紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

柑橘あれこれ

突然だが、私はフルーツが大好きだ。嫌いな野菜はタマネギだが、嫌いなフルーツはなく、強いていえばイチジクは大して好きではないが、あれもジャムにしたりするとまあ食ってやってもよいかなという気になる。

「男の一人暮らし」とフルーツ

大学生のときなど、親戚やその他ランダムなおっさんに、「男の一人暮らしだから野菜とか果物とか食べないだろう」と言われることが多々あったが、私はほぼ毎食後何らかのフルーツを食べており、だいたい冷蔵庫には常時2-3種類のフルーツがあって、毎回同じものを食べなくても済むようになっている。

ついでに言えばもう一人暮らしを始めて10年以上になるが、野菜だって意識して食べてきたつもりだし、いったいこの「男の一人暮らし」に対する偏見って何なの、とずっと思っている。これはその対立概念としての「女の一人暮らし」に対する自炊プレッシャーとも表裏一体で、くだらなさで言うとだいたい地上波の午後のワイドショーと同程度だと言われている。

とはいえ、男女問わず一人暮らしの若い世代でフルーツを食べない人が結構いるのも確かであり、それはなぜかというとひとえに高い(+それに比して加工品のデザート類が安い)からだと思う。日本はフルーツが異常に高い。例えばイチゴ。日本では1パック相当安くても300円はするし、最近スーパーで見ている限り、今の季節は多くの場合500円くらいする。

私のいた物価高で悪名高い(まあ生鮮食品は意外と安かったりするのだが)イギリスでさえ、イチゴは季節を問わず年中1パック(それも日本より大きいパック)2ポンドで買える。まあパックを裏返してみると、底に接している部分が少し潰れてそこからカビていたりするから、きちんとチェックして買わないといけなかったりするが、それを補って余りあるコスパである。

もっと違うのはブドウで、日本ではブランドブドウがやたらと幅を利かせていて、1パック平気で1000円を超してきたりする。イギリスでは果物にブランドみたいなものは基本的になく、ブドウもすべて2-3ポンドで買えた。私の知っている国の多くでは、フルーツはある意味「基本的人権」であるのに対して、日本では高級化、ブランド化の方向に発展しており、これを打破する「フルーツの民主化」が急務だと思う。余談だが、日本では病人にお見舞いでフルーツをあげる風習があると言ったら他国の人にはずいぶん驚かれる。

柑橘の冬

そんなフルーツ好きの私にとって、冬というのは今ひとつ気分が乗らない季節である。冬はフルーツの種類が少ない。フルーツの旬を紹介している適当なサイト(https://epark.jp/kosodate/enjoylife/sw-cake-fruits_17834/)を見てみると、8月が旬の果物は「巨峰、いちじく、桃、スイカ、梨、マスカット、プルーン、すももなど」と多種多様なフルーツが挙げられているのに対して、2月は「いちご、はっさく、デコポン温州みかん、ポンカン、きんかんなど」とあり、イチゴ以外全部柑橘である。

というわけで、私は冬の間ひたすら柑橘類を食べている。正直だんだん飽きてくるが、色々な種類を試していると、たまにびっくりするほど美味しいものに出会う。以下ではそれをいくつか紹介したい。

まず「甘み」という点で私の中での二大巨頭は、「紅まどんな」と「甘平」である。どちらも大きさは普通のみかんより一回り二回り大きいくらいで、どちらも外皮も内皮もかなり薄く、果肉がたっぷり詰まっていて種もないので食べやすい。紅まどんなはすぐに果汁が溢れ出す水気の多さなのに対して、甘平はわりとしっかりとした果肉で、少し歯ごたえのある食感。若干の苦味もある。紅まどんなはとにかく分かりやすい甘さとみずみずしさ、それに対して甘平は落ち着いた大人の味と言えるかもしれない。どちらも甘味が強いのは同じだが。

この紅まどんなの方に似ているのが、これよりは少しメジャーな「せとか」。紅まどんなと同じく皮の薄いジューシーな食感で、非常に甘い。学生のとき、一時期季節のフルーツが定期的に送られてくる頒布会に入っていたことがあるのだが、それであるとき届いてその美味しさに衝撃を受けたのが、せとかだった。そこから留学を挟んで帰国した昨冬、自主的に色々と柑橘を探し始め、出会ったのが紅まどんなと甘平である。個人的には、せとかも美味しいが、平均値としては紅まどんなの方が上だと思う。

後から知ったのだが、これまで紹介したせとか、紅まどんな、甘平の3つは、「愛媛の三大高級柑橘」と呼ばれているらしい。確かに価格としてはかなりお高めで、1個2-300円はする。満足感は高いし、高いと言ってもまあたかが知れているのだが、完全に上記の「フルーツの民主化」に反していることは認めざるを得ない。ブランドにこだわるのはフルーツに乏しい冬の柑橘だけなのだ、許してもらいたい。

忘れられないポメロ

最後に紹介したいのが、かつて頒布会でせとかに出会った衝撃と同じくらい、あるいはそれ以上の衝撃を私に与えた、「ポメロ」である。留学中、フランスで冬の一時期を過ごしたことがあって、パリの中華スーパーに買い出しに行ったときに、私はそれに出会った。直径20cmくらいはある巨大な柑橘が、何やら新年の飾りを付けて赤いネットに入って売られていたのだ。どうやら、旧正月に縁起物としてポメロを飾る/食べる文化が中華圏にあるらしく、私は運良くこのタイミングでスーパーに行ったらしい。

珍しいものが好きな私は迷わず購入し、未知のものだったので大した期待もせずに食べたのだが、これが美味しいのなんの。直径20cmもある果物だから、皮も分厚いとはいっても身もまた巨大であり、一房で通常のみかんの半分くらいの質量がある。必然的に何回かに分けて食べることになるため、満足度が高い。味はわりとあっさりめだが、はっきりと甘みはあり、酸味は少なくて、シャキシャキとした食感がある。多くの柑橘は「食べる」と「飲む」の中間くらいになるものだが、ポメロははっきりと「食べる」ものである。

あまりの衝撃に私はイギリスに戻ってからもアジアスーパーを巡ってはポメロを探し、発見したら何個も買うという奇行を繰り返していた。そうして徐々に分かってきたポメロの欠点は、「当たり外れが激しい」ということである。当たりのポメロは、実の一粒一粒に中身がぎっしり詰まっていて噛むと甘味と旨味が溢れ出すのに対して、外れのポメロは非常にパサついていて味気なく、食べるのが苦痛である。最大の問題はポメロが巨大であることで、当たりに出会えばしばらく安泰なのに対して、外れを引いてしまうといつまで経っても不味いポメロと付き合わなければならない。しかし当たりのポメロは本当に美味しいので挑戦をやめられない。これがポメロ中毒者の末路である。

ポメロをネットで調べてみると、日本のいわゆる文旦のことだと書かれており、私も今年ふるさと納税で文旦を改めて食べてみたが、両者はまったくの別物だと言わざるを得ない。ポメロのほうがもっと甘みが強く、酸味が弱いように思う。サイズ的にもポメロの方が圧倒的に大きい。

もうポメロのことは忘れるしかないのかと思っていたら、今年になって、ポメロの代替品となりうるものを発見した。それが、「メロゴールド」である。緑色と黄色が入り混じった色の皮で、大きさとしてはグレープフルーツくらい。昔は見かけたことがなかった気がするのだが、なぜか最近スーパーや八百屋でよく見かける(私のポメロセンサーが働いていたのかもしれない)ので、物は試しと買ってみたら、これがポメロの味にけっこう近い。食感はポメロよりみずみずしく、あのシャキシャキ感を好む身としては物足りないが、十分代替品にはなるのだ。それもそのはず、メロゴールドはポメロとグレープフルーツをかけ合わせたものらしい。

と、ここまで書いて八百屋に行ったら晩白柚があって、買ってみるとこれがかなり本家のポメロに近いことが分かった。しかしこれも当たり外れの大きさにかけてはポメロと同様で、私が買ったものは大外れだった。こうして今私は冷蔵庫に巨大なバサバサの不良債権を抱えて途方に暮れている。