齢

私は今まであくまで趣味として(そしてそれを言い訳に)短歌をやってきたわけだが、でも一方でやはりもっと歌の道を極めていきたいという思いも最近強まっている。私の将来の夢はトップジャーナルを制覇することでも学長になることでもなく、「総合文筆家」になることなので、研究だけに閉じこもらないことも重要になってくるわけである。

短歌にも色々新人賞があるのだが、受賞者を見ていると早熟の人が多く、早い人は20歳前後で受賞するし、私の31歳というのは、ちょうど応募者全体の中央値あたりになる。これが(芥川賞系ではなく直木賞系の)小説だったら、人生経験を積んだ上で30代~40代(あるいはもっと後)にデビュー、なんていうこともざらにあるのだろうが、短歌で受賞しようと思うと私くらいの年齢の人にはそう多くの時間が残されているわけではない。もちろん、始めた年齢にもよるし、年齢制限があるわけではなくもっと年上で受賞することもあるから、ずっと応募し続けることは可能なのだが、長くやり続けていると自分が「新人」というのも何だか違うと、あるところで思うようになってくるのだろう。

なので私も35歳くらいまでチャレンジしてみて届かなければ諦めてそのまま歌集を出そうと思う。もし届いても歌集は出すわけだが、歌集を出してから新人賞に応募するということは稀なので、歌集を出すということは基本的に新人賞レースからは離脱するということを意味する。ちなみに歌集のほとんどはお金を出して出版するものなので、出すこと自体はお金さえあればできる。むしろそのために、何が何でも賞を取らないとデビューできないということがなく、だからいつまでも新人賞にこだわらない姿勢になるのかもしれない。実際、雑誌の新人賞を取っていない(といっても次席とか佳作には入ったことがある人が多いけれど)人が出した歌集が、出版された歌集に対する賞を受賞することはよくある。

賞レースに参加するということは、別に短歌をやっていくことにおいて本質的なものではないのだが、やはり出すことをきっかけにして集中して真剣に短歌に向き合い、上達するきっかけになるということが大きい。そうでなければずっと中途半端のまま終わりそうなので、きっかけとして重要視している。

現在地

そんなわけで、2023年はとりあえず頑張って3つの賞に出してみた。2つは短歌の雑誌が主催している大きな賞で、1つは結社内の賞。結果は雑誌の賞の方がどちらも予選通過で、結社の賞が次席と、思っていたよりもかなり健闘して嬉しかった。競争率は「内輪の賞」である結社の賞が一番低いので、合わせて考えればだいたい自分の位置というのがこれで見えてくるわけだ。

予選というのは選考委員に回る前に編集部が目を通して絞るというもので、そう聞くと大したことはなさそうなのだが、大きな賞だと応募総数500以上(近年の短歌ブームもあって増えている)から20-30くらいに絞られたりするので、これはこれで結構な倍率ではあるのだ。しかしそれでも受賞作や次席、佳作といった作品と比べればやはり自分の作品がまだまだ水準に達していないことが分かる。

短歌は50首とか30首とかの連作で応募するわけだが、新人賞に出てくる作品は、テーマのユニークさで勝負する系(「人生派」)と修辞、つまり表現やレトリックで勝負する系(「コトバ派」)に大きく分かれるらしい。私はこれまで明確に前者で後者に弱く、講評で「説明的」とか「表現に奥行きがない」みたいなことをよく言われる。学者にとって説明的であることは美徳だが、歌人にとっては欠点なのだ。とはいえ、去年がまともに総合誌の賞に出し始めた最初の年だったことを考えれば、スタートとしては幸先が良いのかもしれない。

今年は結社の賞はスキップし、既に去年出さなかった賞に1つ出したので、少なくとも3つの賞には出したいと思う。今年はどこかで佳作ぐらいに引っかかればよいのだが。

インプットの大切さ

良い論文や本を書くためには、まず他の人が書いた良いものを大量にインプットしておく必要があるものだが、短歌もこれと同じところがあるなと最近よく思う。私はあまり研究においても自慢できるほどインプットをしてきていないので、全分野的に知識が傑出しているような人を見るとこうはなれないなあと気圧されてしまうところがあるのだが、それでもまあ研究をこなせるだけのインプットはしてきたつもりだ。

しかし短歌においてはまだまだこれが足りていなくて、まずはきちんと近代短歌以降の先人たちの歌を咀嚼していくことが必要だなと思っている。しかしそれには時間と体力と覚悟が必要なので、今年からは今までの片足突っ込み型の取り組み方を改め、本腰を入れて短歌にも向き合っていきたいと思う次第である。それで2-3年やってみたら、一応は自分がどの程度のものかが分かるはずだ。