突然だが、人間にとって(主語が大きい)、心の平安を保つためには、複数の拠りどころを持つことが重要だと思う。人間関係という意味でも、1人しか友達がいなければその人と喧嘩してしまえば誰にも相談できなくなるし、本業の仕事だけにあまりに打ち込みすぎると、仕事がうまくいかないと自分の人生全体がうまくいっていないかのように思ってしまうことになる。
これは一輪車よりも自転車の方が安定するし、自転車よりも三輪車、さらには自動車の方が安定しているのと同じことだ。断っておくが、これは私が一輪車に乗れなかった悲しい記憶を正当化しようとして言っているわけではない。そもそも自転車も子供の頃あまり乗らなかったから得意ではないし、小学校の運動会の障害物競走みたいなやつで三輪車に乗らされたら身体が大きすぎて足がつっかえてビリになった苦い思い出もある。そして私はペーパードライバーだ。何一つろくに乗れない。
話を元に戻そう。何が言いたいかというと、熱中できる趣味を持っていることは大切だということだ。仕事の悩みや不安を忘れさせてくれるような趣味があれば、心のリスクヘッジができる。しかし、自信を持って「趣味」と言えるものを見つけるというのは実は難しい。私も関心のあること、中途半端にかじっていることはたくさんあるが、それを趣味の域にまで持っていくことは容易ではない(「趣味」のハードルが高いという説もある)。小説は多読してきたが、文学に詳しいわけではない。音楽は細々とやっているが、頻繁に触れているわけではない。映画も好きだが、それを趣味と称することは(分かる人には分かる理由で)おこがましくてできない。美術館に行くのも好きだが、アートについて語れるほどの知識は持ち合わせていない。ビールや日本酒は好物だが、大して知識はないし(イギリスのビールは種類が多すぎて覚えられない)、何より飲みすぎると身体に悪い(し太る)。何より私はけっこう飽き性である。心の支えにできるほどに発展しないのだ。
しかし、最近ようやく「(今はまだ気が引けるけど将来的に)これを趣味と言えるようになるのでは・・・?」というものが見つかった気がしないでもないと思い始めていることを否定できないような様相を呈しつつあるみたいなのだ。それが短歌である。
短歌との出会い
短歌とは、5・7・5・7・7の31音で表される、カテゴリでいえば詩の一形態で、多くの人は百人一首などを通じて知っているものである。といってもいわゆる「和歌」と私が言っている現代の短歌には大きな隔たりがあって、多分後者で誰もが知っているのが俵万智の『サラダ記念日』だと思う。そういえばもうすぐサラダ記念日だ。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
「一般に誰もが知っている学者」というのは研究者コミュニティでは必ずしも評価されているわけではないことを考えてみると、歌人の中でも評価されている俵万智さんはすごい。
元々私は書くことや言葉を使うこと一般が好きだったから、短歌にハマる素地はあったのかもしれないが、実際に興味を持ちだしたのは一昨年ぐらいで、ぼちぼち自分でも作るようになった。去年からは結社(歌人のグループみたいなもの、会誌上で歌を発表したり歌会をしたりする(誰でも入れる))にも所属している。といっても毎日コンスタントに作っていたわけではなく、思いついたように時々詠む程度だった。結社の月詠(毎月の会誌に載る歌)も出さない月が続き、あーこれはやっぱり飽きるやつかな、という気もしていた。
しかし、コロナで一時帰国してから家でじっとしている時間が増えたからか、4月以降短歌への意欲が急上昇して毎日歌作をするようになり、それが3ヶ月ほど続いている。そして多分、よほどのことがない限り、今後も同じように続けていける気がしている。(能動的な)趣味についてこのような段階に至ったのは初めてのことかもしれない。
歌集を買う
当然自分で作るだけでなく、人の短歌を読むこともしていて、日本にいるのをいいことに、最近は歌集をよく買っている。写真は今手元にあるものの一部。一番好きな歌人はと聞かれたら、おそらく松村正直さんと答えるだろう。
抜かれても雲は車を追いかけない雲には雲のやり方がある
あなたとは遠くの場所を指す言葉ゆうぐれ赤い鳥居を渡る
「やさしい鮫」と「こわい鮫」とに区別して子の言うやさしい鮫とはイルカ
前のニ首は第一歌集『駅へ』から、最後は第二歌集『やさしい鮫』から。日常を切り取った、穏やかだが奥に強い意思が感じられる作風が好き。
もしこれを読んで短歌に興味が湧いたという人がいたら、まず手に取るのにぴったりの本が2つある。『短歌タイムカプセル』と『桜前線開架宣言』である。どちらも色んな歌人の歌を少しずつ紹介する、アンソロジーだ。これらの本でまず好きな作風の歌人を見つけて、その人の歌集を買えば、誰が良いかわからない、という入り口の問題は解決される。私も最初そうやって好きな歌人を見つけ、広げていった。
短歌業界についての気づき
次に、短歌の業界について、興味深いと思ったことをいくつか挙げたい。
- 「歌人」に明確な定義はない:何をもって歌人と呼ぶのかについて決まりはないようだ。歌を作っていれば誰でも歌人と名乗っていいということらしいが、だからといってそう簡単に名乗る勇気はない・・・。
- 専業歌人はほとんどいない:短歌だけで食べていける人はほとんどいないようで、大半の人が他に職業を持っている。
- 研究者歌人は結構いる:大学短歌会が多くの歌人を輩出してきたこともあるからか、親和性が高いのか、研究者で歌人、という人は結構いる。別に国文学専攻というわけではなく、細胞生物学者・情報理工学者など色々いる。政治学者では、京都大学の島田幸典先生が有名。私ももっと早く短歌に出会っていたら、大学短歌会で活動したかったなと思う。
- 歌集は自分でお金を出して出版することが多い:歌集出版が副賞になっている新人賞を受賞した場合や、大御所の場合を除き、(まだ私も知らないことが多いがたぶん)歌集出版は費用が持ち出しになる。
- 歌集はすぐ絶版になる:費用負担があるのと、マーケットも小さいので、歌集の発行部数は極めて少ない。なので有名歌人の歌集でも、結構すぐ品切れになる。だから昔の歌集は手に入れにくい。
- インターネット短歌が発達している:短歌が古臭いものというイメージは誤りで、極めて現代的な要素を含む短歌も多い。文字媒体で短いため、インターネットと親和性が高く、Twitterや投稿サイトで盛んに発表されている。
- 歌壇はかなりアナログ:一方で伝統的な「歌壇」はやはりどっしりとした感じで、結社誌や賞の応募、諸々の連絡なども未だに紙媒体が中心である部分が多い。新聞歌壇なども、はがきの応募しか認めていないところもままある。ただ同じ新聞でも、歌壇はメール投稿を受け付けているが俳壇ははがきのみ、というところもあって、その他の色んな面も含めて、全体的に俳句の方が保守的なのかな、という印象がある。知らんけど。
何にせよ、まったく新しい世界に入っていくのは発見の連続で面白い。特に短歌の世界というのは、こじんまりしたものだけれど、だからこそ距離感が近いのが面白いなと思う。小説を書いているからといって宮部みゆきやら村上春樹やらに会えるはずはないが、短歌の結社に所属していたら、その結社にいる第一級の歌人に自分の歌を読んでもらえて、評ももらえて、場合によっては会えたりもする。まあ当然別に会ったからそれで自分がすごくなるわけではないのだが、でもやっぱりそれってなかなかすごいことではないだろうか。
研究と短歌
あと、研究者歌人が多いという話の続きだが、私も研究者の端くれとして、短歌と研究は似ている部分があるなあ、と思う。といっても、研究者にも歌人にも色んなタイプの人がいて、アプローチも様々だと思うが、私の場合、研究で一番重視しているのはアイデアやひらめきといったもので、いかに人が思いつかないような面白い発想を生み出せるかに何よりも血眼になっている(もちろんそれは手続きや方法を軽視することをまったく意味しない)。短歌を作るときもそうで、ユニークな比喩、予想外の言葉のチョイスといったものが、その短歌の出来を左右する(もちろんそれだけではない)。まあ、私は研究も短歌もどちらもまだひよっこなので、語れるほどのものがあるわけではないのだが。
今後の目標
今回はこれくらいにして、またブログで歌集の紹介などもするかもしれない。ただ、自分の短歌をここで発表することは、恥ずかしいし、当分しないと思う。しかし、もし自分のリアルの友人で短歌をやろうと思う/既にやっている人がいたら、一緒に歌会などができたら面白いな、とも思っている。もしそういう友人がいたら、こっそり教えて下さい。
中期的な目標としては、博士課程が終わって、博論ベースの本をいつか出版するのと同時期に、歌集も出せたら素晴らしいな、などと夢想している。いずれにしても、短歌と出会えてとっても嬉しい毎日である。