紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

学会づくしの3月

「一月は行く、二月は逃げる、三月は去る」とよく言うが、と言おうと思っていたのだが、最近Twitterで、これは主に西日本で言われていることで、東日本では聞いたことがない人も多いという投稿があって、びっくりした。東日本では1-3月が過ぎる速度は遅いのか?

帰国してからのこの半年ほどは、「新しい」環境(以前学生として通っていた大学ではあるけど)で色々と慣れないこともあり、時間が経つのがかつてないほど遅かった。もう帰国してから3年ほど経ったような気がする。1・2月もアドホックな学務があったりして、同様に時間がゆっくり進んでいったのだが、3月になって少し加速した。

考えてみると、3月は大学関係の仕事が少なく、研究会や学会がいくつか入ったため、これまでのポスドク時代と近い生活スタイルになったのと、それらの学会が純粋に楽しかったから時間が経つのが早かったのだと思われる。

東北大学での国際ワークショップ

まず3月上旬には、東北大学(4月から東大社研)の東島雅昌先生に呼んでいただき、同先生とポスドクのAustin Mitchellさんが企画された、権威主義と歴史的政治経済学の国際ワークショップに参加させていただいた。仙台はなぜか2年に1度くらい行く機会のできる街で、街の景観や環境、食べ物とか諸々の面で日本の中では特に好きな都市の1つであるが、ワークショップ自体も大変に楽しかった。2日間にわたるワークショップが終わった時に、「ワークショップロス」に襲われたくらいである。

なぜそんなに楽しかったのかを帰りの新幹線の中で考えていたのだが、まず1つには、参加者が30-40代前半くらいまでの若手に限定されていたことがある。参加者の年齢に大きな差があると、いかに年長者が気を遣ったとしても、やはりどうしても気兼ねや緊張が生まれることが多い。20も30も年上の人の研究に、軽々に突っ込みを入れることはなかなかできないが、同世代だと気軽に質問したりコメントしたりすることができ、肩の力を抜いて参加できるというものである。

また、ワークショップが非公開だったのもよかった。もちろんアウトリーチとか、教育とかいった面では研究会を開かれた場にしていくことも大事だとは思うが、オーディエンスがいるとそれだけ人の目を気にするし、知らない人の前では言えないことも出てきてしまう。形式も型にはまったものになりがちだ。純粋に研究を高め合う場としては、クローズドなワークショップの方が向いていると思った。クローズドな研究会だと必然的に少人数にもなり、個々の発言機会と発言のハードルも下がっていっそう話しやすい。

それに加えて、1日目・2日目ともに、ワークショップの後には懇親会が開かれ、それがまたよかった。少人数なので一人一人とよく話せるし、同世代で英語なのでフランクな話ができるし、オーストラリアやシンガポール、台湾などの研究者からそれぞれの事情を聞けて興味深かった。日本にいながらにして海外の有力な研究者と知り合える、議論できるということを確認できたのが、一番の収穫だったかもしれない。今後のキャリアに希望の持てる機会だった。主宰者のお二人には感謝しかない。

モントリオールでのISA

続いて中旬には、カナダのモントリオールで開催されたInternational Studies Associationに参加してきた。ISAは国際関係論では世界最大の学会で、北米ベースなので毎年アメリカかカナダで開催される。去年は初めて対面で参加したのだが、世界滅亡後のシェルターみたいなナッシュビル郊外の異様な巨大ホテルでの開催で、相当特異な経験だった。今回はモントリオールというまともな都市での開催だったものの、3箇所のホテルに会場が分かれていてちょっとめんどくさかった。また日本の気温は既に20度近くまで上がっていたものの、モントリオールはまだ0度前後で、めちゃくちゃ寒かった。

こういった大規模学会で何をするのか、というのは研究者のキャリアの段階によって大きく異なる。まずこうした学会に参加し始めた大学院生は、個別に応募して、学会側が組むパネルに入れられ、「あんまり他の発表と関係なくない?」と思いながら"Every talk is a job talk"などと言い聞かせて大真面目に準備したのに、実際にパネルに行ってみると司会や討論者がバックレていたりして、聴衆3人、みたいな部屋で発表をすることになる。(初めての参加なら、これに加えて、大真面目に学会のポータルサイトにペーパーをアップロードしたら、自分以外誰もアップロードなんてしていないことに気づいて衝撃を受ける、というプロセスが入る。)各分科会の懇親会などに出て、他の大学の院生などと知り合ったりするも、えらい先生たちは一体どこにいるの?と不思議に思う。

少し段階が進んでポスドク、若手教員くらいになると、自分で一緒にやりたい研究者に声を掛けて(あるいは掛けられて)パネルを組織し、パネル単位で応募することになる。取りまとめの手間はかかるが、実際に自分に興味のあるテーマでパネルを組むことができて、分野の他の研究者と知り合うことができ、徐々に顔が広くなってくる。聞きに来る人も少し増え始め、少なくともパネルのメンバーよりも聴衆のほうが多くなってくる。自分の大学院時代の友達や、過去に知り合った研究者などに、1年ぶりに再会して話し込む、などということも増えてくる。

シニアの研究者になってくると、もはやペーパーは発表しない。声を掛けられてラウンドテーブルでちょこっと話すことはあるが、それでプログラムに名前は載せておいて、あとは旧知の人たちとひたすらキャッチアップして研究の相談をしたり単に旧交を温めたりするようになる。パネルが行われる部屋にはほとんど出入りせず、会場周辺のバーやカフェに高頻度で出没する。

私はというと、今第一段階はなんとか終えて真ん中の段階であり、これからもそうであろうと思う。去年ポスドクであった時に初めて自分でパネルを組織して、今回その本番であった。私が最近やっている日本近世の主権領域秩序というテーマに関連して、東アジアの歴史的国家形成というタイトルで関係する研究者に声をかけてパネルを組んだ。私自身この分野の新参者であるので、最初はあまり知り合いがおらず人集めに難航したのだが、人伝に集めた発表者は結果的に全員非常に面白い研究をしていて、パネルを作ってよかったなと思った。今後それこそワークショップに呼んだり呼ばれたりすることがあるだろうと思う。

ISAはもちろん学会であって、研究発表の場なのだが、上でも触れたように、実は一番重要なのはそれ以外の時間で、私もランチやらコーヒーやらディナーやら、色々と予定を入れて人に会った。オックスフォードやケンブリッジを出ていると、やはりこういった大規模学会に来る人も多いので、学会会場で一緒になる知り合いの数もそれなりに多い。そして知り合いがまた新しい人を紹介してくれたりする。こういうところが、規模の大きな海外のPhDを出たことのメリットだなと思う。学会は実力主義とはいっても、実際には個人的なネットワークが重要であることは日本も海外も変わりないので、知り合いが多いことは武器になる。

ただ、単に知り合いが多いだけでは当然限界がある。色んな人に名刺を配っても、相手が読むような媒体に研究を発表していないと、自分の名前は相手には残らない。素晴らしい社交能力を持っていれば、友達にはなれるかもしれないが、学会のネットワーキングは別に単なる友達を作るのが目的ではないだろうから、やはり研究を出していて初めてネットワーキングの意味があるというものだろう。

なので、同世代の友達を各地に増やしたい、という動機で他分野の人とレセプションなどでsocializeすることはあるものの、特に友達になるという感じではない他分野の人と顔を合わせても、社交する気にはあまりならないのが正直なところである。

学会というのはそれ自体「部分社会」であるが、学会の中にもたくさんの部分社会があって、私はISAに行っても安全保障系のパネルに出ることはないし、国際政治経済のパネルに出ることもほとんどない。国際関係理論のレセプションに行ったら、ほとんど誰も知り合いがいなくて驚いた。でも歴史的国際関係論のパネルやレセプションに行くと、だいたい知っている顔が並んでいる。そういうものである。まあ、安保とかIPE系のところに行くとアメリカの人が多くて、歴史的国際関係論に行くとイギリス・ヨーロッパ・オーストラリアの人が多い、という違いもあるのだけれど。

カナダはかつてトロントに交換留学していた時に住んだことがあるのだが、気候は別にして(イギリスも人のことは言えないし)、多様性や寛容さといった面ではやはり他の追随を許さない心地よさがある。トロントの多様性と比べるとロンドンも比較にならない。一方で、街並みの美しさや、様々な国へのアクセスなどを考えると、やはりカナダは分が悪いとも思う。飛行機で2時間飛べばスペイン、という立地には勝てない。すべてを満たす国や都市というのはないのだろう。

しかし3月は久しぶりに日本の日常を離れて国際的な気分に浸ることができて、とてもリフレッシュできた良い月だった。花粉さえなければもっといいのだが。

 

気まぐれなまぶた

今日は少し寒かったが、ここ数日春のような陽気が続いていた。外を歩いていてもふとした瞬間に春の匂いが漂ってくるような気がして、つい深呼吸してしまう。先週末は湯島天神の「梅まつり」に行ってきたが、桜ほど派手ではなく、淡い梅の花が裸の枝に小さく咲いているのを美しいと感じると、自分も大人になったなあと思えたりする。今週は仕事からの帰り道に花屋の前を通りがかると、今度は桃の枝が売られていて、後先考えずについ買ってしまい、家に持って帰って花瓶がないことに気づいて、適当な容器に暫定的に挿している。

春になるのは嬉しいのだが、春は同時に花粉の季節でもある。私は大学生の時に花粉症を発症し、それなりに重い症状があったのだが、留学中は3月に日本にいることが少なく、イギリスにはスギ花粉はそんなに飛んでいなかったために、その辛さを忘れていた。今年はそもそも例年より花粉が多いらしいが、6年ぶりということも加わって、かなりのダメージを受けている。

こうなると、3月を「日本にいたくない月リスト」に追加したくなってくる。このリストには、他には6月半ばから7月半ばの梅雨の季節があり、8月もできれば避けたいと考えている。理想的には、4月から梅雨入り前までは日本、梅雨から8月いっぱいまではイギリスないしヨーロッパにいて、9月から11月までまた日本、12月だけクリスマスのためにヨーロッパに行って、1月から3月は日本を飛び越して東南アジアかオーストラリアあたりに逃げたい。

まあそう思い通りにはいかないのが人生というものだろうが、最近特に私の思い通りにならないものに、「まぶた」がある。どういうことかというと、毎日一重になったり二重になったりするのだ。よく疲れている時に一重の人が二重になったりするということはあるし、私もそういう経験はあったのだが、大概は一日経てば戻るものである。

しかし今回は、年末あたりからかれこれ2ヶ月以上も、日によって①両目一重、②右だけ二重、③両目二重を1:2:1くらいの比率でランダムに繰り返している。先週末から今週を例に取ると、土日は①だったが月火は②になり、水木は③、金曜は③から昼寝をしたら②になった。両目が揃っていれば一重でも二重でもどっちでもいいのだが、左右非対称になると自分でも違和感があるので、どっちかにしてもらいたいものだ。

他人の顔など、自分が思うほど人は見ていないというのは確かだと思うのだが、まぶたの違いというのは思いの外気づかれるもので、年始に高校のテニス部同期とテニスをするのが恒例になっているのだが、数年ぶりに会った同級生に開口一番「二重にしたのか」と聞かれて閉口した。「なった」ではなく「した」と思われるのは癪なので、今後もあらぬ疑いをかけられないようにここで釈明しておきたいと思う。

なぜこういうことになるのか気になったので調べていると、どうやら、加齢に伴ってまぶたの脂肪が薄くなるために、一重が二重になるらしく、そういうケースは意外によくあるようだ。昔の生物の授業で、一重と二重は遺伝的に決まっている、みたいなあやふやな知識を教えられていたので、加齢でこれが変わりうるとは知らなかった。しかしそうなると、私はこれ以上若くなることはないので、現在を移行期として、これから徐々に両目二重になるのだろうか?気になるところである。

しかしまだ30歳になったばかりなのに、加齢って・・・。梅の花を愛でる感性を得るために、払わなければいけない犠牲ということだろうか。まあ日本は若いと特に軽んじられやすい社会なので、歳を取るということは、案外悪くないのかもしれない、と言い聞かせておくことにする。

 

捨てる神(×7)あれば拾う神あり:論文出版こぼれ話③(CP)

「1月は行く」などとその過ぎる早さを指して言われるが、2023年の1月は私にとってはかなり長かった。正月早々、実家から帰京しようと思った矢先に母親のコロナ感染が発覚して滞在を延長し、ようやく東京に戻ってきたと思ったら今度は手足口病のような発疹ができたり数年ぶりの偏頭痛に襲われたりしながら、そうした体調不良の元凶と思われる、所属先から(文系としては)大きめの外部資金に応募するための申請書書きをようやく終えて、やっと1月が終わった。正月は楽しかったのだが、あれがまだ1ヶ月前とは信じられない。

苦戦からの意外な幕切れ

色々大変だった1月だが、研究の面では予想外に、非常に報われる1ヶ月となった。それは1つには、半年ほど待っていた博論を改訂した英文単著書籍の査読結果が返ってきて次のステップに進めたということがあるが、そちらは内容はともかく、時期としてはそろそろかなという予想はしていた。しかし驚きだったのが、10月頃に投稿した論文が、査読1ラウンド目で(R&Rを経ずに)Comparative Politicsという雑誌にアクセプトされたことである。前回の記事で今年の抱負として挙げていたことの1つに、「論文1本出版+1本投稿」というのがあったが、その難しい方の半分、つまり論文1本の出版がなんと1月の時点で決定してしまった。

ここまで聞くと「このlucky bastardが」と思われる方もいるかもしれないが、確かにこの雑誌の査読結果はめったにない幸運だったものの、この論文が実に8誌目で採択されたことを付け加えれば、決して簡単な道のりではなかったことを分かってもらえるだろうか。最初にこの論文を投稿したのは2020年の終わり頃だから、2年以上は採択までかかっているわけで、しかもこの論文は私の博論の一部を切り出したものである。博論ベースの論文という、院生・ポスドク時代にはほとんどそれが唯一の武器であったものが、2年もリジェクトされ続ける精神的苦痛を想像していただきたい。賠償請求をしたいぐらいだが、あいにく誰に請求すればよいのか分からない。

Comparative Politicsという雑誌

8誌目といっても、Comparative Politicsが二流の雑誌なのかというとそうではなく、むしろ比較政治学をやっている人なら、おそらく誰でも読んだことはあるし、これが一流とみなされる雑誌であることは納得してもらえるだろう。私が生まれるより前の論文だが、中東研究あるいは政治体制、国家などを扱っている研究者ならだいたい読んだことがあるだろうLisa Andersonの"The State in the Middle East and North Africa"が、CPに出た論文として私の頭に真っ先に浮かんでくるものだが、その他にも沢山の有名論文がここに掲載されている。私が過去に出したDemocratizationという雑誌に採択されたブルネイの政治体制に関する論文は、オックスフォードに進学して間もなく投稿開始したものの、Comparative Politicsからはデスクリジェクトされてしまったので、数年越しにリベンジできたということになる。ちなみに同論文は最初にWorld Politicsに投稿して、「4ヶ月後にデスクリジェクト」された苦い思い出があり、それ以来WPという地雷原には近づかないようにしている。

近年、比較政治学の「トップジャーナル」とされる雑誌では質的研究が採択されにくくなっており、Comparative Political Studies、World Politicsなどのかつては質的研究を掲載していた雑誌も、近年は専ら量的研究ばかりを掲載するようになっている(もちろん例外はちらほらあるし、ことCPSのエディターは質的研究でも良いものなら採択してくれそうな感じはあるのだが)。質的研究にフレンドリーな比較政治のトップジャーナルというと、Perspectives on Politicsか、このComparative Politicsのどちらか、というのがだいたいの共通認識ではないだろうか。

七福神に捨てられる

何で8誌も出したのにまだトップジャーナルが残っているんだと思われるかもしれないが、それはこの論文を当初は主に国際関係論系の雑誌に掲載しようとしていたからである。植民地時代の石油と国家形成、というテーマは、国際関係論と比較政治学の中間的なテーマであり、イギリスに行って以来IRに傾いている私はできればこれをIRの雑誌に出そうと思っていた。博論の内容ということもあり、水準にそれなりに自信もあったので、適当な雑誌で満足したくはなく、トップから順番にチャレンジしていくつもりだった。

というわけで、満を持して最初は天下のInternational Organizationに出したのだが、無事査読には回り、査読者のコメントもタフではあったが「これR&Rでもいいのでは?」という感じだったものの、エディターは気に入ってくれずリジェクトとなった。次にInternational Studies Quarterly、American Political Science Reviewと出したのだが、いずれも査読には回ったものの、「事例が少ない」とか、「最近同じような論文を読んだ、〇〇とかMukoyamaとか」などと言われてリジェクトされた。

ISQにハネられたのがちょうどケンブリッジポスドクを始めた2021年の夏前くらいで、カレッジでポスドク仲間の集まりに参加している最中だった。夕食を終えてもまだ燦々と降り注いでいる夏のイギリスの日差しの中で、ずいぶんと打ちひしがれた気持ちになったのを覚えている。ジョブマーケットも控えていたこの時が一番沈んでいたかもしれない。

ケンブリッジの牛たちが慰めてくれた。

次に考えられるのはEuropean Journal of International Relationsだったが、当時既にここで査読中の別の論文があり(後に採択)、全体の業績も少ないのに同じ雑誌に2つ出すのもなあ、と思って、思い切って安全保障系の内容に無理やり結びつけてInternational Securityに出すことにした。しかしやはり無理があったのか、ISからはデスクリジェクトされ、続いて同じような系統のSecurity Studiesに出したら、査読には回ったもののやはり「安全保障とは関係なくない?」と言われて落とされた。

ここまで来たら仕方ない、良い雑誌だがヨーロッパなど一部地域以外ではあまり認知度のないReview of International Studiesに出すか、などとナメたことを考えて投稿したらしっぺ返しのデスクリジェクトを食らい、このあたりでかなり諦めモードに入ってきた。もうこの論文は掲載されないのではないか、幸い書籍の方は順調に進んでいるので、そちらが出るなら論文はなくてもいいか、というメンタリティになっていたのである。

この時点で私のお気に入り雑誌、EJIRにまたトライしてもよかったのだが、別論文が採択されたこともあり、やはり同じ雑誌に2つ出すのもなあ、と思い、最後のあがきで、論文を比較政治寄りに構成し直すことにした。これでPerspectives on PoliticsとComparative Politicsをトライして、無理だったらEJIRに出し、そこでもリジェクトされたらもうトップジャーナルにこだわるのはやめてセカンドティアのジャーナルに出そうと決めた。

で、まずPerspectives on Politicsをトライしたのだが、残念ながらまたデスクリジェクトとなり、諦めモードが強まった。振り返ると、IO・APSR・ISQは一応査読まで回ったのに、その後の方がデスクリジェクトが多くなっているのは不思議である。フィットの問題なのだろうか。そして8誌目のComparative Politicsでついに採用、となったわけである。

不思議な査読結果

といっても、この査読結果もまた不思議で、2人のレビュアーのうち1人は非常に好意的で、修正すべき箇所も「踏まえていない先行研究がある」という程度だったのに対し、もう一人は逆に「この論文は間違っている。他にも色々要因あるから。」みたいな3文くらいの非常に短い(やる気も何の根拠もない)コメントで(だったら査読引き受けるなよと思った)、意見が両極端に割れていた。そうなるとエディターの判断になるわけだが、彼/彼女らがこの論文の価値を最終的に信じてくれたのだろう。ニューヨーク市立大学(編集元)に感謝。そして、肯定的なレビューの方は先行研究のことぐらいしか注文を付けていないので、R&Rにするにしても具体的な修正指示ができないため、一回目で採択となったのではないだろうか。

査読結果のメールが来たときは、「はいはいどうせ今回もダメでしょ」と思いながら期待せずに開けたので、「アクセプト」と書いてあってめちゃくちゃ驚いた。そうでなくても1回目でアクセプトされることなどほとんどないのに、これだけ苦戦した論文だから、まったく予想していなかったわけである。

教訓、のようなもの

将来のことは分からないが、たぶん今回の論文が、人生で一番苦しんだ論文になるのではないかと思う。これからもたくさんリジェクトされることはあるだろうが、自分の実力を証明しなければならないキャリアの最初期の段階で、最も心血を注ぎ込んだ博士論文の研究を、就職の心配をしながらリジェクトされ続けるというほどの苦しさは、もうおそらくないだろう。努力をしていればいつか報われる、というような月並みな人生訓は言いたくない。一定水準を満たしていれば、ジャーナルの査読結果など所詮は運なので、腐らずに、諦めずにガチャを引き続けていれば、そのうち当たりが出る「かもしれない」、というだけのことである。

 

旧年の振り返りと新年の抱負:2023

いつの間にか2022年も終わり、2023年になった。年をとるにつれて、1年が経つのが早くなるとはよく言う話だが、去年に限っては逆に随分長く感じた。というのも、やはり変化の大きい年であったということが一番の理由だろう。夏まではまだイギリスにいたのでそれ以前と変わらない生活であり、比較的時間も早く進んだように感じたが、それでも帰国を見据えるようになり、その準備やイギリスでやり残したことを一つ一つやっていく過程は普段よりも濃度が高かった。ましてや、帰国してからは教員生活のスタートと5年ぶりの東京での生活ということで、色々なことが新鮮であり、吸収すべきことが山ほどあった。

帰国してからまだ3ヶ月半ほどしか経っていないというのが衝撃的で、実際にはもう1年はいるような感じがしている。年を取ると時間の経過が早く感じるようになるというのも、生活がルーティン化して新鮮味がなくなることに起因するという話を聞くが、そう考えると2022年は経過が遅く感じたというのも、さもありなんという感じである。

しかし、教員の端くれになってみて感じるのは、やはり同じ大学内にいても、教員という立場になって見える景色はそれまでとかなり異なるということである。それまでの数年は、目先の研究と将来の就職の心配というのが頭の大部分を占めていたわけだが、今は就職の心配がとりあえずは消えた代わりに、研究にプラスして学務とか職場の人間関係とか、今年度は授業はしていないのだが来年度以降の教育活動とか、おまけに人の雇用の心配まで考えることになる。まあ院生~ポスドク時代の、来年再来年の仕事がどうなるかわからないという状況のストレスは相当なものであったから、それがなくなったというのはかなりポジティブな材料なのだが、立場とか責任というようなものはどっと増えた感じがする。

そんなわけで、1年後の自分がこうなるとは必ずしも分かっていなかった昨年の自分が立てた目標を振り返り、今年の目標を設定したいと思う。

晦日東大寺

昨年の目標:達成状況

さて、昨年立てた目標は、以下の5つであった。

  1. 単著書籍の出版契約を結ぶ:✕ 残念ながらこの目標はまだ達成できていない。設定時点でも書いていた通り、大学出版会からの英語書籍の出版には、こちらでコントロールできない理由で論文以上に時間がかかる。査読があるというのがまず日本の学術出版との違いで、それに下手すると1年くらいかかったりする。その結果が出ても多くの場合そこから査読へのレスポンスレターを書いて、原稿を改訂してようやく契約がもらえる。私の場合、運良く最初の出版社でエディターの関心を引くことができ(これが実は最大の関門とも言われる)、査読に回ることになったのだが、7月下旬に原稿を提出して5ヶ月あまり、まだ査読結果は出ていない。リマインドしつつ、気長に待つ必要があるだろう。少なくとも私の手は一旦離れているので、未達は私のせいではないということにしておく。
  2. 論文を最低2本出版する:△ こちらは、半分達成だろう。幸い、一番のお気に入り雑誌であるEuropean Journal of International Relationsに、新しいプロジェクトの論文を出すことができた。これは個人的にすごく嬉しいことで、ようやくメジャーな場所に論文を出せたという喜びがあったが、もう1本ぜひ出さねばと思っていた論文はまだ出せていない。こちらの方がかけている時間は長いのだが、残念なことにリジェクトが続いている。博論/書籍の一部でもあるので、もはや書籍が出るならこっちはもういいかという若干の諦めモードに入っているが、現在査読中なので結果を待ちたい。というか去年の自分、野心的すぎでは?

  3. たくさん旅をする:◯ これは自信を持って達成したと言える。ケンブリッジでのティーチングや諸々の仕事が終わり、帰国が迫ってきた6月頃からヨーロッパをできる限り旅行しようということで、そこから3ヶ月でスペイン、ポーランドアイルランドラトビアリトアニアギリシャに行った。スペイン(とポルトガル)は私の中で殿堂入りなのだが、ポーランドは事前の印象はそれほど強くなかったが、行ってみると思いの外よかった。ギリシャアテネで学会だったので、今度は島巡りをしたいと思っている。まだ行けていない国があるが、今後はアジアを開拓して、イギリスに長期滞在するときなどにまたヨーロッパを旅したいと思う。
  4. ライフの充実:◯ 多分去年の今頃の自分の中には、出版プレッシャーとジョブマーケットの大変さ、ティーチングの忙しさなどで余裕がなく、それ以外の生活を十分に楽しめていないという危機感があったのだと思う。今でも忙しいのは変わらないが、就職が決まってからはある程度その他の部分も重視した生活ができていたと思う。帰国前にたくさん旅行したのもそうだし、帰国後はぼちぼち諸々の趣味も再開している。
  5. 将来設計:△ 長期的な人生の見通しを立てたい、ということであったが、それに関しては今も立っているとは言いがたい。去年30になって、まあ一般的な日本社会で言えば色んな意味でライフステージが進んでいく人が多いのだろうが、研究者としてはまだようやくキャリアのスタートラインに着いたばかりだし、帰国したとはいっても、必ずしも今後一生日本で生きていくということにコミットしているわけでもない。まあ結局、なんとなくこうなりたいという像は持ちつつ、5年周期くらいで修正していくことになるのかな、と思う。

今年の抱負

以上を踏まえて、今年は以下のような目標を立てたい。

  1. 単著書籍の出版契約を結ぶ:これは去年からの継続。私より1年先に博士課程を終えたケンブリッジポスドク仲間は、査読に大変な時間を経て査読が返ってきたのだが、それでも1年なので、さすがに今年の前半には結果が出るだろう。もちろんだからといって良い結果とは限らないわけだが、書籍はデスクリジェクト率が非常に高くレビュー後のリジェクトは少数派と聞くので(と言いつつこの間会った人がそのリジェクト経験者だった)、期待したいところだ。
  2. 論文1本出版+1本投稿:去年がちょっと野心的すぎたのと、書籍を最優先にしたいので、論文に関しては少し控えめな目標にしておく。1年に1本論文を英語で出し続けるというのが、私のこれからの努力目標。ただ単著でフルペーパー、歴史的研究となるとなかなか量産するのは難しく、コロナ以降査読にかかる時間も伸び続けているから、これでも簡単な目標ではない。
  3. 研究の種まき:やはり就職の上で業績が必要、ということでここ1年ほどは既にやった研究をどうにかして出版する、ということに集中せざるを得ず、新たなテーマの発掘は十分にできていなかった。英文書籍を出した後の日本語版なども含めると博論関係の研究を出し切るにはまだ数年かかるとは思うが、その後研究者として自分をどのように売り出していくかということも考えなければいけない。第2の単著プロジェクトは非西洋国際関係論の視点から日本近世を扱うと決めているが、同時にこれまで研究してきた資源やエネルギーの問題をもう少し現代的なテーマで掘り下げていくようなこともしたいとは思っている。新しい分野を開拓するためには、すぐに論文に結びつかないような勉強をする時間を確保していく必要がある。
  4. 仲間探し:研究者なら誰しも、自分の論文をこの人たちに向けて書いているとか、この人の論文は出たら読むという、狭い範囲のコアな研究者コミュニティがあると思うのだが、こうした仲間は私の場合今のところ英・欧・豪あたりに集中している。どのみち英語で書いて読んでもらうのだからそれでいいとも言えるが、やはり頻繁に会えるわけでもないので、身近な国内にそうした仲間を増やしたいというのも正直なところである。シンパシーを感じる人と連携しつつ、院生など下の世代とも繋がりを作りながら、研究者コミュニティを国内に作っていきたいと思う。これは来年の目標というよりもう少し長期的な目標になるだろう。
  5. 複数の短歌新人賞に応募する:私は数年前から短歌を趣味の1つとしているのだが、結社に所属して何とか歌を作り続けてはいるものの、海外では歌集を入手しにくい(+本を増やしたくない)とか、賞に応募するにも郵送が必要とかいう事情があって、必ずしも「本腰」を入れて取り組んでいるわけではなかった。何であれその道に懸けている人が注ぐ熱量というのは半端なものではなく、私はその熱量の総量は有限だと思うので、既に研究という対象がある私が短歌に注げる熱量というのは、それに懸けている人が注げる熱量には及ばないというのがこの数年の実感ではある。しかしそれでも数年後には歌集を出したいと思っているので、モチベーションにするためにも、結果はどうあれ、帰国を機に短歌の新人賞にいくつか応募してみたいと思う。

  6. 趣味と運動の時間を確保する:東京に帰ってきたことの大きなメリットの一つは、趣味をやれる環境が揃っているということである。上記の短歌もそうだし、最近ハマっているビリヤードも、ちょくちょくやっているスカッシュもそう。イギリスでも、例えばジェントルマンズクラブにはビリヤード台もスカッシュコートもあるだろうが、そんなところに平民の私は入れないので、できる場所を探すのに苦労した。テニスコートはその辺に沢山あるのだが、ロンドンのように縁のない都市において同じくらいのレベルで一緒にやる人を探すのは簡単ではなかった。そう考えると、既に何年も住んだ経験のある都市で、だいたい何をやる環境も近場に揃っている東京という場所は非常にありがたい。最低2週間に1回くらい、テニスまたはスカッシュができる環境を確保できればと思う。

そんな感じで今年も楽しんでいきたい。

 

ゾウの時間、査読の時間:論文出版こぼれ話②(EJIR)

先月頭にEuropean Journal of International Relationsという雑誌に、新しい論文が掲載された。私は博士課程まで、「天然資源が主権国家の独立過程に与えた影響」というテーマを研究していて、事例としては東南アジアのブルネイ、中東のカタールバーレーンなどを扱っていたのだが、博論の次の大きなプロジェクトとして、近世日本(主に江戸時代)を藩などで構成される国際システムとして捉え、それを国際関係論の観点から解釈することで、従来の理論で前提とされてきたことを問い直す、というような研究に現在取り組んでいる。元々これは博士課程の途中から、サイドプロジェクトとしてやり始めた研究なのだが、今後数年(これを書籍として出版するまで)は、これを自分のメインの研究としてやっていくつもりだ。

今回出た論文はそのプロジェクトの最初の論文で、主権国家の構成要素の1つである領土、それを構成する1つの要素であるところの直線的な国境(linear borders)というものが、従来はヨーロッパで誕生し、他地域にはその後ヨーロッパから伝播したと考えられていたものの、実際にはヨーロッパにおける発展と同時期に日本でも同じようなものが発達しつつあったのだ、ということを示している。詳しくはぜひリンク先を読んでみてほしい。
https://doi.org/10.1177/13540661221133206

強欲な出版社とオープンアクセス

少し脱線するが、この論文はオープンアクセスなので無料で誰でも読める。学術誌を出版している商業出版社は強欲で、学術論文をいくら書いたところで、あるいは査読したところで研究者には1円も入ってこないのは周知のところだが、読者にとっては、通常論文は掲載されている雑誌を所属大学が購読しているか、あるいは自費で一本ごとに購入しないと読むことができない。それを誰もが読めるようにするためにオープンアクセスという仕組みがあるのだが、それがなぜ可能かというと、研究者の側が出版社にお金を払うからである。つまり、自分は無償で論文を発表した上に、さらに金を払って公開するということだ。なんという馬鹿げたシステムだろう。冗談は顔だけにしてほしいものだ。

そしてこのオープンアクセスにかかる費用は何十万という単位なので、普通の研究者は自分では負担できない。だが欧米の有力大学では、大学が各出版社と包括契約を結んでいて、所属研究者のオープンアクセス代をまとめて払っており、個別の研究者は無料で(あるいは相当割引された価格で)論文をオープンアクセスにできる。私の場合、論文がアクセプトされた時点ではケンブリッジに所属があり、ケンブリッジがSAGEと契約していたため、この費用を免除されたのである(後に公開される際には東大に所属を修正しているが)。国内の大学でそういう契約を広範にしているところはあるのだろうか。いずれにしても、万国の研究者は団結していつかはこのアンフェアなシステムを打破するべきだと思う。

EJIRという雑誌

さて、この論文が掲載されたEuropean Journal of International Relationsという雑誌は、European International Studies Associationという学会と、European Consortium for Political Researchという学会の国際関係分科会とが共同で出しているもので、私が国際関係論で一番好きな雑誌である。私が現在取り組んでいて、この論文もその範疇に含まれる歴史的国際関係論(historical international relations)という領域は、このEJIRという雑誌をその中心的な発表先として展開しており、また非西洋の事例に関する研究も比較的多く発表されている。お気に入りの雑誌に論文が掲載されて、正直とても嬉しい。

ヨーロッパの雑誌だということもあり、また掲載される研究の方向性がアメリカの動向とは違うので、残念ながらEJIRはアメリカではあまり重視されていないようだが、ヨーロッパ(以下イギリスはヨーロッパに含まれることとする)では掛け値なしにトップジャーナルの1つとみなされている。どれくらいかというと、国際関係論の最高峰はヨーロッパでもInternational Organizationと認識されているのだが、その次にEJIRとInternational Studies Quarterlyが来るぐらいである*1。ISQはアメリカ的な雑誌であって(Daniel Nexonがエディターをやっていた時は違ったと言われているが)、EJIRの方がヨーロッパでは読まれているといっても間違いではないと思う。

というわけで、多分日本の人はあまり気づいてくれていないだろうけど、EJIRに論文を載せるというのは結構大きなことで、これだけでイギリスならオックスブリッジやLSEは無理だが、それ以外の大学の専任講師職はどこか引っかかるだろうというくらいの業績にはなる。実際に知り合いで、PhDの間にEJIRに単著論文1本を載せ、修了と同時にロンドン近郊の大学の専任講師になった人がいる。まあ自分でそんなことを言っていても仕方ないのだが、相場感を分かってくれる人がどうも日本には少ないのでこんなところでアピールしてみる。

査読が長い

しかし今回の出版経験で辟易したのは、査読にかかる時間の長さであった。この論文は幸いにして最初に投稿した雑誌にアクセプトされたのだが、投稿したのは2021年の8月である。つまり出してからオンライン掲載されるまで1年3ヶ月かかっている。8月に投稿してから2ヶ月経ってもステータスが「査読者選定中」のままで、業を煮やしてmanaging editorにメールしてみたら、1人は既にレビューを提出したのだが、2人目が途中で断ってきたので代わりを探しているとのことで、結局4ヶ月かかった。そこから3ヶ月で原稿を再提出して、今度はすぐに結果が出るかと思ったら、またそこから4ヶ月も待たされた。それも何度かmanaging editorに問い合わせをしてせっついてもらった結果である。この人は毎回すぐに返事をくれて、嫌がらずにリマインドなどもしてくれたのだが、担当のエディターが問題で、この人がレビューが出揃ってもずっと仕事をせず、なかなか結果が出なかった。ようやく結果が来たと思ったら、査読者自身もそこまでこだわっていないような些細なコメントがまだ残っているからといって、conditional acceptanceではなくminor revisionにされて、そこからまた3ヶ月ほどかかった。どうせ査読者のコメントをそのまま横流しするだけなのに何ヶ月も仕事を止めるなら、なぜ義務でもないエディターの仕事をするのだろうと苛立ってしまう日々だった。

特に就職がかかっている若手研究者の場合、査読の遅れはキャリアを左右しうる重大な問題である。コロナになってから、ジャーナルはどこも査読者の確保に苦労していると言われており、査読にかかる時間は全体的に延びる傾向にある。同じレベルの研究でも、どのタイミングで業績が出るかは運の要素が非常に強く、それによって就職も左右されるわけだから、アカデミアにおける成功も失敗も、随分と相対化して見なければならないと思った。

「この道しかない」ことはない

EJIRが日本ではあまり認知されていないという話をしたが、日本では、「海外の研究」とか「世界水準の研究」などという話が展開されるときには、どうもアメリカばかりを参照した話がなされがちである。これは国際関係論においては「北米」ですらなくて、というのもカナダではトロント・マギル・ブリティッシュコロンビアといった超有名校以外では、アメリカよりもむしろヨーロッパに近いタイプの研究が行われているからである。確かに学界に占めるアメリカの比重は他国より大きいし、彼の地における動向に気を配っていることは重要ではあるのだが、間違ってもすべてをアメリカに還元できるほど大きなものではない。「世界=アメリカ」という発想は当然のごとくアメリカ経験者から出て来がちであり、私の意見ももちろんヨーロッパ経験者のポジショントークという側面はあるわけだが、違いは前者が必ずしもそれ以外の地域で行われていることに通じていない(知る必要性を感じていない)のに対して、後者は「メインストリーム」としてのアメリカでの動向を一応は踏まえた上で、それにプラスしてヨーロッパや他地域の動向を把握しているということだろう。

良くも悪くも、「第一」の国以外にベースを置く者は、そこを見据えた上でそことの距離を測っていかざるを得ないわけであるので、そうした立場にいる人間は、「自分の周りで起きていることが世界を代表するもので、それが遍く世界の標準であるべきである」という発想にはたどり着きにくい。「そういう世界もあります」と「それが世界です」は全然違うのだ。今他でもないヨーロッパで、国際関係論におけるヨーロッパ中心主義に対する見直しが進んでおり、非西洋/グローバル国際関係論が盛り上がっているのも、やはり少なくとも学界において、自分たちの帝国主義的発想を見直さざるを得ない立場に置かれているからではないだろうか。そう考えると、没落するのも悪いことではないのかもしれない。

もちろん世界にはアメリカとヨーロッパしかないわけではなくて、これからはもっと他地域からも独自の研究潮流が出てくればいいなと思う(なかなかまだ難しいようではあるが)。日本の歴史や地域に根ざした「伝統的な」国際関係論コミュニティは、アメリカよりむしろヨーロッパと親和性が高いのではないかと私は思うのだが、ヨーロッパに留学する人もあまり多くないので、情報が伝わらないのか、身の回りに同志はあまり見つけられておらず、この辺が最近の悩み(というほどでもないが)である。まあ別にこれはどちらかと繋がらなくてはならないという話では全然なくて、もしどこかと学び合うとすれるならば、ヨーロッパで行われていることは私たちの参考にもなるのではないか、さしあたり彼らのフォーマットを利用すれば英語で研究も出しやすいのではないか、という程度のことである。

政治学や国際関係論では、どういうわけかその人の立場にかかわらず、英語で書くことと量的手法を用いること、そして査読論文至上主義が不可分とみなされがちなようである。そこでは英語で研究を発表するということが、すなわちアメリカに行って最新の手法を身に着けて査読付き論文に専念するということと半ばイコールにされている。それに肯定的な人も否定的な人も、そういう前提をなぜか共有しているように見える。しかしそうすると、学術論文は英語をメインに書きたいがアプローチは質的・歴史的、日本語で学術書や一般書も書きたいという私のような人間はどこに居場所を見つければよいのかよくわからない。

でも実際には、英語で書くということは、特定のアプローチや媒体を選択することと全然同義ではない。質的な研究を多くの研究者がリスペクトする媒体に掲載することは、わざわざ言うのもバカらしいほどありふれており、いやでもトップジャーナルには載っていないと言うならば、それはその人のトップジャーナルの定義が狭すぎるか、見ている範囲が違うのである。例えば私のいる領域の研究者は、American Political Science Reviewを自分の学問分野のトップジャーナルとは思っていない*2が、Review of International Studiesはトップジャーナルだと思っている。いやでもそういう方向性では就職できないと言うならば、見る国を変えれば全然そんなことはないことは上記の通りだし、APSRを読んでいないなら政治学者ではないと言うならば(さすがにそんな人はいないだろうけど)、そんな了見の狭い学問はこっちから願い下げだが、まあ言ってしまえばイギリス・ヨーロッパなどでは政治学と国際関係論は、関連のある別の学問という程度なので実際に私は政治学者ではないのかもしれない。

要するに、私はみんなやりたいようにやればよいのでは、と思う。私も普通の人間なので、人の研究がつまらないと内心思うことは正直あるが、別にそれを当人に言う必要はない。英語で書けば読者は増えるよな、とは思うが、日本語で書かないとアプローチできない読者層だっているのだろう。何事も、diversity and inclusionが大事だ。マナー講師じゃないのだから、他人の家に入っていって生活指導をする必要はないだろう(マナー講師もそんなことはしないか・・・)。

例えば上記のような「メインストリーム」の方向性を志して、アメリカでやっていきたいという人がいれば、それはもう go for it 以外の言葉が浮かばない。そういう方面でお手本になる人は既にたくさんいらっしゃるし、発信も多くされているので、情報には困らない状況が既にできているだろう。だけど私が個人的に最近危惧しているのは、留学したいし英語で研究もしたいが、アプローチは質的・歴史的というような学生が、自分には日本に留まるのか、アメリカに行ってバリバリAPSR的な研究をやるのかの二択しかないと思ってしまうのではないかということである。実際には「第三の道」があるにもかかわらず。

質的研究、歴史研究、地域研究をやって、英語でハイレベルな媒体に研究を発表することは当たり前に可能であり、そういう人は既に結構たくさんいる。こうした研究を志向して留学したいと思う院生や学部生が、自分を曲げなければいけないと思い込まないように、今後私自身が、周囲とも協力しながら「こういう道『も』あるよ」という「布教活動」をしていかなければいけないのかな、と思っている。自分も日本で修士をやっていた頃は、周りの人とやっていること、やりたいことが違いすぎて「本当にこれでいいのかな」と思い続けていた記憶がある。なので、これから微力ながら、私が進んでいる(途上の)道について、できる範囲で「道案内」をしたいと思う。まあ結局は、他人が何をやっていようと自分はこれをやる、というくらいの頑固さとこだわりが必要、という話になるのかもしれないが。私も別に自分がやっているようなことをみんながやるべき、とは全然思っていなくて、というか人と違うことをやるのが好きなので、みんながやり出したら興味を失ってしまうかもしれない。来る者拒まず去る者追わず、mind your own businessでいきたい。

12月に入ってから、どんどん寒くなってきた。今夜は鍋にしようと思う。

 

*1:International SecurityはIR全体を扱っている雑誌ではないのでここには入れていない。

*2:私も長らく読んでもいなかったが、少し前に編集チームが変わってから、色々な意味で多様性を重視するという方針になり、実際に質的研究で出版される例も出てきたので、多少読むようにはなった。