紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

ウィンブルドン

世界がワールドカップで盛り上がっている今日この頃だが、現在、その陰でもう1つの世界的スポーツ大会がイギリスで開催されている。ウィンブルドン・テニス選手権である。

今でこそあまりプレーもしていないが、中高テニス部で、一時期はテニス雑誌も毎月購読して選手の名前を覚えたりしていた私は、「イギリスに行ったらウィンブルドンを一回観に行ってみたいなあ」などと思っていた。その機会は思ったより早く訪れた。

ウィンブルドンは、その規模や知名度の割に、事前に指定席がくじで割り当てられる他、何時間か並べば当日券が買えるという、意外にも比較的見に行くのが容易なのだ。といってもこれは後から調べた情報で、私のチケットの入手経路は、オックスフォード大学のテニス部だった。あまり行っていないのだが、私は一応テニス部の会員になっていて、会員には毎年ウィンブルドンのチケットのballotへの参加権が与えられるのだ。当選する確率はかなり高いと思うのだが、どの日のどのコートになるかはランダムに割り振られる。初日のNo.3コートとかになる可能性もあれば、センターコートでの決勝が当たる可能性もある。

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No.1コート。

私が当たったのは、7月4日のNo.1コート、2回戦であった。そこまで運がいいわけではないが、最初の方が試合数も多いし、有名人が出る試合もそこそこあるので、意外と悪くはなかったのかもしれない。何より初めてのウィンブルドンに、市場価格より安く行けるのだから、文句はないのだ!前日から久しぶりにウキウキしていた。

オックスフォードからウィンブルドンへのアクセスは、まずパディントンまで鉄道で行って、そこから地下鉄のDistrict lineに乗り換えて20分ほどのSouthfields駅で下車し、15分ほど歩く、というルートになる。大混雑を予想していたが、平日ということもあってか、District lineの中は大した混雑ではなく、駅から会場への道がそれなりに混んでいる、という程度であった。ウィンブルドンがこんなにロンドンから近いとは知らなかった。

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Southfields駅

テニスの大会の試合がすべてこうなのかは知らないが、ウィンブルドン観戦の良いところは、センターコートとNo.1-No.3コートは指定券がないと見られないが、4番コート以降のコート(outside courts)は自由に観戦でき、かつプレーを間近で見られるのだ。私達もNo.1コートとoutside courtsを往復して色々な試合を見た。

最初に見たのはVenus Williamsの試合。最近の動向を追えていない私でも、ヴィーナスとセリーナのウィリアムス姉妹はもちろん知っている。私がテニス小僧だった約10年前からずっと活躍しているからだ。自分の視界の中で雑誌やテレビでしか見たことがなかったトッププロがプレーしているというのは、なんとも不思議な感覚であった。野球も好きでよく観に行くが、それよりももっと不思議な感じ。世界だからだろうか。

ヴィーナスの勝利を見届けた後は、outside courtでダニエル太郎と西岡良仁の日本人ペアのダブルスを観に行ったが、こちらは結構あっさりと負けてしまった。しかし間近でプロの試合が見られるというのは本当に興奮する。

今回見た試合の中で一番印象的だったのは、Ivo KarlovicとJan-Lennard Struffの試合だ。211センチのカルロヴィッチと196センチのストルフはどっちもサーブがとんでもなく速く威力抜群で、この2人のビッグサーバー同士がサービスゲームをひたすら取り続ける。当然ほぼ毎セットタイブレークまでもつれこむ。結局、タイブレークのない最終セット以外の4セットのうち、3セットがタイブレーク、最終セットは13-11でやっと決まった。ほとんど全てのポイントがサーブで決まるので、ラリーを見たい人にはある意味「退屈」だが、サーブ&ボレーに全てをかける選手には、凄みがあった。川上健一の『宇宙のウィンブルドン』という小説を思い出した。

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カルロヴィッチ。負けたけど相手より終始落ち着いていてかっこよかった。

ウィンブルドンはその他にも、色んなグッズが売っている売店があったり、巨大なモニターの前の芝生で休めるスペースがあったり、名物としてイチゴにクリームをかけたものが売っていたり、ビールやピムスが飲めたりと、休日の過ごし方としてとってもおすすめである。今年最高の休日の1つであった。あーまた行きたい!

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昼ごはんはカツカレー。平日昼間からビール。

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巨大モニター

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モニター前の芝生。人がいっぱい。

 

IQMRサマースクール 第2週

前回の記事はこちら

先週から参加していた、アメリカ・シラキュース大学で開催されているInstitute for Qualitative and Multimethod Research (IQMR) の2週目が終わったので今週の感想をまとめておきたいと思う。プログラムは2週間なので、今週金曜日で全日程が終わり、現在ニューヨークのJFK空港でトランジットの間を利用して記事を書き始めている(書き終わるかは分からない)。

1週間目は万事スローな感じがして少々退屈だったのだが、2週目は結構慌ただしく過ぎ去った。1週目よりは充実していたということだろう。というか前回の記事を見返すと、先週取った授業の話を全くしていないことに気づいた。

  • Goertz先生とMahoney先生

今週受講した授業は、Gary GoertzとJames Mahoneyによる比較事例分析の授業と、Charles RaginによるQCA(Qualitative Comparative Analysis)の授業だった。一番面白かったのは、月曜日のGoertz先生の授業だろうか。自分はMahoney先生の印象が元から強かったので、あまりGoertz先生のことを知らなかったのだが、授業内で本人が「自分はミシガンPh.Dでバックグラウンドは統計分析だ」と仰っていたのに驚き、CVを見てみると、学部はMathematics and Peace Studiesで、Mathematical Statisticsの修士を持ち、ミシガンPh.D.在学中に経済学の修士号も取得されている。現在は質的方法論の研究をしているところからイメージする経歴とは大きく異なっていて驚いた。さらにCVをスクロールしていくと、語学能力の欄に"Japanese-elementary"と書かれていることに気づいた。これをTwitterで呟くと、Mahoney and GoertzのA Tale of Two Culturesを共訳された西川賢先生からリプライを頂き、Goertz先生は日本に居住経験があるということを教えて頂いた。授業はジョークを交えた和気あいあいとした雰囲気で、授業後に質問に行った際も、早く終わらそうとせず非常に丁寧に答えて貰えた。

火曜日はMahoney先生の担当の日だったが、こちらはGoertz先生とは違い、なかなか真面目な感じで授業が進んだ。ジョークというよりは、ところどころで先生がちょっとした天然っぽいボケをかますので学生が控えめに笑う、という感じが面白い。私はMahoney先生とは少しだけ関わりがある。というのも昨年ノースウエスタンのPh.Dに合格して訪問した際に、potential supervisorの1人としてオフィスを訪問し、お話をさせて頂き、その後も進学先決定の過程でメールのやり取りをさせて頂いていたのだ。以前の記事で「進学先決定の過程でもらった名言」として挙げた2つ目は、実はMahoney先生からもらった言葉である。

超多忙に違いないのに、まだ自分の学生でもない相手にすぐに返事をしアドバイスしてくれたことには、非常に感謝している。といってもまあ、見ての通り大した関わりではないのだが、興味のある相手とは、小さな関わりを大きくして繋がりを作っていきたいと常々思っている。

元々IQMRに行こうかなと思ったのも、Mahoney先生と再会したいというのも理由の1つにあったので、開始2週間前くらいに「お久しぶりです」的なメールを送ってみたところ、すぐに返信をもらえて改めて敬服した。で、火曜日の授業の後で直接話をしに行ったところ、そこでもとてもフレンドリーに対応して頂き、近況について色々と質問して下さったので、本当に来てよかった、という気持ちがした。写真でも撮っておけばよかったかとも一瞬思ったが、芸能人でもあるまいし、まず自分が頑張って研究者として認知してもらえるようになり、遠方から来た一見さんの院生ではなく、同じ研究者としていつか会える機会を待つべきだろうと思い直した。

  • QCAはちょっとがっかり

水曜日からのQCAの授業は、正直なところかなり期待はずれという感じがした。186人が4つの授業に分かれていたのだが、QCAを受講しているのはわずかに10人ほどで、先生も受講者もあまりやる気がない。受講者は基礎から全然理解していない人が多く、リーディングアサインメントをやっていれば絶対分かるような基本的な事項に戸惑っているので授業が全く進行せず、結局リーディングで勉強したこと以上の内容が何もカバーされなかった。QCAは、大陸ヨーロッパでは広く使われている一方、アメリカでは全くといっていいほど使われていない。研究発表でQCAなどというワードを出そうものなら、量的研究者だけでなく、質的研究者からも集中砲火を浴びるような代物だ。元々それは知っていたのだが、QCAの発明者であるCharles Ragin先生が教えるということで、何か強い反論というか、信念のようなものが見られるかと期待して臨んだのだが、あまりそのようなものは感じ取れなかった(もちろん、自分の理解が足りなかったのかもしれないが…)。Ragin先生はお身体を悪くされているようであった。もうひとりの講師も、QCAに対する信念に燃えているというよりは、どうも投げやりな感じがした。結局3日あるうちの2日で見切ってしまい、3日目は別の授業を受講することにした。おそらく3日目には受講者が5人ほどしか残っていなかったと思われる。

  • リサーチデザインの発表は大成功

そして今週のもう1つのメインイベントが、リサーチデザインの発表であった。IQMRでは、参加者同士の研究面での交流を促進する目的で、毎日昼の時間に参加者のリサーチデザインの発表がある。事前に12ページ程度のペーパーを提出し、他の参加者が読んでいる前提で、1人あたり30分ほどを使ってコメントや質問を受ける、という形式である。セッション分けはテーマによって決まっていて、私のセッションは、Johns Hopkinsから来た韓国人の地政学を研究している人と、Tuftsから来たハンガリー人の国際政治理論を研究している人が他の発表者だった。実は数日前のディナーの場で、どういう研究をしているのか聞いてきて、私が簡単に答えると、読んでもないくせに否定的な言い方で「この事例はどうなの?」「君の理論をもっと明確に説明して」などと突っ込んでくる、他者の研究を否定することが頭の良さだと勘違いした失礼な参加者がいてイライラしていたのだが(カジュアルな会話では、たとえ疑義があっても、とりあえず「面白いね」と言って、挑戦ではなく興味を示すという意味での質問を2,3すれば良いのだと私は思う)、本番のセッションは全く正反対で、驚くほど肯定的なコメントを沢山もらえた。今まで発表した場の中でも一二を争う好意的なセッションだったと思う。特に、それまでのセッションで結構厳しいことを言っていた(否定をすることなく建設的な指摘だったが)Colin Elman先生が、研究内容を気に入ってくれたようで、セッションの後にも話しかけて下さり、こういうものを読んだらいいよと教えてくれたりしたので、その日は1日ハッピーだった。参加者も個別に「面白かったよ」と後で言ってくれる人が何人かいて、研究をやっていて良かったと思えると同時に、モチベーションが高まった。コメントをくれた人のうち、まだ話したことがなかった人には後で個別にメールを送り、共通の関心について後で話をすることもできて、将来の研究という面でも役に立つ機会だった。これだけでも参加した価値があったと言えるだろう。

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なかなか洒落がきいたIQMRのTシャツ
  • まとめ

IQMR全体の感想としてまとめると、まず授業については、正直あまり新しい学びはなかったかもしれない。今までも方法論については勉強する機会が多くあったし、事前に課されたリーディングをきちんと消化していれば、授業はそのおさらいという感じで、何か新しい知見を得たという感じはしない。もっとも、違う授業を取っていたら別の感想を抱いていた可能性はあるので、一般化はできないが。しかし、他大学の院生や教員とのネットワークを作るという意味では、IQMRは非常に有意義だったと思う。現在の政治学で、質的研究はどんどんと「時代遅れ」のように見られる傾向が強まっており、マイノリティの立場に追いやられつつあるようである。そうした空気の中で、同じような方法論的方向性を持った人と出会える機会は貴重で、IQMRはそれを可能にする唯一の場とも言えるだろう。というのも、量的方法論を扱うサマースクールは複数あるのに対して、質的方法論を中心的に扱うサマースクールは他にはないからだ。今回出会った人の中には、自分と直接の研究関心が近い人、来年フィールドワークをする際の所属先にしたいと思っている大学から来ている人、将来の就職先の1つとして考慮している国から来ている人などがいて、今後の研究者としてのキャリアに生かせそうなネットワークの足がかりを得られたと思う。シラキュースという何もない街に2週間缶詰になるのはちょっとしんどかったが、総じて言えばそれに見合う収穫はあったと言えるだろう。

 

IQMRサマースクール 第1週

今週月曜日から、Institute for Qualitative and Multimethod Research (IQMR) という政治学方法論のサマースクールに参加している。政治学方法論のサマースクールとしては、ミシガン大学で開催されるICPSRが最も有名で規模も大きいと思われるが、量的方法論が中心のICPSRに対し、IQMRは質的方法論+混合手法が中心という違いがある。また、規模もICPSRより圧倒的に小さく、今年は全部で186人が参加しているようだ。期間は2週間で、参加者は初日の統一セッションも含めて10個のモジュール(1日1モジュール)を履修することになっている。

開催地はニューヨーク州にあるシラキュース大学というところで、同大学の Maxwell School of Citizenship and Public Affairsというところが主催しており、Colin Elman先生という人が中心になって動いている。ということでロンドン・ヒースロー空港から飛行機で来たわけだが、アメリカの地方都市は国外からのアクセスがしにくいし、チケットも高くつく。シラキュース空港は今まで自分が外国で降り立った空港の中で一番小さかったかもしれない(ブルネイ空港といい勝負)。

下の画像はサマースクールのカリキュラムで、オレンジで線を引いた授業を自分は受講している。自分にとっての今回の目玉は6/25,26のComparative Methodsで、質的研究と量的研究の相違を明らかにしたThe Tale of Two Culturesを執筆したノースウエスタン大学のJames Mahoneyとノートルダム大学のGary Goertzが教えに来ている。さらに、その後の質的比較分析(QCA)の授業は、その発明者であるCharles Raginが教えるということで、これも楽しみである。QCAは大陸ヨーロッパ以外ではあまり使う人もおらず、米英ではかなり異端視されているが、一度きちんと勉強したいと思っていた。

 ただ残念なのは、黄色で線を引いたモジュール、特にGISとテキスト分析、ネットワーク分析の授業がこれらと被っていることで、面白そうな授業が2週目に集中していることである。まあこうした方法論は別にIQMRで勉強しなくても、他のサマースクールでもよく開講されているのでそちらに行こうと思うが、その結果として1週目の授業は消極的に選んだものばかりになり、今週は正直少し退屈であった。内容面に関しては思うところがあるので、また別の記事で書きたいと思う。

IQMRが工夫しているのは、参加者同士の交流を推進しているところである。全員の顔写真と大学名、メールアドレスが記載された名簿が配られ、1日目にはグループに分かれてランチを共にするというイベントがあり、2日目には全体でディナーがあった。4日目には専門とする地域ごとに集まるというイベントがあり、Facebookグループも作成されてそこで一緒に出かけたりする計画を立てる人もいる。 

さらに、参加者は任意で自分の研究計画を発表する機会が与えられ、ほぼ毎日幾つかのテーマ別セッションに分かれて発表と議論が行われる。似たテーマを研究している人同士が知り合うきっかけが与えられるわけである。 こうした工夫をしてくれる主催者には本当に頭が下がる。

参加者のプロフィールは、8割程度がアメリカの大学から、残りがアメリカ国外からという感じになっており、各大学からは2・3人ほど参加している。オックスフォードからは、毎年政治学と国際関係論から1人ずつ派遣されることになっており、自分の他にもうひとり博士課程4年目ぐらいの中東政治が専門の人が参加している。分野的には国際関係論、アメリカ政治、比較政治、公共政策など幅広く、メソッド専攻と政治理論以外は一通りいる印象だ*1

1週間を過ごして感じたのは、やはりアメリカの大学からの参加者が中心で、アメリカ人が多数派のため、かなり雰囲気がアメリカンだなということである。留学生もアメリカの空気に既に適応している人が多く、出身国が多様でかつそれぞれが自分のバックグラウンドを維持しているイギリスの博士課程の雰囲気に慣れている自分からすると、正直少し気疲れするところもあった*2アメリカ国内の大学だと、共通の知り合いも多かったり、各大学の研究者の名前をよく把握していたりしていることで、会話を数段階飛ばして開始できるというか、バックグラウンドを共有している者の強みが少し羨ましく感じられた。

留学生の中では、韓国出身者がかなり多く、15人近くいるようだ。海外育ちの人もいるようだが、そうでない人もいて、やはり自分にとっては彼らは話しやすい。その他には、トルコやイタリアからの留学組、ケンブリッジから来ているブラジル人、自分が来年フィールドワーク中に滞在したいと考えているシンガポール国立大学から来ている院生などとよく話している。1つ気づいたのは自分は思っていたより、イギリスの環境に染まっているというか、それに居心地の良さを感じているようだ、ということである。アメリカに来て逆にイギリスへの愛着を感じたのは面白い。

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シラキュース大学で多分一番見栄えのいい建物

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リンカーン

 

*1:アメリカの政治学Ph.Dは、アメリカ政治、比較政治、国際関係論、メソッド、政治理論の5つの専攻に分かれているのが通常だ。

*2:アメリカでも、自然科学や経済学などでは留学生が多数派だったりするようだが、政治学社会学アメリカ人がマジョリティで、25%も留学生がいれば多い方である。

Ph.D1年目の終わり

先週の金曜日に博論のプロポーザル、というかイントロダクションと1章分のドラフトを提出して、Ph.D1年目が無事終わった。オックスフォードでは、DPhil(Ph.Dの呼び方)は3段階に分けられていて、第1段階がTransfer of Status、これはいわゆるプロポーザルの段階で、1年目の終わりか2年目の初めに提出する。第2段階はConfirmation of Statusといって、博論のドラフトを何章分か出すことになる。そして第3段階は博論の提出、という構成である。各段階すべてにインタビューがあり、私のインタビューも7月かあるいは来年度の初めに行われると思われる。審査する教員は指導教員と相談して依頼するのだが、Andrew HurrellとLouise Fawcettという、IRの中では結構重鎮的なファカルティ2人に審査してもらえることになった。指導教員が若いので、バランス的には良いのではないかと思われる。

この1年というか、9ヶ月くらいは、あっという間に過ぎ去ってしまった。荷物を整理していたら、今住んでいる部屋に最初に来たときにもらった鍵が入っていた封筒を見つけた。そこには2017/9/26 - 2018/6/23と書いてあって、そうか9月26日に来たんだったなと思い出した。

来る直前は日本の心地良い生活から離れるのが億劫で、「マリッジブルー」的な気分になっていたものだが、今や自分にとってオックスフォードはホームの1つであるし、多分夏の間一時帰国していると、早く新年度が始まらないだろうか、と思う瞬間もあることだろう。

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9ヶ月間住んだ部屋を片付けて出て来た。

Ph.D1年目は、やはり慣れることにある程度時間がかかったというか、日本のシステムからこちらのシステムに移行して、授業と研究のバランスとか、何が求められているのかの理解とか、色んなことにそれなりに時間を要した。留学前には自分の研究テーマはかなり固まっているように思い込んでいたが、実際に進めようとしてみると、見えていなかった問題点や、考えるのを先延ばしにしていた課題に直面することになった。また、自分の知識がいかに限られているか、ということも自覚せざるを得なかった。今は読まなければいけない文献が目の前にうず高く積もっている。また、アウトプットの面では、早く出版したい論文が複数あるのだが、満足できるような進捗を生むことはまだできていない。結局、研究に対して常にトップギアでは取り組んでいなかったのかもしれない。これらは夏の間に何とか挽回したい。

とはいえ良かったことは、修士時代から継続している自分の研究に改めて興味と自信が持て、やる気が出たことである。若干飽きっぽいところのある私は、5年以上も同じテーマを続けられるのか正直なところ自信がなかったのだが、色んな問題に直面してそれに対処しているうちに、「やっぱりこれって面白いんじゃないだろうか」と思うことができるようになり、またもっと読まないといけないものがある、やらないといけないことがあると痛感したことで、今自分が何をすべきかも明確になった。そういう意味で、この1年の経験に対しては、もっとできることはあったにせよ、総じてポジティブに捉えることができている。

来年度は、セミナーや学会等を通じてもっとネットワークを広げること、論文を複数publishすること(特に英語での1本目が早く欲しい…)、そして何より、博士論文を大幅に進捗させることを目標とする。数ヶ月単位のフィールドワークを2つする予定もあり、来年度は忙しくなりそうだ。

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カレッジでは学期末にballという、大きなパーティーが開かれた。

アカデミックな側面以外については、オックスフォードでの生活は期待していた以上に楽しかった、という感想しかない。大事な友人も数多く出来たし、とても充実した気分で毎日を過ごせた。楽しい思い出は数えるときりがない。特に仲の良いドイツ人の友達と毎週日曜日にディナー→パブでダーツ→カレッジでビリヤード、というコンボを決めたり、フロアメイトとたわいもない話をしながら朝ご飯を食べたり月曜半額のバーガーを食べにパブに行ったり、日本語話者の友達と日本酒を飲みながら色んな話をしたりしたことが思い出される。他にもパンティングや小旅行など良い思い出ばかりがどんどんと浮かんでくる。振り返ってみて、嫌な思い出というのはほとんど思いつかないくらいだ。ただ寂しいのは、今年長い時間を一緒に過ごした友人の多くが、卒業してオックスフォードを去ってしまうことだ。3~5年いるPh.Dの院生は、毎年人が来ては去っていくのを目にし、次の年にはまた一から友達作りをしなければならないのは辛いところである。

来年度は、ソーシャルな充足感を維持しつつ、アカデミックにもっと成果を出せるようにしたいと思う。

 

研究発表にコメントするのは難しい

オックスフォードというところは、とにかく毎日随所で大量のセミナーが開催されており、興味があるものに全部行こうとすると生活が回らなくなる。私は今年は少々セーブしすぎた感があり、それほど多くに行ったわけではないが、それでも学部で開催されるものを中心にそれなりの数のセミナーやワークショップに顔を出してきた。

そこでいつも感じるのが、「研究発表に対して気の利いたコメントや質問をする」ことの難しさである。大体のセミナーというのは発表者が話した後、討論者がいる場合はその人がコメントして、最後にフロアから質問を受け付ける、という形になっている。そこで手を挙げて、良い質問をするというのが、英語の場合は特にだが日本語でも自分ではまだ上手くできる気がしない。

といっても、人の研究にコメントすること全体が苦手というわけではない。例えば「この原稿を読んでコメントして」と言われたらきちんとコメントできる自信はある程度ある。また、研究発表で事前にペーパーが共有されるものであれば、まあ何とかなると思う。同様に、自分が討論者だと事前準備をしなければならないので、しっかり読み込むことになるし、そうすればそれなりのコメントはできるだろう。

私がまだ苦手なのは、その場でのプレゼンテーションのみの発表に対してフロアからコメントや質問をするということである。研究発表の場での質問やコメントというのは、「AはBですか?」という一文で済まされるものではなく、大抵の場合、「発表ありがとうございました。あなたが言っているのはこういうことだと思いますが、私はこういう点について聞きたいと思います。これというのは誰々も書いているようにこういうことだと思いますが、あなたはこういう風に主張しています。この相違についてどう思いますか?」というような感じで、前置き+バックグラウンドの共有+本題、みたいな形で構成されている。

何が難しいかというと、まず第一に直接の質問文ではない部分を関係ある形で知識の片鱗を見せながらしかし長々と喋りすぎずにまとめる、という作業が難しい。ともすると自分の場合、質問文にほんの少し付け加えただけで終わってしまう。結果自分の意図が十分伝わっていない場合もある。

第二に、引き際が難しい。相手が自分の質問に応答して何かイマイチ違うかな、という時にどこまで食い下がるのか。あんまり突っ込みすぎて空気の読めないやつだと思われても困るが、逆に本来の意図が伝わらずにしょうもない質問をするやつだと思われるのも嫌だ。

第三に、他の人の質問とかぶっているのではないかと余計な心配をしてしまう。というのも、他の質問者の声が小さかったり、自分の英語力の問題で聞き取れなかったり、その人のプラスアルファの部分の話が長すぎて本題がどこかわからなくなってしまったりした場合、その後に自分が質問して、それと同趣旨だと受け取られると困るな、という気になってしまうのである。

こういうことを言うと、「そんなことは関係ない、好きなように質問ないしコメントすればよい」と言って頂くこともあるのだが、事はそう単純ではないと思うのだ。つまり第四に、大抵の研究発表の場において自分は質問しやすい立場にない、ということがあるのだ。どういうことかというと、大体セミナーというのはどこかの研究所が主催していて、シリーズ化されており、参加する「常連さん」も決まっている。そういう人が前の方に陣取っていて、始まる前に発表者と談笑していたり、質問の際に内輪ネタを入れてきたりするわけである。その場に自分のような「一見さん」が行くと、なかなか議論に入って行きづらい。

さらに年功序列的な側面も無視できない。これは別に「お前は新入りだから黙ってろ」と言われるなんていうわけではないが、やはり教員と院生の間には発言に対する心理的障壁の高さに差がある(例えば議論の途中に割り込むことのハードルが教員の方が低い)し、院生の中でも、シニアになればなるほどその場に知り合いも増えて、「ホーム感」を出せるようになり、結局発言がしやすくなるように思われる。ステレオタイプでは日本の方がそういう空気が強いように考えられていると思うが、イギリスでもそう変わらないように私は思う。

まあ結局、そのようなことを考える必要はないし、したいときにコメントすればよいのだ、ということは頭では分かっているのだが、私のような「ジャパニーズ」なヒラ院生は、無駄に自制してしまうことも多々あるのである。まあ努力しているうちに徐々に気にならなくなるだろうし、言っている間に自分も年を取るので、問題にならなくなってくるのではないかとは思うが…。

しかし、「コメント全般が苦手というわけではない」というところから、何なら出来るかを考えているうちに、重大な事実にたどり着いてしまった。つまり、自分の興味関心に近いことなら上記の理由も関係なく質問やコメントができるような気がする、ということである。とすると結局問題は自分の興味の範囲なのかもしれない、と考えるとこちらの方が困ったことであるようだ。