紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

敏感な言葉

もう2年ほど前になるだろうか、こんなことがあった。一時帰国の際に仲の良い友人数人で、そのうちの1人の家で飲んでいた。色んな話をした。互いの近況から始まって、結局は20代後半らしく、最近誰が結婚したとか、お前はどうなの、みたいなありきたりな話に収束していくような、そんないつも通りの標準的な会だった。

違ったのは、その和やかな会の中で、実は傷ついていた人がいた、ということである。飲み会が行われた数日後、その場にいた1人が、飲み会の場でのもう1人の発言にショックを受けていた、ということを聞いた。あまり具体的に書くのもどうかと思うので書かないが、2人は共に自分の大好きな後輩で、その2人同士も普段は仲が良い。件の発言は彼が彼女に向けて言ったことではなく、別の友人が話していた内容について特に意識せずふと漏らしたコメント、というようなものであったと思う。

自分はといえば、その発言を聞いたとき、事実誤認があることは一応指摘したのだが、それ以上気に留めていたわけではなく、その後彼女がそれにショックを受けた、というのを聞いて初めて思い出した程度であった。しかしそれを聞くと、確かに自分が彼女の立場であったらショックを受けて当然だな、とも思えるのである。

このことから何を思ったかというと、人にはそれぞれ言われると見過ごせない「敏感な言葉」というのがあって、それはしばしば他人には察知できないこともあるということである。もちろん人を傷つけうる発言はそもそもされるべきではないのだが、それがされた時、ある場合には他の場合よりも強い反応を引き起こすことになる。

例えば、私の場合は、「社会人」と「学生」という区分をつけられることがこれに当たる。会社員の友人と会った時によく、「まだ学生だし◯◯だよね」みたいなことを言われる。これを言われる度に、顔には出さないが私は相当イラッとくる。これが嫌いなのは、その発言の裏に、「自分が既に卒業したカテゴリに相手は今もいる」という優越感のちらついた認識が、かすかに透けて見えるからだ。しかし実際には、相手は私が経験した修士課程も博士課程も経験していないわけで、また多くの「社会人」がしがみつきたがる「働いて収入を得ている」という点も、博士課程の研究者なら多くの人間はクリアしているのだから、結局そのような区別をされるいわれは全然無いわけである。なお、博士課程を修了した研究者から、「院生と教員」という区別をされるのは別になんとも思わないし、「社会人」と対置されない「学生」という言葉自体には特に違和感もない。そもそも、各言語に「労働者」に当たる言葉はあるはずだが、「社会人」という概念は、日本独特のものではないだろうか。

まあ、いずれにしても、これを言っている人には、おそらく悪気はないのだろう。それはわかっている。上でも述べたように、「敏感な言葉」は、他人にはなかなかわからないものなのだ。私がこの言葉を簡単に流せないのは、やはり社会における院生の扱いに対して抱いてきた複雑な感情があるからであって、それは同じ立場ではない人には窺い知れないものなのだろう。しかし、だからといってそれを言うことが正当化されるわけではないのだから、我々は一度踏んだ地雷の場所は記憶し、避けて通るべきだろうと思う。そんなことを考えていた。

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ペンギンにとって最も敏感な言葉が「飛ぶ」であることは、言うまでもない。