紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

不甲斐ないプリンタ

海外で引越しの多い生活をしていたせいで、できるだけモノを増やさない生活を心がける癖がついた。Marie Kondoよろしく、私もspark joyしないものは所有しないようになり、論文などというものは概して人間のjoyをsparkすることはないので、紙媒体ではなく電子版で全部読むようになった。

そういう生活をしているとプリンタというものを所有する必要性も下がってくるのだが、時々配布物や郵送物などのためにそれが必要になることがあり、一応大学の研究室に一台設置している。

あまり使わないので忘れていたのだが、このプリンタというものは、とにかく我慢する力に欠けている。大して印刷もしていないのに、「インクがなくなりそうです」などと泣き言を繰り返し、しかし印刷してみても別にかすれたりはしていない。なので無視していると、「ほんとにインクがなくなりそうです」と言ってくるが、その時点でも別に印刷に支障はない。じゃあ1回目に言う必要はないのではないか。そうして無視し続けているとあるときついにかすれてきて、そこで初めてインクを交換する。

しかし私が研究室に置いているエプソンのプリンタは、今まで私が所有してきた歴代のプリンタ(ほぼキャノン)よりもひどいやつだった。ある日例の如くインクがなくなりそうだと泣き言を言い始めたので、メッセージを無視して使い続けてみると、案の定問題なく印刷できる。その後も起動するたびに泣き言を言い続け、ある時突然「インクがなくなりました、もう無理です」的なメッセージを出してそれ以上印刷ができなくなってしまった。直前まで問題なく印刷できていたにもかかわらず。

もともとプリンタというのは本体を安くしてインクで稼ぐというモデルだから、インクがないと泣き言を言わせるのはプリンタメーカーの策略なのだが、これまでのプリンタはいよいよインクがなくなってきても印刷自体は可能であり、かすれてくることで限界を知ったものだった。しかしこのプリンタは、なんとまだ印刷できる段階で強制的にシャットダウンしてくる。許しがたい狼藉である。プリンタにも新人類が現れたようだ。

まあしかし人間に置き換えてみれば、パフォーマンスに支障をきたすまで頑張ってしまうよりも、あるところで強制的に放り投げてしまうという方が、むしろ健康的なのかもしれない。働きすぎで心身のバランスを崩してしまうのが一番よくないわけである。無理なときは無理だと言うのも大事なことだ。

・・・いやでもお前はプリンタだろう。私のエプソンは、インクがないのをいいことに、見るからに心身ともに健康そのものといった風情で惰眠を貪っている。というか、まだ合計100枚くらいしか印刷していないと思うのだが。

 

ロンドンの隣人たち

イギリスでの生活を終え、東京に戻ってきてから今月でちょうど1年になる。東京での生活は便利だし、イギリスのように電力会社が突然意味不明な請求書を送ってきたり、電車が突然運休になったり、出先にトイレがなくて危機に陥ったりすることがないので、生活面でのストレスというのはかなり少ないが、一方でこの国で生きていくことに付随する社会的ストレスというのは、大学教員という他の職業に比して大幅に自由度の高い仕事をしていても、意識させられることが度々である。

博士課程を終えてから帰国するまでの1年あまり、私はポスドクとしてケンブリッジに所属しつつロンドンに居住し、週1・2回授業などのためにケンブリッジに通うという生活をしていた。ロンドンは家賃が高く、ざっと東京の1.5-2倍くらいはするのだが、ケンブリッジも同じくらい家賃が高いのと、どうせポスドク生活は長くはないのでとりあえずイギリスにいる間にロンドンを体験したいということで、1年間だけ住んでみた。

私が住んでいたのは、Islingtonというロンドン中心の東北部のエリアで、ハリー・ポッターの9 3/4番線でも有名なKing's Cross駅からバスで10分ほどのところだった。その辺りはいい感じのレストランやカフェ、バーなどが並んでいたりして、高級住宅地とまでは言わないが、治安もよくわりと住みやすいエリアである。

私のアパートは、けっこう大きな建物でいくつかの棟に分かれていて、単身用の1ルームから、カップルや家族用の1-bed、2-bedのアパートなどいくつかのタイプがあり、住人は比較的若めの30代くらいの人が多い印象だった。

そんなに高い家賃を払えるわけでもなかったので、私が住んでいたのは1ルームの部屋だったが、あるとき部屋に帰るとドアにメモが挟まっていて、読んでみれば下の部屋の住人からだった。騒音の苦情かと思ってドキッとして読み進めると、むしろ逆で、最近引っ越してきたけど自分はミュージシャンなので音がうるさかったら言ってくれ、という断りのメモで、こんなことを向こうから言ってくれる人もいるのかと感心した。

このミュージシャンの隣人は同じようなメモを同じ階の住人などにも渡していたらしく、そこから同じアパートに住む隣人たちとのゆるい交流が始まった。私たちはWhatsAppグループを作り、ある夜パブに繰り出した。

そのとき集まった隣人たちの顔ぶれだが、まずミュージシャンは20代前半の女性で、他の住人と比べて明らかに若かったので少し驚いた。北イングランドの出身らしく、元々スコットランドの大学に行っていたが、音楽を志して専門学校に入り直し、そこでレコード会社からスカウトされてデビューの準備のためにロンドンに移ってきたということだった。その契約金でここを借りたらしく、だから若くして一人暮らし(だいたいロンドンなどではこの年代の人はシェアハウスをしている印象)をしているらしい。

ロンドンも東京のようにanonymousな都市で、住人の交流など決して多くはないと思うが、北部出身の彼女だからこそ、こういう交流のきっかけを作ることができたのかもしれない。

他には30代半ばのカップルがいて、たしかイギリス人とウクライナ人だったと思うが、2人は元々ケンブリッジでアカデミアを目指してポスドクまでやったが、結局やめてコンサルティングか何かに移ったということだった。まさか同じアパートにケンブリッジポスドクを経験した人たちがいるとは思っていなかったのでびっくりした。

あとは同じく30代半ばのインド人男性がいて、彼は投資銀行か何かに勤めていた。いかにも投資銀行に勤めているようなライフスタイル(深夜まで仕事、デリバリーの食事、家事の外注、dating appで相手探し etc.)を送っているようだったけど、良い人でオーストラリアに生息する有袋類のクオッカを思わせる愛嬌のある風貌をしていた。

この顔ぶれから分かるように、1ルームに住んでいた私とミュージシャン以外の3人はいずれも相当稼いでいる感じで、つまりはそういう人が集うアパートだったようだ。会話の節々から金銭感覚の違いを感じることはあったけれど、みんな大人で、別にそれを殊更誇ったりすることはなかったのがよかった。

そんな感じで一度全員で集まったのだが、その後はWhatsApp上のやり取りはあっても、全員が集まることはなかった。というのも、まとめ役だったミュージシャンがある時からあまり連絡が取れなくなってしまい、たまに入口などですれ違うときも、明らかにストレスを抱えている様子を見せるようになったのだ。

後日教えてくれたところによると、故郷に残してきた恋人と別れてしまい、さらに契約していたレーベルから突如契約解除を宣告されたということだった。それは考えただけでも相当キツい打撃だ。なので家賃を払うのが難しくなり、やがてアパートを去ってしまった。やはり交流はあっても所詮隣人は隣人で、私には何もできなかったのが心残りだが、どこかで元気にしていてほしい。

この出来事と前後して、私の向かいに引っ越してきたのが私とほとんど同年代のイラン人女性で、といってもアメリカ育ちなので中身はかなりアメリカ人だったが、この人が入れ替わりのように新たにWhatsAppグループに加わった。この人はIT系のスタートアップに勤めていて相当稼いでいるらしく、彼女が行っているジムの名前を聞いたらめちゃくちゃ会費の高いところでびっくりした。

この人が引っ越してきてからは上述のインド人の彼と3人で時々ご飯を食べたりして、主に彼女の仕事の愚痴を2人して聞いていた。ある時彼女の愚痴のレベルが上がったので何かと思ったら、会社での人間関係がこじれて社長から退職を勧告されたらしい。もしかすると引っ越してくるとクビになる呪われたアパートだったのかもしれない。イギリスに残るか、アメリカに帰るか悩んでいたようだったが、最近やり取りをしたところまだイギリスにいるようだ。タフな人だったので、別な会社でバリバリやっていることだろう。

何でつらつらとロンドンの隣人の話をしているのかというと、このイラン人女性が先日連絡してきて、友達が東京に数ヶ月滞在することになったから紹介してもいいか、と言ってきて、先週その人とランチをしてきたからである。彼は医療コンサルのようなことをしているオランダ人で、日本とは特に縁もないが興味があってノマド的にリモートで働きながらちょっと住んでみる、ということだった。フットワークの軽さよ。

私も国境とか1つのキャリアに必ずしも縛られずに気楽に生きていきたいと思った。そして自然に多様な人と出会えたイギリス生活が、少し懐かしくなった。

 

冷やし中華と野球

阪神タイガースペナントレースをリードしている。2年前もシーズン途中まで首位を走っていたのだが、後半ヤクルトに追い越されて優勝を逃した。そもそも阪神はこの18年間、優勝していない。最後に優勝したのは、なんと私が小学校を卒業した年である。

だから今年も「どうせ最後は逆転されて優勝を逃すんでしょ」と思いながら、期待を高めすぎないように、常に気持ちをコントロールしながら観戦している。だから5月に19勝5敗で独走体制に入っても、6月に急失速して8勝14敗になっても、私は一喜一憂しない。というか、落ち込まないために、負け始めたら試合を観ないようにする。辛いことからは逃げてもよいのだ、ということは最近色んな人がよく言っている。

阪神夏の甲子園の期間、ホーム球場が使えないので、毎年ここで失速する。毎年同じなのだから、対策できそうなものなのに、毎回そうなのだ。野球はやっぱり夏が似合うのに、我がチームはいまいち夏にピリッとしない。

私は、世の多くの少年たちと同様、子供の頃は夏が大好きだったのだが、それは殺人的な猛暑がデフォルトになる前のことで、近年は真夏がこわい。特に今年は、6年ぶりに日本の本格的な夏を日本で過ごすことになるので、冷房をかけた部屋の中で戦々恐々としている。私が好きだった夏は、もう概念としてしか存在しないのだ。私も夏にピリッとしない。

それでも私の胸の高まりを呼ぶ夏の要素はいくつか残っていて、その1つが冷やし中華だ。街を歩いていて「冷やし中華、はじめました」という文言を軒先のメニューに見ると、商業主義のテンプレだとは思っていても、つい心惹かれてしまう。やはり冷やし中華というのも、桜の開花と同じように九州・沖縄から始まって、西から東へと広がっていき、最後に東北から北海道に到達するのだろうか。最近テレビを観ていないのでわからないのだが、やはりNHKのニュースなんかでも、6月くらいになると梅雨前線と共に冷やし中華前線の移動が話題となり、各地の開「華」予想が発表されているのだろうか。

とはいっても、私は東京に出てきた18歳のときまで、「冷やし中華」なる言葉を発したことはなかった。私の家ではこれを、「冷麺」と呼んでいた。調べた限り、やはり関西というか西日本では冷やし中華などという呼び方はしないらしく、冷たい麺は韓国冷麺であっても、いわゆる冷やし中華であっても、冷麺と呼ぶらしい。だから私も、「冷やし中華、はじめました」に心躍らせるとき、東京に染まりやがって、と冷ややかに遠くから見つめているもう1つの自分を感じている。

いや、冷麺だとどんな冷麺かわからないじゃん、と思った関東人の方もいるかもしれない。しかしもう少しよく考えてみれば、冷やし中華というネーミングの大胆さが分かるだろう。だって、冷やした中華である。中華料理の幅広さと奥深さをナメているとしか思えない。つまり、よだれ鶏もバンバンジーピータンも、冷やし中華の定義に入るはずである。何なら、食べきれなかった麻婆豆腐を明日食べようと思って冷蔵庫に入れておいたやつさえ、翌日には冷やし中華になっているはずだ。

確かに、冷やし中華は「冷やした中華『麺』」だから冷やし中華なんだろう。しかしだったらこれが麺であることをもっと強調しなければいけないのに、あろうことかその麺を省略してしまうなど、言語道断ではないか。でも「冷やし中華麺」って長いじゃん、と思う人は自らの怠惰さを恥じなければいけない。「めん」の2音を厭っていては、あと数世紀もすれば人類は「あ」とか「お」とかしか言えなくなってしまうだろう。一事が万事、である。

そのようなことを考えていたらお昼の時間になったので、昨日買ってあった冷やし中華を食べることにした。「誰にも教えたくない冷し中華」という名前だったが、あなたには教えてあげよう。しかし具がなかったので、近くのスーパーに行って、トマトときゅうりとハム、という3品を買った。レジの人もおそらく、「こいつ今から冷やし中華を作るな」と思ったはずである。

私は普段、朝食べるサラダのためにミニトマトを常備している。普通のトマトと違って包丁で切る手間がかからないので忙しい朝に便利なのと(といっても私はほとんど朝出勤しないのだが)、味の平均値が高いと感じるからだ。一見美味しそうに見えて食べてみると全然味がないトマト、というのは一定数存在するが、あまり見た目より大幅に不味いミニトマト、というものには遭遇しない気がする。逆に、びっくりするほど美味しいミニトマトに出くわした経験はあまりなく、飛び抜けて美味しいものが出てくるのは普通のトマトの方だ。失敗したくないときには、安定のミニトマトを食べるのが確実だが、やはり冷やし中華には大きなトマトがふさわしい。その日買ったトマトは当たりだった。

野球に例えるならば、ミニトマト安打製造機阪神なら近本光司であり、トマトは一発狙いのホームランバッター、阪神なら佐藤輝明である。私はどちらかといえば安打製造機型の選手の方が好きだ。しかし先日、阪神ミニトマト、近本は肋骨を折って抹消されてしまい、一方阪神のトマト、佐藤輝明は不振による2軍調整から近本と入れ違いに戻ってきたが、いまだにパッとしない。阪神も私も、夏はまだまだこれからだ。

 

索引作成者という仕事

どうも忙しくて前回の記事から時間が空いてしまった。忙しいといっても、別に夜中や土日まで仕事をしているわけではないし、日々7-8時間は寝て友達と飲みに行ったり趣味をする時間はあるのだが、何か気忙しいというか、時間が足りない感じがするのだ。

授業準備やら科研やら、何かと締切が夏に迫っていることが理由だろうが、最も直近の締切が、単著書籍の最終原稿提出である。4月にCambridge University Pressと出版契約を結んだのだが、その経緯などはまた別の機会に詳しく書くとして、契約の条件を詰めているときに、原稿はいつまでに提出できるかと聞かれて、たぶん6月までには終わるけど一応7月末まで、とあまり考えもなく口走ってしまったので、来月末までに原稿を出さなければならない。

一旦締切を設定すれば比較的それを守れる方なので、間に合わないという心配はしていないのと、もうかれこれ5年以上は取り組んでいるプロジェクトなわけだから、いい加減このへんで手を打って手放したいという思いもあり、この締切自体を後悔しているわけではないのだが、誤算だったのは、単に原稿本体を準備する、という以上にやらなければいけないことが多かったことである。

例えば、書籍のカバー写真の候補を選んだり(これはまあ純粋に楽しいから良いのだが)、本のマーケティングのために売り文句やら概要やら何やらを考えなければいけなかったり、そして何より、索引を自分で作成しなければいけない。

この索引、英語で言えばindexだが、これが意外と曲者で、自分で書いた本ではあるが、そこに出てくる重要な概念や人名や地名やらをまとめて、ページを指定して、という作業には思ったよりもかなり時間がかかるようなのだ。これを言うと出版業界の人に見下されるかもしれないが、恥ずかしながらあまり私は索引というものに格別の注意を払ったことがなかったので、多くの学術書で索引が10ページとか20ページとかあることも気にしていなかったし、またそれを(CUPの場合)著者自身がこのタイミングでやるのだということも知らなかった。

まあしかしもっと驚いたのは、この作業を専門にやるindexer、日本語で言えば索引作成者?なる職業の人がいる、ということである。出版社側としては、著者が索引を提出してくれればいいので、別に本人がやる必要はなく、それを外注するのも自由である。ケンブリッジの先生に出版契約の報告をした際に、索引作成を外注するならindexerを紹介するよ、と言われて初めてその存在を知ったのだが、調べてみると、イギリスにもアメリカにも、indexer協会、みたいな団体まで存在し、そこに登録している人を分野などから検索し、直接仕事をお願いすることができる。多くの人はフリーランス個人事業主で、index企業がたくさんindexerを抱えている、というような仕組みではないようだ。

Society of Indexers home page

American Society for Indexing

英文校正に関して英米では業界団体というか組合が存在するのは知っていたが、indexerにもあるのは初耳だった。そもそもindexerが初耳だったので当たり前か。しかしこれが商売として成り立つのがすごい。英語の出版業界の市場規模がいかに大きいか、ということだろう。

自分の作業時間を他に回したいというのもあるが、それよりもこういう仕事があることを知ると、プロフェッショナルの仕事というのがどういうものか知りたくなり、現在前述の先生に紹介してもらったindexerにお願いすることを検討中である。内容面については世界で一番私が詳しいわけだが、索引についてはやはり理解が浅い私よりもプロがやった方が良い索引ができるのでは、という気がする。

しかし問題は費用で、人や原稿の種類にもよるが、私が問い合わせた人は1ページあたり6ドルらしい。私の本は本文だけだとだいたい200ページちょっとになる予定だが、それだと1200ドル、今また円安なので円に換算すると17、8万になってしまう。所属先の今年の個人研究費をここに注ぎ込むことになってしまうので、検討が必要だ。

私の周辺に、最近口を開けば「ChatGPTが~」と言う生きものがいるのだが、indexerの世界では、やはりChatGPTの脅威というものは差し迫った問題として議論になっているのだろうか。いずれにせよ、世の中には色んなプロがいるんだということを改めて感じた経験だった。

 

グレープフルーツはグレープではないのか

「生産的」な休日?

「休みの日は何してるんですか?」というのはよく知らない人との当たり障りのない会話において最頻出の質問の1つであるが、こうした質問は往々にして最も答えにくい質問でもある。私はこれを聞かれた際には、短歌がどうとかスカッシュがどうとかビリヤードがどうとか言っているが、別に休日に「はいじゃあこれから3時間は短歌を作ろう」という風に作歌しているわけではないし、スカッシュは帰国を機にスクールに行こうと思って半年が経ち、ようやく最近体験に申し込んだくらいであって、ビリヤードはまあまあコンスタントにしてはいるが、別に大して上手くもない。

この質問に対して堂々と「YouTubeとか見てます」などと答えられる人は、ある意味ですごいと思う。私だけではないと思うのだが、やっぱり趣味も何か文化的・芸術的であったり、生産的であったり、あるいは健康的であるべきという規範を内面化していて、休みの日はYouTube見てゴロゴロしている、というのはその対極にあるような気がしてとても言えないのだ。同じ映像を見ているのでも例えばNetflixで海外ドラマ、というとギリギリ文化的、という感じがする。私の中の趣味としてOKなものとNGなものの境界線は、NetflixYouTubeの間のどこかにある。まあこれは人それぞれだろうけど。

実際私は、2年前くらいまでYouTubeをほとんど見たことがなかった。プロが作ったもっといいコンテンツがいっぱいあるのに、なぜYouTubeなんて見るのか、と不思議に思っていたのだ。それが博士が終わってロンドンに住み始めて、家にテレビがなく、自炊などをする時間が増えた一昨年ぐらいになって、突然見始めた。今も大して見ているわけではないが、ドラマを1話観るほどの時間はないというスキマ時間に流すには確かにちょうどいい。遅いデビューだった。

一番価値のある井端?

私が見ているのは、生き物系やペット系、ファッション系などもあるが、たぶん一番見ているのは野球系である。子供の頃からの阪神ファンである私はイギリス留学中も野球中継を(イギリス時間の朝に)観ていたくらいだが、近年元プロ野球選手がYouTubeを始めるのがブームみたいになっていて、色んなコンテンツが出ている。正直大して面白くもないものも多いのだが、元ロッテの里崎智也のチャンネルとか、元横浜・中日の谷繁元信のチャンネル、元中日・巨人の井端弘和のチャンネルなどは時々見ている。残念ながら阪神OBはあまり面白いコンテンツを出していない。

井端という選手は他球団だったし、現役時代特に気に留めていたわけではなかったが、YouTubeで話すところを見ていると、野球選手には珍しくあまりオラオラした感じがなく落ち着いていて、話すことも結構面白い。その井端のチャンネルで毎年ゴールデングラブ賞を予想する「井端グラブ賞」なる企画をやっていて、井端がGGに値すると考える選手を発表するのだが、その中で一番優秀だと考える選手を1人MVP(Most Valuable Player)ならぬMVI(Most Valuable Ibata)として表彰するのだが、このネーミングについ笑ってしまった。

だって、Most Valuable Ibataはどう考えても論理的に井端しかありえないではないか。「一番価値のある井端」になる資格があるのは井端だけである。井端の、井端による、井端のための競争なのだから。

どうしようもないネーミング

改めて考えると、ネーミングには時々どうしようもないものがある。例えば虫の名前で「〇〇モドキ」とか「〇〇ダマシ」というのがけっこういて、ゴミムシダマシはゴミムシに似ているけど違う虫、カミキリモドキならカミキリムシに似ているけど違う虫、ということになる。もうちょっと考えて名前付けてあげない?と思ってしまうのは私だけだろうか。当然ゴミムシダマシ自身には騙すつもりなど毛頭なかったわけで、おそらくは「騙すつもりはなかったんです」などと供述したはずだが、とはいっても詐欺師と端から決めつけている警察はそのような供述を信用するはずもない。というかそもそも、「本家」ゴミムシのネーミング自体が極めて不名誉であり、明らかに侮辱的である。私ならゴミムシと呼ばれたら逆上して噛みついてしまうかもしれない。そうするとカミキリムシくらいにはしてもらえる可能性があるだろう。

植物にも変な名前は色々あって、オオイヌノフグリとかは悪名高いと思うが、ユキノシタなんかも考えてみれば、咲いている場所が名前になっているわけであって、本体の特徴を言い表しているわけではない。と言っていて気づいたが、我々の名字も実は似たようなもので、私などは向こうの方に山があったという何の工夫もないネーミングで、ユキノシタと大して変わらないのであった。ジョンソンだってジョンの子孫ということになるわけだが、じゃあそのジョンの名字が何だったかは気になるところだ。

グレープフルーツはグレープである

こういうことを考えながら日々街を歩いたりしているわけだが、スーパーで買い物をしていてあることに気づいた。最近こそイチゴなんかが出てきてスーパーの果物売り場も彩りが増えてきたが、冬の間はだいたい柑橘系の天下で、というかそれしかほとんど売っていなかった。この冬は国内の柑橘の色んな種類を食べ比べるのにハマっていたのだが、子供の頃よく食べていたものにグレープフルーツがある。水分の多さと甘さ、ルビー色の美しさも加わって、ピンクグレープフルーツは特別感のあるフルーツだった。

しかし、グレープフルーツというネーミングについてしばし考えていただきたい。グレープフルーツは面白い果物で、木に鈴なりになっているらしい。その様子がまるでぶどうのようだから、「グレープのようなフルーツ」でグレープフルーツと名付けられたということだ。

ここで納得してはいけない。だってグレープのようなフルーツ、それは、どう考えてもグレープそのものではないか。だってグレープ自体がフルーツなのだから。例えば、これがキウイフルーツなら話は全然別である。キウイフルーツも「キウイのようなフルーツ」だからそういう名前がついているわけだが、「元ネタ」であるキウイは鳥であって、フルーツではない。だから、「A(個別名)のようなB(カテゴリ)」が成立するわけで、同じカテゴリに含まれるものを持ってきてこれをやってしまうと、それってAそのものじゃないか、となってしまう。浅はかな人間のせいでグレープフルーツも日々アイデンティティに悩んでいるに違いない。

かといってまったく新しい名前を付けるのも難しいので、これからはとりあえず彼の果物を、「グレープダマシ」と呼んでやるのはどうだろうか。