「生産的」な休日?
「休みの日は何してるんですか?」というのはよく知らない人との当たり障りのない会話において最頻出の質問の1つであるが、こうした質問は往々にして最も答えにくい質問でもある。私はこれを聞かれた際には、短歌がどうとかスカッシュがどうとかビリヤードがどうとか言っているが、別に休日に「はいじゃあこれから3時間は短歌を作ろう」という風に作歌しているわけではないし、スカッシュは帰国を機にスクールに行こうと思って半年が経ち、ようやく最近体験に申し込んだくらいであって、ビリヤードはまあまあコンスタントにしてはいるが、別に大して上手くもない。
この質問に対して堂々と「YouTubeとか見てます」などと答えられる人は、ある意味ですごいと思う。私だけではないと思うのだが、やっぱり趣味も何か文化的・芸術的であったり、生産的であったり、あるいは健康的であるべきという規範を内面化していて、休みの日はYouTube見てゴロゴロしている、というのはその対極にあるような気がしてとても言えないのだ。同じ映像を見ているのでも例えばNetflixで海外ドラマ、というとギリギリ文化的、という感じがする。私の中の趣味としてOKなものとNGなものの境界線は、NetflixとYouTubeの間のどこかにある。まあこれは人それぞれだろうけど。
実際私は、2年前くらいまでYouTubeをほとんど見たことがなかった。プロが作ったもっといいコンテンツがいっぱいあるのに、なぜYouTubeなんて見るのか、と不思議に思っていたのだ。それが博士が終わってロンドンに住み始めて、家にテレビがなく、自炊などをする時間が増えた一昨年ぐらいになって、突然見始めた。今も大して見ているわけではないが、ドラマを1話観るほどの時間はないというスキマ時間に流すには確かにちょうどいい。遅いデビューだった。
一番価値のある井端?
私が見ているのは、生き物系やペット系、ファッション系などもあるが、たぶん一番見ているのは野球系である。子供の頃からの阪神ファンである私はイギリス留学中も野球中継を(イギリス時間の朝に)観ていたくらいだが、近年元プロ野球選手がYouTubeを始めるのがブームみたいになっていて、色んなコンテンツが出ている。正直大して面白くもないものも多いのだが、元ロッテの里崎智也のチャンネルとか、元横浜・中日の谷繁元信のチャンネル、元中日・巨人の井端弘和のチャンネルなどは時々見ている。残念ながら阪神OBはあまり面白いコンテンツを出していない。
井端という選手は他球団だったし、現役時代特に気に留めていたわけではなかったが、YouTubeで話すところを見ていると、野球選手には珍しくあまりオラオラした感じがなく落ち着いていて、話すことも結構面白い。その井端のチャンネルで毎年ゴールデングラブ賞を予想する「井端グラブ賞」なる企画をやっていて、井端がGGに値すると考える選手を発表するのだが、その中で一番優秀だと考える選手を1人MVP(Most Valuable Player)ならぬMVI(Most Valuable Ibata)として表彰するのだが、このネーミングについ笑ってしまった。
だって、Most Valuable Ibataはどう考えても論理的に井端しかありえないではないか。「一番価値のある井端」になる資格があるのは井端だけである。井端の、井端による、井端のための競争なのだから。
どうしようもないネーミング
改めて考えると、ネーミングには時々どうしようもないものがある。例えば虫の名前で「〇〇モドキ」とか「〇〇ダマシ」というのがけっこういて、ゴミムシダマシはゴミムシに似ているけど違う虫、カミキリモドキならカミキリムシに似ているけど違う虫、ということになる。もうちょっと考えて名前付けてあげない?と思ってしまうのは私だけだろうか。当然ゴミムシダマシ自身には騙すつもりなど毛頭なかったわけで、おそらくは「騙すつもりはなかったんです」などと供述したはずだが、とはいっても詐欺師と端から決めつけている警察はそのような供述を信用するはずもない。というかそもそも、「本家」ゴミムシのネーミング自体が極めて不名誉であり、明らかに侮辱的である。私ならゴミムシと呼ばれたら逆上して噛みついてしまうかもしれない。そうするとカミキリムシくらいにはしてもらえる可能性があるだろう。
植物にも変な名前は色々あって、オオイヌノフグリとかは悪名高いと思うが、ユキノシタなんかも考えてみれば、咲いている場所が名前になっているわけであって、本体の特徴を言い表しているわけではない。と言っていて気づいたが、我々の名字も実は似たようなもので、私などは向こうの方に山があったという何の工夫もないネーミングで、ユキノシタと大して変わらないのであった。ジョンソンだってジョンの子孫ということになるわけだが、じゃあそのジョンの名字が何だったかは気になるところだ。
グレープフルーツはグレープである
こういうことを考えながら日々街を歩いたりしているわけだが、スーパーで買い物をしていてあることに気づいた。最近こそイチゴなんかが出てきてスーパーの果物売り場も彩りが増えてきたが、冬の間はだいたい柑橘系の天下で、というかそれしかほとんど売っていなかった。この冬は国内の柑橘の色んな種類を食べ比べるのにハマっていたのだが、子供の頃よく食べていたものにグレープフルーツがある。水分の多さと甘さ、ルビー色の美しさも加わって、ピンクグレープフルーツは特別感のあるフルーツだった。
しかし、グレープフルーツというネーミングについてしばし考えていただきたい。グレープフルーツは面白い果物で、木に鈴なりになっているらしい。その様子がまるでぶどうのようだから、「グレープのようなフルーツ」でグレープフルーツと名付けられたということだ。
ここで納得してはいけない。だってグレープのようなフルーツ、それは、どう考えてもグレープそのものではないか。だってグレープ自体がフルーツなのだから。例えば、これがキウイフルーツなら話は全然別である。キウイフルーツも「キウイのようなフルーツ」だからそういう名前がついているわけだが、「元ネタ」であるキウイは鳥であって、フルーツではない。だから、「A(個別名)のようなB(カテゴリ)」が成立するわけで、同じカテゴリに含まれるものを持ってきてこれをやってしまうと、それってAそのものじゃないか、となってしまう。浅はかな人間のせいでグレープフルーツも日々アイデンティティに悩んでいるに違いない。
かといってまったく新しい名前を付けるのも難しいので、これからはとりあえず彼の果物を、「グレープダマシ」と呼んでやるのはどうだろうか。