紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

「エスニック料理」とは何だ

飲み会続きの毎日である。今日は朝から(!)大学時代のサークルの友人たちとバーベキューをしてその後ランチで高校の同級生たちとタイ料理を食べ、その前は大学のクラスの友人たちと和食の居酒屋で飲み、さらにその前は東京にいるオックスフォードの友人で集まって沖縄料理屋で飲み、またその前はスカッシュをした後にイタリアンに行き、またまたその前は焼肉、ワインバー、その他諸々と、一時帰国中は連日何かしらの予定が入っている。まあありがたいことである。

さて、こうして人と飲みに行くときに、何を食べるか、どのような店を選択するかという問題は、言うまでもなく死活的に重要である。その選択如何によって、話が弾み笑顔が飛び交い、人類みな兄弟、心の友よ、といった言葉が交わされる至福の空間が生み出されることもあれば、皿が飛び交い料理が床に弾み、お前なんか顔も見たくない、英語交じりの日本語を使うな、これだから紅茶を味噌で煮込むようなやつに店を選ばせたらダメなんだ、しょうもない記事ばっかり書きやがって、などという罵詈雑言が浴びせかけられる凄惨な飲み会が展開される可能性もあるのだ。

そういうことを考えていたときに、これは今回の一時帰国の話ではないのだが、以前こうした店選びの文脈で友人から発せられた言葉に引っかかるものがあったことを最近思い出した。何かというと、エスニック料理」(あるいは「エスニックフード」)という表現である。

エスニック料理とは何か。「エスニック」とは英語のethnicのことであろうから、つまり直訳すれば「民族料理」となり、従ってありとあらゆる民族集団(民族とされるものも一様ではないとか、そもそも民族なるもの自体がsocially constructedなのだという議論は真っ当だがとりあえず脇に置いて)の料理がすなわち「エスニック料理」であるということになる。しかし、実際にはそういう風にこの語は運用されていない。フランス料理をエスニック料理と呼ぶ人を目にしたことはないし、中華料理に対しても使用されている印象はない。それでは一体何がエスニック料理で、何がエスニック料理ではないのだろうか。その謎を解き明かすため、取材班は現地へと向かった。

綿密な現地取材によって得られた情報(i.e. 適当にネット検索した結果)によると、「デジタル大辞泉」にはエスニック料理の定義として、「民族料理。特に、アジア・アフリカの料理のこと。」とあり、もう少し詳しい説明を載せている百科事典マイペディアでは、以下のように説明されている。

エスニックethnicは〈民族の〉という意味であるが,日本でエスニック料理という場合は,インドネシア,タイなど東南アジアの料理や,インド,西アジア,中近東といった地域の料理をさすことが多い。日本の料理とは異質な,そして従来から知られている中国や朝鮮などの外国料理とも違うエキゾチックな味や雰囲気を楽しみたいという人が増えて,近年,そうした国々の料理を専門とするレストランが多くなっている。

まあ要するに、外国料理のうち、香辛料を使っていたりする、一般的な日本人には馴染みがないような料理のことをぼんやりと呼ぶ言葉だということになるだろう。やはり思ったとおり、エスニック料理という言葉は全ての民族集団の料理を含む形では運用されていないのだ。そこにはフランス料理、イタリア料理といった西洋の料理は含まれず、また中国・韓国といった近隣の国々の料理も入っていないようである。ロシア料理なんかは微妙なところかもしれないと想像する。

つまり、「エスニック料理」という言葉は、字義通りに解釈した意味と、実際に使用される意味が異なっている、より具体的には、前者の中の一部が後者である、ということになる。私が気になるというか、この言葉に違和感を覚えるのは、このエスニック料理という言葉の使い方が、私たちの対外認識と重なっているような気がするからだ。つまり、「エスニック料理」という呼び方は、個々の差異を無視した(メキシコ料理とタイ料理の違いは、フランス料理とイタリア料理の違いよりも小さいのだろうか?)ある種乱暴な呼称で、しかも「何だか異質な、よく分からない、ちょっとこわごわ興味本位で冷やかしながら食べてみるようなもの」という印象が付きまとう。そうした印象がない、純粋にその料理を愛していて深く理解したいと言うのなら、タイ料理、インドネシア料理、ブラジル料理といった個々の名前で呼べばいいわけで、「エスニック料理」というような曖昧模糊とした変な言葉を使う必要はないはずだ。少なくとも私の感覚では(そして恐らく多くの人々の感覚とも離れてはいないと思う)、エスニック料理」という言葉には、(もちろんほとんどの人は意識していないにせよ)そのカテゴリに入れられる文化に対する、一種の軽侮があり、俗な言い方をすればそれを「下に見ている」という側面があるように思われる。だから気持ち悪いのだ。西洋も我々にとっては本来大いに異質であるはずなのにも関わらず、それは一つ一つ区別して、場合によっては「高級」イメージを付けたりしながら、他方で他のいわゆる「第三世界」の国々の文化は大雑把にまとめて軽く扱ってしまう、そうした心性がこの言葉にはうかがえる。

ところで、「エスニック」という言葉は直接的には英語からの輸入だと思われるが、英語でも "ethnic food / cuisine" という表現は使用されるのだろうか。試しにまた適当にGoogleで検索してみたところ、単にethnic foodと検索した場合は約 202,000,000 件、ダブルクォーテーションマークで囲んで検索した場合には約 4,300,000 件の結果が出てくることから、少なくとも日本語の「エスニック料理」(約 23,800,000 件/約 3,190,000 件)に匹敵する一般的な表現ではあるようだ(日本語の検索結果と英語の検索結果の母数がどれだけ違うのかはよく知らないのでこの数字にあまり意味はないのだが)。そして日本語と同じように、この言葉がどのように運用されているのかを調べようと思って情報を漁っていると、Washington Post紙のウェブサイトに面白い記事があった。

これはアメリカのニューヨーク大学のKrishnendu Rayという教員が書いたThe Ethnic Restaurateurという本に関するインタビュー記事らしいのだが、アメリカにおけるethnic foodの歴史とそれに対する認識について、面白いことが書いてある。

The word ethnic has this complex history of both trying to reflect changing relationships and understandings of culture and trying to avoid more taboo terms. It came into play mostly in the 1950s, and is most commonly used in the world of food to mark a certain kind of difference — difference of taste, difference of culture. But you will also see marketing absorb it as a less fraught term than race. You see it in aisles at stores, where products that are not for white people might be advertised as being for ethnic people. You see it in the grocery store. Food that isn't associated with whites will be called ethnic.

最後の太字部分に書いてあるように、アメリカ人にとっても、ethnic foodとは、マジョリティとしての白人にとって異質なものを意味するようである。ただ、何がethnic foodであるかの意味範囲は時代によって異なり、過去にethnic foodの代わりに使われていたforeign foodという言葉は、ドイツ料理やアイルランド料理に対しても使われていたという。さらに記事は続く。

When we call a food ethnic, we are signifying a difference but also a certain kind of inferiority. French cuisine has never been defined as ethnic. Japanese cuisine is not considered ethnic today. Those are examples of cuisines that are both foreign and prestigious. There is no inferiority associated with them.

上で我々が「エスニック料理」と言うとき、対象を下に見ているのではないかという話をしたが、ここでも同じようなことが書かれている。ethnicという言葉を付けるときは、劣等なものというイメージが付与され、それはフランス料理に対して使われたことはないし、日本料理は現在ではその意味範囲を脱しているが、他の多くのアジア・中南米・アフリカといった地域の料理には使用されるという。そして、その認識の違いは、アメリカ人が各料理に対して払う値段にも如実に反映されていて、 フランス料理や日本料理には数十ドルを払うのに、ethnic foodとみなしたものには10ドル程度しか払わない。

そうした差別化の背後には、他文化に対する理解の欠如や、自文化中心主義があり、人種差別的な要素も含まれ、それぞれの国から来る移民の社会経済的地位の違いなども関係しているとRayは述べている。結局のところ、日本でもアメリカでも、恐らくその他の多くの国でも、各国料理に対する見方はこうした文化的な「ヒエラルキー」を反映していて、また実はその構造は多くの場所で似たり寄ったりなのではないだろうか。別に「言葉狩り」をするつもりは毛頭ないし、多くの人は他意もなく使用しているわけだから、人がこうした言葉を使うことを一概に否定しようとは全く思わないが、個人的には、「エスニック料理」という言葉は使いたくないし、どうしても使うとすれば西洋料理にも、中華料理にも、全ての料理に対して使用したいものである。

「今日エスニック料理食べてくるよ。え?いや、フランス料理。」

 

一時帰国しました

帰国前後のバタバタで更新が遅れていた。イギリスからフィンランドヘルシンキに8月1日に飛び、そこで3泊して、4日の飛行機で日本に飛び、5日の朝に帰国した。成田空港内から一歩出ると、一瞬にして熱く湿った空気に全身を包まれ、日本の夏の底力をすぐに思い知らされた。

ところで、今回は一時帰国の帰路に、Finnairを使って中継地であるヘルシンキでストップオーバーする、という形で旅行をしたわけだが、この方法はなかなか使える。いちいちロンドンに戻ってからまた日本に飛ぶという二度手間をやらなくて済み、かつフィンランドからの方がイギリスからよりも日本に近いので帰りも楽だ。次回からも、別の航空会社を使って、その会社のハブ空港に数日滞在してから帰国する、というパターンで旅行をしてみたいと思う。エア・フランスとか、ルフトハンザとか、KLMとかあたりだろうか。ただ、私が行きたい国々は、こういう西ヨーロッパの国々よりも、バルト三国とか、クロアチアとかギリシャとか、あまり日本人にとってメジャーな旅行先でないところなので、そうした国々にはこのパターンでは行けないと思われる。

さらに、今回の旅での嬉しいサプライズは、帰りの飛行機が偶然ビジネスクラスにアップグレードされて、人生初のビジネスを堪能できたことだ。食事のクオリティは、ビジネスとは言っても所詮機内食だな、と偉そうにも思ってしまったが、足を伸ばせる、シートを水平にまで倒せる、そして隣や後ろを気にしなくていい、というだけでもう全く別世界であった。偶然でなくビジネスに乗れる身分になりたいものだ。

  

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港にあるマーケット

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スオメンリンナという島まで船で行く。

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大聖堂

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街並み

 

夏の終わりと始まり

今日からちょうど1週間前はTransfer of Statusという、博士論文計画のディフェンスだったのだが、この1週間はぼーっとしていたようであまりこれといった記憶もない。大した仕事をしていなかったのか、あるいは何かしていたが記憶を失っているだけなのか、どちらにしてもあまり良いものではないのである。だがまあそんなことはよい。

Transfer of Statusというのは、同じことを何度も書いている気がするが、博士課程の第一関門的なもので、2人の指導教員以外の教員が審査をし、面接でディフェンスしなければならない。極稀にしか落とされることはないのだが、やはりそれでも緊張する。しかし、審査員のAndrew Hurrell先生とLouise Fawcett先生は、どちらも自分の研究内容に関心を持ってくれ、好意的なコメントをくれた。面接も終始和やかな雰囲気で進んでよかった。それでも部屋を出たときは汗をかいていてちょっと頭がぼーっとしていたけど(どうやら自分はよくぼーっとしているようだ)。

Hurrell先生はオックスフォードのIRのボス的な存在で、Fawcett先生は学部長で正真正銘の「ボス」であるから、2人共シニア教員なわけだが、私の経験則ではシニアの先生の方が若い先生よりも優しいので、この2人を審査員に選んだ指導教員と自分の選択は間違っていなかったようだ(もちろん専門分野が近いというのが一番の理由だが)。

何にせよ、6月に年度が終わった後に1ヶ月オックスフォードに残っていた主な理由であるトランスファーが終わって、肩の荷が下りた。明後日にはヘルシンキ経由で東京に向かって出発することになる。

しかし、この1ヶ月は振り返ってみるとなかなか楽しかった。やはり夏だから気候は他の季節より良いし、特に今年はよく晴れて暖かかった(ちょっと暑すぎたくらいだ)。多くの友達は既に各々の国に帰ってしまっていたけれど、残っていた友達と毎日のように夜は出かけていたし、日中は学部のデスクで朝は博士論文関連の論文を読み、昼は投稿予定の論文を書く、という比較的規則正しい生活ができたので満足だ。特に、一緒に残っていた日本人の2人とはほとんど毎日のように会っていて、一緒に食事をしたりパンティングに行ったりテラスハウスを観たりしていて、この2人のおかげで今月はとても楽しかった(そして2人ともこのよく分からないブログを読んでくれている。笑)。

しかし、そのうちの1人は卒業して明日帰国してしまうし、自分も明後日オックスフォードを発つ。また、3週間ほど雨もふらずに太陽燦々だった天気が、先週から崩れ始め、最近は毎日曇っていて気温も下がってしまった(こちらが本来の天気なのだろうが)。そうした複数の要素が相まって、現在絶賛「夏の終わり」モードである。森山直太朗が脳内で連続再生されている。最近ジムに行くときに時々聞いているフジファブリックの曲に「茜色の夕日」というのがあって、その中の歌詞に「短い夏が終わったのに今子供の頃のさびしさがない」という部分があるのだが、今の私には子供の頃のさびしさがある。数日前に26歳になったが、少年の心を失っていないのだと好意的に解釈しておく。

だがよく考えてみれば、もうすぐ帰る日本は夏真っ盛りで、うんざりするような暑さが続いているはずだ。そしてこの先まだ「夏休み」(といっても、研究を志す人間にとって休みとは休みなようで休みでないものだということは繰り返し強調しておきたいが)は2ヶ月もあって、まだ3分の1しか終わっていないわけである。言ってみればこれから夏が始まるようなものだ。日本で食べたいものも行きたいところも会いたい人もやりたいことも沢山ある。そう考えれば楽しみだ!虫かごと虫網を持って野山を駆け巡った(想像上の)夏休みのウキウキ感が戻ってきた。

というようなとりとめのないことを書いていて、どこかでこの記事のタイトルを見たことがあるような気がして探してみたら、ほとんど同じようなタイトルの記事がネット空間に転がっていた。誰だか知らないが、どこかにセンスの良いやつがいるようだ。

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パンティングしてパブで休憩という最高の遊び。

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新しい友だちもできた。

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自然史博物館はちょっとしょぼい。

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「刑事モース」の撮影をやっていた。



ロンドンの一番長い日

昨日はロンドンに行ってきた。ロンドンはオックスフォードから電車で1時間ほどなのだが、オックスフォードという街は大きくない割に大抵の基本的なものは何でも揃うこともあって、この1年、留学前に予想していたほどには行かなかった。面白いのは、大阪という世界有数の巨大がちゃがちゃ都市に生まれ、東京という世界有数の巨大ごちゃごちゃ都市で6年も暮らしていたのに、ロンドンに行くと都会疲れするということである。別にロンドンが東京よりごった返しているとかいうことはないのだが、ロンドンからオックスフォードに帰ってくるとなぜかとても安心する。

昨日行った目的は、ロンドンにいる友達とランチをすることで、別の友達に教えてもらったソーホーの「Koya」といううどん屋に行ってきた。自分は日本食にそれほど強いこだわりがあるわけではないのだが、夏になってから冷たいうどんがどうしても食べたくなって、帰国したらまっさきに食べようと思っていた。しかしロンドンでフライングしてしまったのである。美味かった。

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生姜焼きなんちゃらうどん

うどんを食べたあとは中華街をぶらぶら歩いて、Sir John Soane's Museumという変な建築家の変なコレクションを集めた美術館に行って、その後バブルティーを飲みながら2時間ぐらいとりとめもない話をしていた。その友達は自分とは何のバックグラウンドも一致していないのだが、なぜか不思議と波長が合って、話題が尽きない。定期的に会いたくなる友達である。

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中華街のゲート。この街がどうやって形成されてきたのか、その歴史が気になる。

さてさて、問題はここから。ずいぶん長く話していたので、オックスフォード行きの電車が出るパディントン駅についたのが5時過ぎになってしまった。オックスフォード行きの電車を確認して改札を通ろうとすると、ゲートが開かない。一瞬戸惑った後、自分がやらかしてしまったことに気づいた。

私が買ったのはoff-peak return ticketで、ピーク時以外の電車にはどれでも乗れるというもの。しかし朝と夕方のピーク時には乗れない。で、5時台・6時台というのはまさにラッシュ時なのだ…

チケットオフィスに行って聞いてみると、ピーク時に乗るための追加料金は、新しいチケットを買うよりも高いらしい。なんじゃそれ。しかも、次のオフピーク電車は2時間後とのこと。万事休すと思われたが、もうすぐDidcot Parkwayという駅までのオフピーク電車があるので、余分に時間はかかるがそこから乗り換えればオックスフォードに行けるという。調べてみたら普通の倍の時間がかかるようだったが、背に腹は代えられない、それに乗ることにした。

電車は混雑していて、途中の駅まで30分ほど立っていなくてはいけなかった。1時間ほどでDidcot Parkwayに着いたのだが、そこでオックスフォード行きの電車を探していると、掲示板にプラットフォーム番号の代わりにBusと書いてある。意味がわからなくて係員に聞いてみると、今線路が工事中だかなんだかでバスで代替運行をしているという。何とかバス停を探して乗る。

30分ほどでオックスフォードに着いたが、ふと外を見るとどうも雲行きが怪しい。7月になってからほとんど毎日晴れていて、雨らしい雨は全然降っていなかったので、傘など持ってきていなかった。そもそもイギリスで傘が絶対必要になるような雨が降ることはあまりない。しかしみるみるうちに雨脚は強まり、バスを降りる時には日本のゲリラ豪雨並みの大雨になってしまった。

急いで雨宿りをして、どうやって帰るかを考えていると、もうすぐBanburyまでのバスが出る、とそのへんにいた係員が言っている。自分はBanbury roadの近くに住んでいるので、これは幸いと待ってバスに乗りこんだ。

しかし乗ってみて数秒後、ふととある疑惑が頭をよぎった。係員はBanburyとは言っていたが、一度もBanbury roadとは言わなかった。もしかしてこれはBanburyという道ではなく、Banburyというどこかの街へ行くバスではないのか…?急いで隣の人に聞いてみると、まさにその通りだという。Google mapで調べてみるとBanburyは35キロも先。バスはまだ発車していなかったので、急いで降り、辛くも難を逃れた。あぶない…

さてこれでバスで帰るというオプションはなくなってしまった。仕方なく、雨の中をずぶ濡れになりながら帰った。

友達に「みんなイギリスの電車ダメって言うけど俺はまだトラブルにあったことないんだよね」などと言っていた帰り道に、トラブル続きになってしまったわけだが、どういうわけかストレスは感じず、あー仕方ないなあ、という気持ちで対処できたのは、自分を褒めてあげたい。

 

「つまらない飲み会」をどう解釈するか

夏休みに入って大半の友人が帰国してしまい、またサマースクールに来ているキッズでカレッジが溢れかえっているためにカレッジからも足が遠のいているのだが、逆にその孤独を埋めるために最近はほとんど毎日夜はオックスフォードに残っている友人と食事をしている。

夏の間滞在しているアコモデーションの隣の部屋に、ケンブリッジで国際関係論の修士を取って来年度からMPP(Master of Public Policy)を始めるというドイツ人が引越してきたのだが、本業は医学生らしく、そちらの学位を終わらせるためにオックスフォードの病院で夏の間electiveなるもの(結局なんだかよく分からないが国外の機関で一定期間研修する、みたいなもの?)をやっている、というなかなか変わった経歴の持ち主である。

彼とは妙に気が合うのか、まだ会って1週間ぐらいしか経っていないが、一緒にテニスをしたり、私がカレッジの友達に紹介したり向こうがそのelective仲間に紹介してくれたりしてよく交流している。それで昨日もその仲間の飲み会に誘ってもらって顔を出したのだが、予想外にオックスフォード生活史上3本の指に入るつまらない飲み会になってしまった。

予想外というのは、2日前にもほぼ同じメンバーの飲み会に行っていて、そちらは楽しかったため、今回そんなふうになるとはまず思ってもみなかったということである。何がつまらなかったかというと、今回は2・3人前回と違う人が加わっていて、彼らが飲み会の場を支配してdrinking gameをやり始めたのである。勝手に一部でやってくれるなら良いが、全体でそれをやろうという流れになってしまい、お互いをあまり深く知らない遠慮からか誰もやめようとは言わず、結局大して盛り上がりもしない割に時間を食うだけのつまらない飲み会が出来上がってしまった。何がつまらないかというと、こういう形式になってしまうと話したい人と話したいときに話せなくなってしまうし、全体の「空気」みたいなものを勝手に作られるととても居心地が悪いのだ。

自分の勝手なやり方でグループ全体の会話を仕切ろうとする下らない人というのはどの国のどの集団にもいると思うが、ここ最近全然そういう場に行くことがなくて、drinking gameなどという自分が毛嫌いするものに自分が巻き込まれるなどという可能性が頭からすっかり抜け落ちていたので、少々衝撃を受けた。しかし考えてみれば、今までそういう居心地の悪い場は何度も、それこそ数え切れないほど経験しているのだ。大学の語学で分けられるクラスの飲み会はあまり好きではなかったし、あるサークルの1泊2日の新歓合宿があまりにつまらなくて1日目に適当な言い訳をして抜け出して帰ってきたこともあったし、わざわざ「セレクション」まで受けて入ったテニスサークルの顔合わせの飲み会があまりに合わなくてその後2度とサークルに顔を出さなかったこともあった。オックスフォードでも居心地の悪い場は最初の方に何回かあった。

それで昨夜、飲み会からやっと退散した帰り道に考えてみたのだ。「つまらない飲み会」というものをどう解釈すればよいのかを。まあ、というよりむしろ、自分がいたずらに無駄な時間を浪費してしまったという後悔を緩和するために、この無駄な時間に意味を見つけ出そうとしたのである。それすると、見つかったのである。だからわざわざブログに書いているのである。しかし考えてみれば自明のことのような気がする。

つまり、「つまらない飲み会」とは、「つまらなくない飲み会」へと到達するための通過点であり、その避けられない副産物/代償/コストなのである。特に新しい環境に入ったときには、まず周りの人間の中から上手くやっていける相手を見つけ出さなければいけない。そうすると必然的に、色々な場に出て、気が合う人を見つけ出す母集団を広げなければならないわけである。100人の知り合いの中から3人の気が合う人を見つけられる可能性は、10人の知り合いの中から3人の気が合う人を見つけられる可能性よりも格段に高い。私が上に挙げたつまらない場の事例はほとんどが、環境が変わった最初の時期に関するものであるが、別に周りの環境が変わったというわけではなくても、新しい人間関係を構築しようとする場合には一般に同じことである。

そうして色々な場に顔を出していると、必然的に何割かはつまらない、時間を無駄にしてしまったと感じるような場に出くわすことになる。しかし大抵の場合、それを経験しなければその先には到達できないのだと思う。「つまらない飲み会や人」に出遭ってしまう蓋然性とコストと、「つまらなくない飲み会や人」に出会える蓋然性とベネフィットをどのように評価するかは人によるだろうが、居心地の悪い場に出くわす可能性を嫌って新しい場を敬遠し続けると、居心地の良い場や人に出会える可能性も低くなってしまう。実際、昨日の飲み会は全体としてはつまらなかったが、隣人を含めて数人とは友達になれそうだなと思えたし、収穫はあった。次はこういう気が合いそうな人だけを集めて、「つまらなくない飲み会」を自ら作り出すこともできるのだ*1

私は誰とでも上手くやっていけるタイプではないので、他の人よりも友人関係の「ストライクゾーン」は狭いと思うのだが、それでも、環境が変わっても一応何とか毎回友人関係を構築できているのは、つまらない相手や場に出遭ってしまう可能性を厭わずに最初は色んな場に顔を出してみる、ということをしてきたからだと思う。環境が変わったとき、あるいは自分の世界を広げようとするときに味わう最初の色んな不愉快な、上手くいかない経験は、止まっているものを動かすときの静止摩擦みたいなものだ。最初動き始めるまでは余分に力も必要で、抵抗も強いが、一旦動き始めるとより軽い力でスムーズに動くようになる。要はその静止摩擦を受け入れられるかが、物を動かせるかの鍵になっているのではないだろうか。*2

この話は別に飲み会だけに当てはまるわけではなくて、例えば「つまらない学会」とは、「つまらなくない学会」へと到達するための必要な通過点であるし、「つまらないデート」とは、「つまらなくないデート」へと到達するための必要な通過点であるのだ。*3

思ったよりも長くなってしまった。つまらない飲み会で時間を浪費した上に、つまらない飲み会についてブログに書くことでさらに時間を浪費しているじゃないかというツッコミは、飲み込んで頂こう。

 

*1:ただ、つまらない飲み会が会社の飲み会などで強制参加だと、どうしようもないことになってしまう…

*2:ちなみに私は高校時代物理が一番の苦手科目だったので、この程度の理解さえも間違っている可能性を想像して震えている。

*3:「必要な」と書いたが、1回目からドンピシャの場や相手が見つかることもあると思われるので、必ずしも必要条件ではないかもしれない。しかしそういう可能性は高くないだろう。