紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

ロンドンの隣人たち

イギリスでの生活を終え、東京に戻ってきてから今月でちょうど1年になる。東京での生活は便利だし、イギリスのように電力会社が突然意味不明な請求書を送ってきたり、電車が突然運休になったり、出先にトイレがなくて危機に陥ったりすることがないので、生活面でのストレスというのはかなり少ないが、一方でこの国で生きていくことに付随する社会的ストレスというのは、大学教員という他の職業に比して大幅に自由度の高い仕事をしていても、意識させられることが度々である。

博士課程を終えてから帰国するまでの1年あまり、私はポスドクとしてケンブリッジに所属しつつロンドンに居住し、週1・2回授業などのためにケンブリッジに通うという生活をしていた。ロンドンは家賃が高く、ざっと東京の1.5-2倍くらいはするのだが、ケンブリッジも同じくらい家賃が高いのと、どうせポスドク生活は長くはないのでとりあえずイギリスにいる間にロンドンを体験したいということで、1年間だけ住んでみた。

私が住んでいたのは、Islingtonというロンドン中心の東北部のエリアで、ハリー・ポッターの9 3/4番線でも有名なKing's Cross駅からバスで10分ほどのところだった。その辺りはいい感じのレストランやカフェ、バーなどが並んでいたりして、高級住宅地とまでは言わないが、治安もよくわりと住みやすいエリアである。

私のアパートは、けっこう大きな建物でいくつかの棟に分かれていて、単身用の1ルームから、カップルや家族用の1-bed、2-bedのアパートなどいくつかのタイプがあり、住人は比較的若めの30代くらいの人が多い印象だった。

そんなに高い家賃を払えるわけでもなかったので、私が住んでいたのは1ルームの部屋だったが、あるとき部屋に帰るとドアにメモが挟まっていて、読んでみれば下の部屋の住人からだった。騒音の苦情かと思ってドキッとして読み進めると、むしろ逆で、最近引っ越してきたけど自分はミュージシャンなので音がうるさかったら言ってくれ、という断りのメモで、こんなことを向こうから言ってくれる人もいるのかと感心した。

このミュージシャンの隣人は同じようなメモを同じ階の住人などにも渡していたらしく、そこから同じアパートに住む隣人たちとのゆるい交流が始まった。私たちはWhatsAppグループを作り、ある夜パブに繰り出した。

そのとき集まった隣人たちの顔ぶれだが、まずミュージシャンは20代前半の女性で、他の住人と比べて明らかに若かったので少し驚いた。北イングランドの出身らしく、元々スコットランドの大学に行っていたが、音楽を志して専門学校に入り直し、そこでレコード会社からスカウトされてデビューの準備のためにロンドンに移ってきたということだった。その契約金でここを借りたらしく、だから若くして一人暮らし(だいたいロンドンなどではこの年代の人はシェアハウスをしている印象)をしているらしい。

ロンドンも東京のようにanonymousな都市で、住人の交流など決して多くはないと思うが、北部出身の彼女だからこそ、こういう交流のきっかけを作ることができたのかもしれない。

他には30代半ばのカップルがいて、たしかイギリス人とウクライナ人だったと思うが、2人は元々ケンブリッジでアカデミアを目指してポスドクまでやったが、結局やめてコンサルティングか何かに移ったということだった。まさか同じアパートにケンブリッジポスドクを経験した人たちがいるとは思っていなかったのでびっくりした。

あとは同じく30代半ばのインド人男性がいて、彼は投資銀行か何かに勤めていた。いかにも投資銀行に勤めているようなライフスタイル(深夜まで仕事、デリバリーの食事、家事の外注、dating appで相手探し etc.)を送っているようだったけど、良い人でオーストラリアに生息する有袋類のクオッカを思わせる愛嬌のある風貌をしていた。

この顔ぶれから分かるように、1ルームに住んでいた私とミュージシャン以外の3人はいずれも相当稼いでいる感じで、つまりはそういう人が集うアパートだったようだ。会話の節々から金銭感覚の違いを感じることはあったけれど、みんな大人で、別にそれを殊更誇ったりすることはなかったのがよかった。

そんな感じで一度全員で集まったのだが、その後はWhatsApp上のやり取りはあっても、全員が集まることはなかった。というのも、まとめ役だったミュージシャンがある時からあまり連絡が取れなくなってしまい、たまに入口などですれ違うときも、明らかにストレスを抱えている様子を見せるようになったのだ。

後日教えてくれたところによると、故郷に残してきた恋人と別れてしまい、さらに契約していたレーベルから突如契約解除を宣告されたということだった。それは考えただけでも相当キツい打撃だ。なので家賃を払うのが難しくなり、やがてアパートを去ってしまった。やはり交流はあっても所詮隣人は隣人で、私には何もできなかったのが心残りだが、どこかで元気にしていてほしい。

この出来事と前後して、私の向かいに引っ越してきたのが私とほとんど同年代のイラン人女性で、といってもアメリカ育ちなので中身はかなりアメリカ人だったが、この人が入れ替わりのように新たにWhatsAppグループに加わった。この人はIT系のスタートアップに勤めていて相当稼いでいるらしく、彼女が行っているジムの名前を聞いたらめちゃくちゃ会費の高いところでびっくりした。

この人が引っ越してきてからは上述のインド人の彼と3人で時々ご飯を食べたりして、主に彼女の仕事の愚痴を2人して聞いていた。ある時彼女の愚痴のレベルが上がったので何かと思ったら、会社での人間関係がこじれて社長から退職を勧告されたらしい。もしかすると引っ越してくるとクビになる呪われたアパートだったのかもしれない。イギリスに残るか、アメリカに帰るか悩んでいたようだったが、最近やり取りをしたところまだイギリスにいるようだ。タフな人だったので、別な会社でバリバリやっていることだろう。

何でつらつらとロンドンの隣人の話をしているのかというと、このイラン人女性が先日連絡してきて、友達が東京に数ヶ月滞在することになったから紹介してもいいか、と言ってきて、先週その人とランチをしてきたからである。彼は医療コンサルのようなことをしているオランダ人で、日本とは特に縁もないが興味があってノマド的にリモートで働きながらちょっと住んでみる、ということだった。フットワークの軽さよ。

私も国境とか1つのキャリアに必ずしも縛られずに気楽に生きていきたいと思った。そして自然に多様な人と出会えたイギリス生活が、少し懐かしくなった。