突然だが、タマネギが嫌いだ。外皮を見れば一見フルーツのような姿をしていながら、剥いてみればどこまでが皮なんだかわからないような無限繰り返しの白い板の集積で、包丁で切れば目がやられるし、食べてみると、付け合せのサブみたいな顔をしていながらそのくせ主張が強い。特にタマネギの味を凝縮したオニオンリングみたいなやつは最悪で、私が好意的な感情を持っているイカリングと非常に形状が似ていることから、それと間違えて食べた瞬間うげっとなったかつての記憶が未だにトラウマとして私の脳内に残っている。あとタマネギをバーベキューの定番にした奴は厳しく罰せられるべきだ。
ただあらゆる形態のタマネギが嫌いかというとそうでもなくて、スライスされてサラダに入った生のタマネギは普通に食べられる。むしろ積極的に食べてやってもよいくらいだ。あとオニオンスープとか、たまねぎドレッシングとかいうやつらも意外と悪くない。あれらはもうタマネギというよりは、輪廻転生を繰り返した「来世のタマネギ」である。また、カレーやシチューに入っているような死後数時間以内のタマネギも、請われれば食べてやらないこともない。
つまり、私は生を謳歌しているタマネギと完全に死んだタマネギにはポジティブな感情を抱いているが、その中間にある焼いた、あるいは揚げたタマネギのあのジャリッ、あるいはジュワッとした食感が嫌いなのかもしれない。実情としては30年近くに及ぶ継続的なタマネギの攻撃を受けて徐々に防御が陥落しつつあるのだが、昔はタマネギ全般が嫌いで、かつそれを家族内、あるいは友達の間で積極的に宣伝してきたので、もはや自他共に認めるアイデンティティの一部として確立しており、引くに引けない状態である。国際政治学で言うオーディエンス・コストに縛られた状態に近い。しかし、それでも焼いたタマネギと揚げたタマネギに関しては、これからも地道な不買・不食運動を続けていきたいと思っている。
さて、「タマネギ」というのは、玉+葱、つまりあの丸い玉を形成している葱のような植物、というネーミングであることは想像に難くない。つまり日本語においては先にネギがあり、後からタマネギという存在が認知されたのであろう。実際、タマネギが日本で栽培されるようになったのは明治以後のことらしい。
では他の言語はどうかというと、英語においては、ご存知の通りタマネギがonionで、ネギがgreen onion(あるいはspring onion)と呼ばれる*1。つまりタマネギが先にあり、その緑バージョンがネギ、ということである。日本と逆の順序になっている。
じゃあ日本語と英語以外の言語ではどうなのかと考えると、私はそれ以外の言語がほとんど操れるレベルにないのだが、近年ほそぼそと勉強しているマレー語では、タマネギはbawang besarであり、このbawangというのはニンニク、besarというのは「大きい」という意味の形容詞である。つまりタマネギは、ニンニクのデカいやつ、というイメージである。一方ネギはdaun bawang、つまり葉っぱのニンニク、ということでニンニク中心主義がうかがえる。ただニンニクをbawang putih、白いニンニクとも言うようで、じゃあbawangというのは結局何なんだ、というのがちょっとよくわからない。一方フランス語だと、タマネギもネギもニンニクも、それぞれ関係しない別個の名前が与えられていて、ここにもライシテ的思想がうかがえる(適当)。
このように、モノの呼び方にも、言語によって発想や歴史の違いというものが現れていることを、異文化圏にいると実感する。こんなにタマネギのことをくどくどと考えるなんて、本当は好きなんじゃないのという無粋な突っ込みは、やめて頂きたい。ちなみに私は青ネギは好きでも嫌いでもないが、白ネギは嫌いで、ニラとニンニクは好きである。
*1:ただ似たような野菜にscallionとかleekといったようなものもあり、正直この辺の違いがよくわからない。