紅茶の味噌煮込み

オックスフォード留学記

日常会話と専門会話

ここ最近は、1年目の終わりに提出しなければいけない博論計画の締切が迫っていることもあってその執筆に追われている毎日であり、そのせいでブログの更新が滞ってしまっていた。博論計画を6月前半に提出した後、6月後半はIQMRという質的方法論のサマースクールに行って、7月はオックスフォードで研究し、8月は東京、9月は実家のある奈良で過ごし、9月末にまたオックスフォードに戻ってきて新年度を迎える予定でいる。

留学というと、やはり現地語の上達というのが1つの成果になるわけで、特に学部の交換留学だと専門よりもまず現地の生活に触れて言葉を勉強しましょうというのがメインになってくると思う。博士課程の留学は研究内容が一番だが、論文執筆や研究発表、そして日常のコミュニケーションにおいて現地語能力が問われる機会は数多い。というか生活全体が語学テストといったところだろうか。外国語の習得というのは一部を除いて誰もが苦労するところであり、自分もその例外ではない。日本語で言える表現が英語で言えずにもどかしいことは毎日のようにある。

語学の習得自体ではなく、何らかの技能の習得を目的として留学する場合、向上させるべき言語能力は2つのカテゴリに分かれるだろう。すなわち、日常会話と専門会話だ。普段生活していく上で必要な表現や語彙と、専門の議論をする際に必要な表現や語彙は大きく異なる。研究者を想定して後者を「専門会話」と呼んだが、ビジネスマンの場合は「ビジネス会話」になるだろう。いずれにせよ、2つのうちどっちが習得するのがより難しいのだろうか、ということを折に触れて考えてきた。

最近まで自分は、日常会話の方が専門会話よりも断然難しいと信じていた。日本にいても専門の論文を読んだり書いたりしているので、専門会話に必要な語彙はある程度持っているし、少々文法が違うとか表現が拙いとしても、相手は我慢して聞いてくれることが多い。なので「言語能力よりも内容」というのが比較的成り立ちやすいと考えていた。一方、日常会話では、日本にいては知る機会が無いようなイディオムや単語が沢山使われていたりするし、会話の内容が多岐にわたるので知らない言葉が沢山出てくる。また会話がどんどん進んでいき、即座に反応できないとか困ることが多い。現地のテレビ番組とか文化的背景を知っていないと理解できない話も多かったりする。

なので、私は言語能力を語る際にお決まりの「日常会話程度は…」という言い方を聞くと何というか、むず痒くなる。強めの言葉を使うと、多分そう言う人は、日常会話も出来ていないのではないかと疑ってしまう。外国語能力は、日常会話→専門会話という順序に向上していくわけではないのではないかと考えている。

というわけで天邪鬼の私は、「英語できるの?」と聞かれるごとに「まぁ専門会話程度は…」と答えたりしていた。日常会話ではまだ支障が多少あるけど、専門の会話をするのはほとんど問題ない、という意味である。つまり、外国語能力は専門会話→日常会話という順で向上していくと考えていたわけである。

しかし最近、これも正しくないのかもしれないなと思うようになってきた。というのも、研究上の議論をしたり、プレゼンテーションとQ&Aを経験したりすると、相手の言っているロジックを正確に追えなかったり、相手が使う概念の意味が頭にすっと入ってこなかったりすることがよくあって、それが議論の質や相手の理解度に影響してしまうことがあると感じるからである。その点日常会話ではまあ大して重要な話もしていないし、相手が理解できるまで話し続けることもできるのだが、プレゼンテーションは時間に限りがあったりすることがあるし、言葉や概念の意味に厳密でないと理解に齟齬が生じやすい*1

結局それで思ったのは、日常会話と専門会話の難しさに対する認識というのは、習熟度に従って絶えず変化するものではないかということだ。一方に慣れてくると、それと比較して他方は難しいと思うようになったり、あるいは逆に習熟度が上がったからこそさらに先にある課題に気づいて難しく感じてしまうのかもしれない。いずれにしても、外国語というのは難しいものだ・・・というわけで、いつもの通り結論は特にないのである。

*1:とはいえ、日本語でも結局相手の言っていることが複雑過ぎて理解できなかったり、概念を十分分かっていなかったりすることはあるので、言語能力の問題と混同している面もあるとは思う。

交友関係における経路依存

今いる学部が客観的に見て学問的に最高の環境かどうかは大いに議論の余地があるが(自分の研究関心にとっては結構良いとは思うけど)、ソーシャルライフという意味でオックスフォードに来たことは間違いなく良い選択だったと言える。端的に言って毎日楽しい。ストレスも少ない。

その理由が、カレッジを中心に、毎日誰かと面白い話ができることである。ダイニングホールで食事をした後、上階のコモンルームで紅茶を飲みながら小一時間話す、そんな毎日のひとときがどれだけ自分の生活を豊かにしてくれているか!東大にいたときは、みんな学外のアパートに住んでいて、特に大学院に入ってからは大学の知り合いも減ってしまい、研究室と一人暮らしの自宅の往復で、誰とも話さずに1日を終えることもよくあった。その時代と比べて、毎日の主観的な充実度は明らかに上がっている。

カレッジ生活の魅力は、200人近くのコミュニティが同じ敷地内に住み、生活を共にするというところだが、もちろん入学前の小学生ではあるまいし、友達100人と富士山の上でおにぎりを食べたいなどという戯言を抜かすほど皆幼くはないので、ある程度の流動性はありながらも自然とグループが形成されることになる。

しかしそのグループが形成された経緯を思い返すと、社会科学用語(というか、歴史的制度論/比較歴史分析用語?)で言うところの、重大局面(critical juncture)における多分に偶然の要素を含んだ選択がその後の結果に長期的に重大な影響を及ぼすという、経路依存(path dependence)を意識せずにはいられないのだ。

まあ友人関係の始まりが偶然の選択によるというのは別にこの環境だけの話ではなく、何でもそうなのだが、この環境が面白いのは、友人関係が以前から知っていたとか、同じ部活をやっているとかいうことにほとんど影響されていないということである。自分の友人は、ほとんど最初の1週間のオリエンテーションで出会ったか、ダイニングホールで初めて話したかのどちらかだ。オリエンテーションのイベント会場に入ったとき、誰か話しかける相手を目で探して、ぱっと目についた人に話しかける。その人が後々までの友人になる。ダイニングホールで席を探して、たまたま隣に座る。ここには純粋な意味での偶然が沢山作用していて、つまり会場に着くのが5分遅かったら、違う席に座っていたら、全く別の相手と話していたはずである。

さらに面白いのは、一定期間が経つと、新しい人と話すのが急に難しくなるという点である。一定数友人ができると、それ以上の友人ができることによって新たに得られる効用がだんだんと下がっていき(また自己紹介から始めるのは面倒くさいし)、あまり友達作りに熱心でなくなる。また、知らない前提で話しかけて以前もし話したことがあったら失礼になる、などという理由で話しかけるのが容易でなくなるのだ。最初の数週間当たり前のように見られた、ダイニングホールの各テーブルで握手と自己紹介が繰り広げられる光景は、グループ内の盛んな会話とグループ間の交渉の不在に取って代わられる。交友関係のロックイン効果(lock-in effect)である。

つまり、最初の数週間に偶然に左右されてできた友人が、その後も自分の交友関係を構成し続けることになるわけであり、最初の時期に話さなかった相手とはどんどん距離が生まれ話しにくくなるのである(まあもちろん例外はあるけど)。『四畳半神話大系』という森見登美彦のオモシロ小説があったが、自分の「あり得た姿」について思いを馳せるのは、何というか面白いと同時に何となく感傷をもたらすものである。

もう1つ思うのは、大学はダイニングホールやコモンルームといった「場」を設けたり、すべての学生はカレッジに所属しなければいけないという政策を取ることで、学生の人間関係、ひいてはその後の人生に大きな影響を与えている。「場」をデザインする側の影響力は非常に大きい。これはもっと小さなレベルでもそうで、例えば授業にグループワークを導入すれば、学生は本来なら話すことのなかった相手と共同作業をし、場合によっては個人的な交友関係にも繋がったりする(私はグループワークはあまり好きではないけど…)。誰かの何気ない(?)意思決定によって、多くの人の人生が知らず知らずのうちに影響を受けているのだと考えると、面白いような、怖いような、自分が何かを逃してしまったのではないかというような焦燥感に襲われたりもする。

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そうして出会った友達とオックスブリッジ名物、パンティングをしてきた。

 

オックスフォード国際関係論Ph.Dの就職状況

研究者を目指して博士課程に所属している、あるいはこれから大学院を選ぼうと考えている人ならば、その大学院を出た先にどのような未来が待っているのかを考えるのは自然なことだろう。自分のプログラムの出身者が、研究大学に良いポストを得ているのか、どの国で職を得ているのか、といったことは誰もが知りたいものだ。もちろんこうした情報はあくまで参考にしかならず、先人が良い就職を出来たからといって自分が同じようにできるわけではなく、逆もまた然りである。しかし傾向として、それを把握しておくことは(特に大学院を選ぶ段階において)重要である。

日本ではこうした情報は口コミ、人伝でしか得られないものだが、例えばアメリカならば、主要な大学のPh.Dプログラムのウェブサイトには、たいていplacement record(就職先一覧)が掲載されているはずである。しかし、イギリスではアメリカほどこれが一般的になっておらず、私の所属先(オックスフォード大学政治国際関係学部)もこれを公開していない。というか、多分記録してすらいない。オックスフォードはこのあたり伝統にあぐらをかいているというか、かなり適当である。

なので、まとまった形で先輩の就職先を知ることはできないのだが、この前WebLearnという、オックスフォードが使っている履修登録システムのようなものを見ていると、"Successful theses in International Relations since 1971"というExcelファイルが掲載されていることに気がついた。政治国際関係学部の博士課程はDPhil in PoliticsとDPhil in International Relationsの2つのプログラムに分かれているのだが、後者については、過去の修士論文や博士論文の一覧がまとめられているのだ。当然そこには取得年度や名前も載っている。

ということはつまり、ここに載っている人々の名前を検索すれば、少なくとも研究者になっている人はウェブサイトに名前が記載されているはずだから、自分でplacement recordを作成できるわけである!早速取材班は現地へと向かった。

データ自体は1971年から存在するのだが、あまり古い人を見ても特に今の自分の参考にはならないので、とりあえず2000年に博士号を取得した人から2016年の取得者まで、合計237人の現在の所属を調べてみた。中には検索しても名前が出てこない、あるいは所属がはっきりしない人もおり、すべてを把握できたわけではないが、とりあえず現在分かっていることをここに共有したい。なお、237人のうち、インターネット上で所属を確認できたのは、179人であった(約4分の3)*1

  • アカデミア以外への就職が多い

まず調べていて気づくのは、アカデミア以外に就職している人がかなりの割合を占めるということである。博士号取得者の就職先を①アカデミア(大学での研究職)、②シンクタンク、③政府関係(EU含む)、④国際機関、⑤その他(企業、NPOなど)の5つのカテゴリに分類してみると、以下のようになった。

① アカデミア:106人(59%)
② シンクタンク:25人(13%)
③ 政府関係:14人(8%)
④ 国際機関:10人(6%)
⑤ その他:24人(13%)
合計:179人

つまり大学での研究職についている人は、全体の6割以下で、残りの4割はアカデミア以外の職についているということになる。さらに、研究者はほとんどの場合大学のウェブサイト等に名前が載っていることから、所属が確認できなかった58人が研究者である可能性はかなり低い。つまり、実際には博士号取得者に占める研究者の割合は、45%程度になるだろうと思われる。

ここで研究者の卵として気になるのは、こうしたアカデミア以外の職についている人が、「アカデミアに残りたかったけれどそれが叶わなかった」人なのか、「アカデミアに残るつもりがなかった」人なのか、という点である。前者が多数なのであれば、オックスフォードのplacementについて重大な懸念が生まれるが、後者が多数を占めるとすれば、「残ろうと思えば残れる」ということになるので、安心できるわけである。

私の実感としては(希望的観測も含めて)、アカデミアに残らなかった人の大半は、初めからアカデミアに興味がなかったか、あるいはどっちか決めずに進学して結局アカデミア以外を選んだかのどちらかではないかと思っている。もちろん「研究者になりたい」と思っていたけれども叶わなかった人もある程度はいるとは思うのだが、ヨーロッパでは特に、(少なくとも政治学・国際関係論の分野において)博士号とアカデミアがそれほど直結していないというのは、有識者諸氏にも頷いて頂けると思う。特にドイツはその傾向が顕著なようで(イギリスの大学院にはドイツ人がかなり多い)、外交官になったりEUで働くという場合にも博士号を持っていることがプラスになることから、最初からそのつもりで博士に進学するという人が周りにも何人もいる。自分の同期でも、最初から研究者として就職を目指すと決めているのは少数派であり、他はシンクタンクや政府関係の仕事なども考慮しているようだ。

こうした文化は日本のそれとはかなり異なるし、おそらくアメリカとも異なるのだと思う。自分の知識は限られているので誤っているかもしれないが、アメリカの政治学の博士課程に入学する人は、少なくとも当初の時点ではほとんどがアカデミアへの就職を意識しているのではないだろうか。

  • イギリスとヨーロッパへの就職が多数派

ここからはアカデミアへの就職者に対象を絞って話を進めていく。アカデミア就職の割合の次に気になるのは、どういった国のどういった大学に就職している人が多いのか、という点であろう。ここでもまず、国・地域別の統計を取ってみたい。

① イギリス:41人
② ヨーロッパ:22人
③ アメリカ:20人
④ オーストラリア:8人
⑤ カナダ:4人
⑥ アジア:6人
⑦ ラテンアメリカ:3人
⑧ その他:2人
合計:106人 

やはり、イギリスの大学に就職している人が一番多く、内訳もオックスフォード8人、LSE9人、SOAS3人の他、KCLやSt. Andrews、Queen Maryなどイギリス国内の有力大学に幅広く就職しているようだ。

その次に多いヨーロッパでは、German Institute of Global and Area Studies(GIGA)やEUI、Leidenを始めとして、各国に散らばっている。イギリスへの就職は別として、ヨーロッパへの就職はその国の出身者が自国に戻る、というパターンが多いように見受けられる。この傾向は、アジアやラテンアメリカの各国に就職する場合も恐らく同じであろうと思われる。

  • アメリカでの就職は可能なのか

第三位は意外にもアメリカだ。「意外にも」と書いたのは、政治学(や社会学)では、アメリカでPh.Dを取るとイギリスでも就職できるが、イギリスでPh.Dを取るとアメリカでは就職できないというのが定説になっているためである。ところが、この統計によれば、アカデミアに就職した人の20%近くがアメリカに就職していることになる。

しかし注意しなければいけないのは、このplacement recordは2018年現在の所属を調べたものであり、ポスドクからフルプロフェッサーまですべて含んでいるという点である。なので、現在アメリカでポスドクをしている人(ポスドクはアメリカ外のPh.Dでも教授職に比べればまだ得やすいと聞く)がその後ヨーロッパで教授職に就くことも大いに考えられるわけで、現在の一時点から一般化しようとすると齟齬が生じる可能性が高い。また、Adjunct Professorial Lecturerなどの非正規職(?)も含まれているので、割引いて考える必要がある。

また、周りでもアメリカでの就職を検討しているor実現している人は何人か見たことがあるが、彼らはほとんどがアメリカからの留学生である(なぜアメリカに戻りたいアメリカの人がわざわざイギリスに来て博士号を取るのかはちょっとにわかには理解できないところがある)。過去の例を見ていると、Ph.D期間中にアメリカのどこかの大学にvisitingで滞在する、あるいはpredocをやるなどすると、アメリカで就職することも不可能ではないようである*2。しかしアメリカ出身者以外はあまりアメリカでの就職をそもそも目指していない人が多いようにも感じる。

大学別で見てみると、複数人教授職がいるところだと、New School for Social ResearchとSwarthmore CollegeにAssistant ProfessorとAssociate Professorが一人ずつ、あとは色んなところに散らばっていて、例えばStanfordやHarvardにポスドクが何人かいるようだ。 

  • おわりに

以上が大まかな概要である。論文題目一覧のファイルがInternational Relationsの方しかなかっのでPoliticsの方はどういった状況なのかわからないが、今後入手することができればそちらも調べたいと思う。予想だが、Politicsの方がIRよりもアカデミア志向の人が多いのではないかと想像している。また、もう少し年度を遡れば、卒業生がテニュアを獲得して落ち着くのがどこかについてもより突っ込んだ議論ができるかもしれない。

 

*1:調べていて面白かったのが、クリントン夫妻の娘のChelsea Clintonという人が、オックスフォードで国際関係論の博士を取っているということ。現在の所属がよく分からないので、"Clinton's child"としておいた。

*2:オックスフォード出身でアメリカで教授職についている人としでおそらく一番有名なのは、Anne-Marie Slaughter。

夏の始まり(と終わり?)

先週の後半から週末にかけてはものすごく良い天気が続いた。驚くべきことに日中の最高気温が25度近くを記録し、街は半袖の男女であふれ、芝生という芝生が日光を逃すまいとするオックスフォード住民によって占拠されていた。なかには日光を効率よく浴びるために身体の表面積をできるだけ大きくしようと日頃から準備していたと思われる用意周到な人たちもいて感心した。

オックスフォードにはUniversity ParksとPort Meadowという2つの巨大な公園があるのだが、後者の端っこにはPerchというパブがあって、緑を眺めながらビールを飲める人気の店となっている。しかしそこにたどり着くには公園の中を20分ほど歩かなくてはならず、前日あるいは当日に雨が降ると足元はぐちゃぐちゃにぬかるむので、そうそう簡単に行けるわけではない。しかし先週末は幸いにもよく晴れた日が何日も続いたので、友人たちと散歩を兼ねてこのパブに行ってきた。

普段は人もまばらな公園は、いったいオックスフォードのどこにこんなにいたのかと思うほどの人で溢れかえっており、若者がグループに分かれて、酒を飲んだり音楽をかけたりして思い思いに楽しんでいた。まあ平和といえば平和な光景なのだが、あたりにマリファナの匂いが立ち込めていて、彼らが去った後にはゴミが散らばっていたのには少々閉口した。といっても、日本でも、花見の後の公園はなかなか悲惨なものなので、特にこちらの人がマナーが悪いとは言えない。

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この川はあまり水自体は綺麗ではないのだが泳いでいる人がいて、阪神優勝時の道頓堀川の様相を呈していた。

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トンネルを抜けると・・・

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そこは穴場的パブ、The Perchであった。

しかし、この記事を書いている今は、雨がしとしとと降り続き、10度台前半の中途半端な気温に逆戻りしている。ほんとうにつかの間の夏であった。次にあのような気候になるのは果たしていつだろうか。

この一瞬の夏を経験して思ったのは、いかに天候が人の気分に強い影響を与えるか、ということだった。信じられないほどの好天候が続いた数日の間は、朝起きると明るい日差しがカーテン越しに指していて、カーテンを開けると真っ青な空が目に飛び込み、一歩外に出れば夏の香りが街に満ち満ちており、何も特別なことをしなくても気分が浮き立った。とはいっても、気候が悪かった時期も別に気持ちが落ち込んでいたわけではないのだ。別に普通に過ごしていた。しかし、数日晴れただけでこんなに気分が良くなることを考えると、実は気づかないうちに気候は精神に対する負担になっていたのではないかと思えた。これは冬から春、夏への変化がゆっくりと進行している場合には大して意識しないのかもしれないが、今回のように急激な変化が起きると、はっきりと気分の違いが分かるのだ。

人生の選択をする時は、環境面をゆめゆめ軽視しないようにしたいと思わされる経験だった。

 

ティッシュペーパーが異常に高くて硬いこの国で

前回はかなり真面目なことを書いて、今までで一番反響があり、驚くと共に嬉しかった。そこで今回も何か有意義なことを書いてブログの読者を繋ぎ止め、あるいは増やしていこうという欲に駆られそうになるが、そうは問屋が卸さない。今回は誰が見てもどうでもいいようなことを書くのだ。

タイトルが今回の記事の内容を端的に表している。要するにイギリスはティッシュが異常に高くて異常に硬いということを言いたいのだ。何をしょうもないことをという反応は至極もっともだが、一般に人の苦しみというのは当人にしかわからないものであって、それを外野が取るに足らないとか自分の方が苦労したとか言うのはとんでもないナンセンスである。まあでも今回に関しては別にどうでもいいのでそうした反応も許そうではないか。ついては寛大な心の持ち主として永く記憶して頂きたい。

この時期、日本在住の皆様におかれては、花粉という植物の非効率的な生殖活動によって大いに頭と目と鼻と喉を悩ませているに違いない。海外に行けば花粉症にならないと思っている人も多いかもしれないが、世の中そんなに甘くはない。確かに日本よりは軽い場合も多いと思うが、こちらでも、持っているアレルギーの種類によっては花粉症が発症しうるのである。詳しくはこちらを参照。 

tg.tripadvisor.jp

何らかの花粉によって、私も現在寝起きは少し目が痒かったり、鼻水が出たりする。となると重要なのが、ティッシュである。ティッシュの質が悪いと鼻が荒れる。逆にティッシュの質が良いと花粉症さえも美しい日常の一コマと化す。それほどティッシュは重要である。

しかしイギリスのティッシュは異常に硬いし異常に高い。硬さを言葉で伝えるのは難しいが、例えば最もメジャーなスーパーであるTescoで一番安いティッシュを買うと、これを鼻に入れるのは段ボールを鼻に入れるのと同じようなものである。まあそれは言い過ぎにしても、本当にごわごわでがさがさでこれがティッシュだとはおよそ思えない。ティッシュを定義せよと言いたい。その上そんなものが1個1ポンド近くしたりする。日本のように4個パックで298円、というのではなくて、1箱で100円以上するのだ。

しかもこれは最低級のものの話であって、より質の高いティッシュともなると1ポンドでは済まない。イギリスで売られているティッシュの中で、自分が試した結果唯一花粉症であっても使用に耐えうると判断できるのは、KleenexのUltra Softである。これは鼻セレブほどではないにせよ、日本で売られている一般的なティッシュ程度には柔らかい。驚くのはその価格で、一度ドラッグストアでこれを1箱買ったときは、1つ2ポンド以上した。つまり1箱で300円以上。日本なら4、5倍の量が買える。衝撃であった。

なぜこんなにイギリスではティッシュが硬くて高いのかについて考察するほどの時間はないが、目下の悩みは、価格を優先して鼻を鍛えるのか、健康を優先して価格を我慢するのかということである。たかがティッシュ、無論多少高かろうが買うことはできる。しかしこの国で生きていきたいのならば、この硬いティッシュを甘んじて受け入れ、訓練の末に「イギリスの鼻」を手に入れるべきではないのか。それが異国で生きるということではないのか。そんな葛藤に悩まされ、Amazonの注文ボタンを押せずにいる。