紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

Opportunities

そろそろ将来を見据えてこちらでも研究会・学会発表をしようと思ってアンテナを張っていたのだが、日々色んなところから流れてくるメールを丹念に読んでいるとそこら中で色んな機会があることが分かった。ここにそれを書いたところで誰の得になるわけでもないとは思うのだが、こっちではこういうものがありますよ、という程度で最近見つけた自分に関係するものを列挙してみる。しかし情報収集は本当に大事だと思わされる毎日だ。

夢のない時代に生きている(?)

こっちで友人と話す時によく聞かれることの1つに、Ph.Dを取ったら日本に帰るのか?」というものがある。これを聞かれるたびに、うーん、と答えに窮してしまう。

海外でPh.Dを取ろうと思ったのは、英語で研究を発表して世界に読者を持てるようになるという目標のためにはそうすることが望ましい(という現状自体憂うべきことかもしれないが)、という理由が第一ではあるが、他にも幾つか理由があって、そのうちの1つは、「日本以外の就職市場にアクセスできるようにしたい」というものである。少なくとも政治学の場合、日本の大学でPh.Dを取得すると、日本以外の国で研究者としての職を求めるのは極めて困難になる。ポスドクなどの任期付きの職や海外学振での客員研究員としての滞在などは可能だろうが、海外の大学等の研究機関で、常勤の職を得るのは難しい、という意味である。その点、英語圏の大学、特にアメリカやイギリスといった国々で博士号を取れば、アクセスできる就職市場の範囲が飛躍的に広がる(と思う)。もちろん、最終的には研究実績が一番であるので、日本にいても積極的に英語で論文を発表していればチャンスはあるだろうし、海外にいても鳴かず飛ばずではどこにも就職できないだろう。つまり可能性の問題であるが、自分の選択肢を可能な限り増やしておきたいというのが、私の考えであった。

可能性を広げるなどと言わなくても、日本の就職市場で十分じゃないか、と言われるかもしれない。でも、正直に言って、日本の学問をめぐる環境が、今後今より良くなると信じられる状況にはないのだ。むしろ、周りの研究者の話を聞く限り、予算は縮小し、ポストも減少し、その結果として学問の水準はいずれ下がっていくのではないか、そして事務的負担は増え、研究環境は今後悪化の一途を辿っていくのではないかという不安を、日本で研究職についている人、あるいはそれを目指している人ならほとんど誰もが抱えていると思う。もしかしたら私の周りが悲観的なだけかもしれないし、予想を良い意味で裏切って日本経済は好転し、研究に充てられる予算も増え、環境も向上する未来が待っているのかもしれない。しかし、それは一種の賭けであって、それも負ける可能性のほうが高いと思われるような賭けである。少なくとも、リスクヘッジをすることなく決断できるような、選択肢ではない。

とはいっても、私は日本から一刻も早く出たいと思って出てきたわけでは全くない。その点は誤解されたくない。むしろ、日本のことは大好きで、東京ほど刺激にあふれていて退屈しない都市は知らないし、また実家のある奈良ののどかで落ち着いた雰囲気をとても気に入っている。少なくとも今のところ、自分にとってはやはり、日本で暮らすということが一番しっくりと来るように思う。日本の政治学も、多様なアプローチと多様なテーマが共存していて、寛容さと豊かな蓄積があると思う。状況が許せば、いずれは日本で研究職を得たいと思っている。その点、例えば留学先の研究環境が大好きで、そこが最上だと考えていて、可能ならばずっとそこに残りたい、と考えている留学生と自分の間には大きな隔たりがある。

だからこそ、思うのだ。今後自国は発展し、研究においてもどんどんと成長していく、そして自分はその波に乗って貢献するんだと自信を持って言えればどんなに良いことか。右肩上がりの将来に胸躍らせることができればどれほど幸せかと。自分が一番馴染める場所が、自分が一番必要とされ、自分の能力を一番発揮できる場所と重なっていれば、わざわざその他の選択肢について考える必要もないのにと。成長の最中にある国々から来ている留学生を見ると、少しだけ羨ましくなる。もちろん、彼らには彼らの悩みがあるだろうことはわかっているし、「発展途上」国でありながら発展の途上にはなく、将来に希望を見出だすことができない国々の人たちもいるに違いないのだが。

文句を言っていないで、日本の状況を変える努力をすれば良いじゃないかと言われたら、その通りだ。私は昔から留学が何かを成し遂げるために必須である状況はあまり望ましくないと思っていて、自国で事足りるが「オプション」として経験のために留学に行く、という状況が理想だと考えてきた。昔(もう6年近く前だ…!)学部生の時に書いた論文には、アジア各国の協力によって北米やヨーロッパに負けない学問中心地を構築すべきだ、というようなことを書いていたことを覚えている。今だってそう考えている。自己否定するようなことを言うが、「最先端」の研究をするために世界中の誰もがアメリカ(やイギリス)に行くような状況は、少なくとも自分の価値観ではどう考えてもいびつで、気持ち悪い。それを変えたいし、変えるために何かしたいと思っている。

ただ私が時々思うのは、これが20年、30年前だったら、もっと無条件に、自分と自国との関係についてポジティブに考えられただろうに、ということだ。もちろん昔より今の方が良いことは沢山有るのだが、今より5年後、5年後より10年後の方が良くなると単純には考えられない時代に生まれたことを不運だと思ってしまう自分がいることは、否定できない。

まあ、結論としては、そんなことを嘆いても(嘆いているだけでは)何の得にもならないので、現状をポジティブに解釈して生きていくしかないのだろう。例えばこの前アルメニア人の友達とそういう話をしていた時に、「自分の国に問題があるということは、解決すべき課題があるということだからむしろチャレンジングなんじゃない?」と言われて、なるほどそういう考え方もあるのかと思った。

結局こんなことを言っていてもすんなり日本に帰るかもしれないし、逆に日本のことなど忘れてどこかの国で楽しく暮らしているかもしれない。ただ少なくとも今の自分は、こんなことを考えて毎日を過ごしていたりする、ということだ。

 

タイトルの再変更について

このブログのタイトル、今は主題が「紅茶の味噌煮込み」、副題が「オックスフォード留学記」となっていて、始めた当初もそうだったのだが、実は少しの間逆にしていた。

というのも、元々の(つまり今の)タイトルだと、「オックスフォード ブログ」などで検索してもこのブログが出てこないという指摘を受けたのだ。仕組みはよくわからないが、どうも検索サイトに引っかかるにはブログのタイトルが重要なようである。オックスフォード留学記を標榜しておきながらオックスフォードという検索ワードでは引っかからないというのは盲点であった。

それでしばらく、「オックスフォード」を入れた名前をタイトルにしていたわけだが、どうも気に入らない。「◯◯留学記」などというタイトルはいかにもありきたりで工夫がない感じがするし、別にオックスフォードの留学生活だけを書きたいというわけでもない。そもそも最初の動機は大学院留学出願の記録を残すということであって、オックスフォードに限定された話ではないのである。今後しばらくは「オックスフォード留学記」になるはずだが、その後はオックスフォード以外の生活を書くようになると予想されるため、オックスフォードは副題ぐらいがちょうどいいと思った。

それに、「紅茶の味噌煮込み」という奇天烈なタイトルは、全く無意味なわけでもなくて、紅茶というイギリスの象徴(?)と味噌という日本の象徴(?)がごちゃまぜになっているイメージを自分に重ね合わせて付けたタイトルで、珍奇さをそれなりに気に入っている。ちなみにもし次何かを書くとしたら今度は「キャベツの遠吠え」というタイトルにしようと思っている。こっちは完全に無意味で語感と滑稽さで考えただけ。

というわけで、検索エンジン対策などはしないことにした。小細工はせずに思うさまに書くのである。オックスフォードに関する記事が増えればそのうちおそらく引っかかるようになるんじゃないだろうか。逆に自分のことを知らないでこのブログに偶然たどり着いたという人がいればどうやって行き着いたのか知りたいものである。 

 

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サンシャイン水族館のペンギンたちの圧倒的支持を得てタイトルの再変更が決定された。写真は当日の議場の様子。



 

今学期の授業(HT 2018)

オックスフォード生活の2学期目も初週が終わり、大体今学期のリズムが見えてきた。今学期履修している授業は以下の通りである。

  • Research Design and Approaches to Research in International Relations

DPhilとMPhil合同の必修授業。Andrew HurrellというオックスフォードIRのボスのような先生が中心となり、毎回色んな先生がオムニバス的にIRにおける様々な研究アプローチを概観していくというもの。構成は、Week 1: Approaches to the Study of International Orders, Week 2: Intellectual history in IR and critical theoretical approaches to the study of discourse, Week 3: Studying Ideas and Ideology in International Relations, Week 4: International Normative Theory and Ethics, Week 5: Models, Simple Game Theory, Week 6: Applications of Rationalist Approaches, Week 7: International History and International Relations, Week 8: Global History and Global Historical Research in International Relations、となっている。米英でコースワークをしたことがないのでよくわからないが、批判理論とか規範理論にそれぞれ一回分をあてがうなど、アメリカで標準的に教えられるような内容とは大きく異なるのではないだろうか。

浅薄な知識ながら、IRには伝統的な理論系の研究、政策系の研究、そしてpolitical scienceの一部としての実証的な研究の3パターンが大きくあると思っていて(もちろんそんなにきれいには分かれないが)、3つ目はその中でまた質的研究と量的研究でかなりやっていることも違うと思うが、オックスフォードのIRの先生はこの3つの中だと1つ目の人が上の方にいるなという感じは今のところしている。私の学部はDepartment of Politics and International Relationsと言い、政治学と国際関係論に分かれているのだが、政治学の方はIRよりもよりアメリカ式のquantitativeなpolitical scienceの色が強く(political theoryを除く)、それに対してIRはもう少し多元化しているように思われる。ちなみにHurrell先生の指導教員はあのヘドリー・ブルだったらしい。

なお、MPhilの人が通年で受けるcore courseというのがあるのだが、そのシラバスを見ていたらかなり網羅的でリーディングも多く、これを全部やったらかなりIR全体の知識が付くな、と思った。オックスフォード意外とやるじゃんと少し見直した。自分は結局体系的にIRのコースワークをせずに博士まで来ているので、(あまりやりたくはないけど)やっといた方が良かったのかな、とも思う。

  • Qualitative Methods

IRのDPhilは、先学期はIntroduction to StatisticsかIntermediate Statisticsのどちらかが必修だったが、今学期は3つのメソドロジーの授業(Formal Analysis, Causal Inference, Qualitative Methods)から1つを選んで履修する必要がある。私は先学期はIntermediate Statisticsを履修して、今学期はQualitative Methodsを履修することにしている。多分この組み合わせは珍しく、というのは同期でIntermediateを取っていた人はほとんどCausal InferenceかFormal Analysisの方に行っていて、Qualitativeにいる人はだいたい先学期はIntroを取っていた人なのである。自分は統計の入門授業はさすがに何度も受けたので中級を選択したが、本来質的研究、特に比較歴史分析に主要なアイデンティティがある(かといって最初からそれに限定している、というわけではなく、自分の関心に沿って研究テーマを選ぶとメソッドはそういう風になる、ということである)ので、Qualitativeを取った。Ezequiel Gonzalez Ocantosという、若手の先生が教えている。

しかし考えてみれば、自分が今まで東大やトロントで履修したメソドロジー系の授業は、東大学部の基礎統計と統計学トロント統計学とデータ分析、オックスフォードでの統計分析など、ことごとく量的方法論の授業で、質的研究法を授業で学んだことは一度もなかった。

そもそも質的方法論の授業の数と量的方法論の授業の数を比べると圧倒的に後者が多い。東大にもトロントにも、質的方法論の授業というのはなかったように思う(全体的な「政治学方法論」みたいな授業はあったが)。 また、一般的に「方法論」に関心を持つ人は量的方法論に関心を持つ人がほとんどで、質的研究をやる人の中で方法論自体に格別の関心を抱いている人は少数派だろうと思われる。質的方法論の授業というのは具体的な分析手法とかソフトウェアの動かし方を教えるのではなく、どちらかというと研究の背後にある「考え方」など、より抽象的で哲学的なことを教えることが多い(QCAなどは除く)が、いかにもcutting-edgeでカッコいいように見える量的方法論と比べると、かなり地味で、そのまま即応用できるようなものでもない。さらには質的方法論なんて勉強しなくても普通に研究できるでしょと軽く考えている人が多かったりして、結局あまり重視されていないようにも思う。

自分は最近、質的研究をするだけではなく質的方法論自体にもそれなりに関心を持つようになってきたこともあり、今回この授業を取ることにした。しかしシラバスを見ていると参考文献にJames MahoneyとかJason Seawrightとか、ノースウェスタンの先生が頻出しており、やはりノースウェスタンはこの分野では有名なんだなと改めて気付かされ、「あり得た自分」に思いを馳せることがある。

  • Causal Inference

本来履修しないといけないのは上記の2つだけなのだが、私はもう1つcausal inferenceの授業を聴講している。これが最近のトレンドというか、10年前にはこのような授業はなかっただろうと思われる。要するに従来の統計モデルにとにかくデータと変数を放り込んでしまう方法ではなく、counterfactualの考え方を用いて因果効果を定義し、より厳密な形でデザイン上の工夫をこらして因果効果の推定を行おうという方向性だと理解しているが、因果効果に関する考え方は納得できることが多く、参考になるので授業には毎週出ている。自分の東大での知り合い(院生・先生)が量的方法論に関心が強い人が多く、その繋がりでこの授業を教えているAndy Eggers先生は前から名前を知っていた。

 

銃・病原菌・桐灰

望むと望まざるとに関わらず、関西出身者が東京に出るということには様々な結果が伴う。「方言残ってるね」と言う関東人に、関西弁は方言ではないという当然の事実を理解させなければならないし、全ての関西人がお笑い芸人ではないという彼らにとって驚きの新事実を発表してやらねばならないし、全般的な味付けは濃いのにコンビニのおでんだけはなぜか薄味という矛盾にも耐えなければならない。大阪出身者はさらに、ことさらに京都を持ち上げその対比として大阪を馬鹿にする関東人の前近代的な幻想を修正し、京都弁なるものを操る高貴な京都人などという人種は物語の中にしかいないことを納得させる必要にも迫られる。そうやって苦労して現地人の生活に適応すると、今度は関西にいる係累に関西弁が変になっただの、お前は東京に魂を売っただの、通天閣にも上っていないのに東京タワーに行きやがってだの、綾小路きみまろって誰だだの言われることになる。

大阪に生まれ大学進学を機に東京に出て6年半、私もこうした行き違いを何度も経験してきた。「アホか」といっては傷つかれ、「バカじゃないの」と言われてはむっとし、「それいらんからほっといて」と言っては放っておかれ、「それ使わんからなおしといて」と言っては「故障してるの?」と聞かれ、「片しときますね」と言われては「肩がどうした?」と尋ね、「ほぼほぼ」という言葉に強烈な違和感を覚えてきた。ほぼは一個でも二個でもほぼであり、従ってほぼの2個目以降の限界効用はゼロである。

とまあこういったこと極めて有意義なことを普段から極めて論理的かつ理性的に分析しているわけだが、先日Facebookを眺めていてある人(関東人)の投稿にこんな言葉を見つけた。

「ホッカイロつけてたんだけど寒かった!」

ホッカイロって何だ??

いや、正確に言えばホッカイロというものが存在しているのは知っている。しかし特定の商品名であるカイロの代名詞のようにそれを使用することはないし(クロネコヤマトの商標である宅急便を一般名詞である「宅配便」の代わりに使うという宅急便方式)、そもそもホッカイロなるものを人生で使用したことがない。なぜわざわざホッカイロをつけていたことをこの人は強調するのだろうか。ホッカイロの回し者か?サブリミナル効果狙いか?などと疑われて警察に職務質問を受けても文句は言えまい。

こういう風に言うと、関東の方々はこう思うかもしれない。

「ああ、この人はホカロンを使うのね。」

ホカロンって何だ??

いや、正確に言えばホカロンというものが存在しているのは知っている。しかし特定の商品名であるカイロの代名詞のようにそれを使用することはないし(クロネコヤマトの商標である宅急便を一般名詞である「宅配便」の代わりに使うという宅急便方式)、そもそもホカロンなるものを人生で使用したことがない。なぜわざわざホカロンをつけていたことをこの人は強調するのだろうか。ホカロンの回し者か?サブリミナル効果狙いか?などと疑われて警察に職務質問を受けても文句は言えまい。

ではホッカイロもホカロンも使わない関西人は何を使うのかというと、桐灰のカイロである。これかこれ。

http://www.kiribai.co.jp/img/brand/har1609_top.jpg

http://www.kiribai.co.jp/img/brand/nhw1609_top.jpg

桐灰というのは会社の名前で、後者の商品名はどうやらNew Hand Warmerというらしいが、そんな名前は誰も知らない。知っているのは「桐灰」という名前と、貼るのか貼らないのかという二択だけ。現に前者は商品名も「桐灰はる」のようだ。潔い。

桐灰とホッカイロやらホカロンやらの性能がどっちが良いとかそんなことは知らないし私が考えることでもない。別にどっちが良いとかいう話をしたいわけではないのだ。どちらも鉄であることだけは確かである。要するに言いたいのは・・・いや特に言いたいこともない。東京一極集中が問題となり、グローバル化が進行する今日においても、カイロにおいてさえも天下統一は成し遂げられておらず、地域間の差異がこんなにも残っているというのは面白い。 そういえばこの前飛行機で読んだ椎名誠のエッセイにも、東西の文化的断絶がどうのこうのと面白おかしく書いてあった。

いっぽん海まっぷたつ (角川文庫)

いっぽん海まっぷたつ (角川文庫)

 

それを踏まえずに東京スタンダードを当然として関西に迂闊に立ち入ると、全身に「桐灰はる」を貼られて葬られても仕方ないのであり、もしかすると逆に、関西人が銃と病原菌と桐灰によって関東を征服する日が来るかもしれないのである。

何でこんな話をそもそもしたのかというと、オックスフォードは寒いからカイロを持っていこうと思い立ったのと、最近スターウォーズの最新作を観たからである。これでこの雑な記事は終わりである。