紅茶の味噌煮込み

東京駆け出し教員日記

カタール日記 Week 1:砂漠の国の豊かな暮らし

カタールはドーハに着いて、10日が過ぎた。実感としては、まだ10日しか経っていないのか、という方が近い。もう1ヶ月くらいいるような気がする。

以前の記事では「出国前症候群」について書いた。ああいう文章は、決まって夜に、少し目を細めて心持ち斜めを向いて、感傷を掘り起こしつつ書くので、普段はあまり書かない。一方で普段は無闇矢鱈に面白がらせようと書いているきらいもあるので、その揺り戻しでこういうものが書きたくなるときもある。文体というのは難しい。「本当の自分」なるものがあるとして、それが純粋に表出している文章はここにはないのかもしれない。などと言っている自分は「本当の自分」なのかもしれない。

いずれにせよ、いくら出国前はセンチメンタルな気分になっていても、一旦現地に着いてからは頭がすっと切り替わるのが、多分自分がまだ海外でやっていけている理由の1つで、今回のドーハ生活にも大体慣れてきた感がある。

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砂漠っぽい写真。ジョージタウン大学の外観。

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ある日のランチ。移民労働者が調理を担っているからなのか、インド系の料理が多い。

そもそもドーハに何をしに来ているかというと、「フィールドワーク」である。「フィールドワーク」と鍵括弧付きで書いたのは、フィールドワークというと山に分け入り、森をかき分けて奥地の村に行き、現地の人々と2年間共同生活を送る、みたいなイメージが私の中にあるからだ。私のこれをフィールドワークと呼ぶのはおこがましいので、「なんちゃってフィールドワーク」と呼称している。英語なら例のカニさんマークを使う。

こちらには2月末まで1ヶ月半ほど滞在し、アーカイブで資料調査をしたり、政策担当者へのインタビューができればな、と思っているが、どれだけ実現するかはわからない。そもそも、私のテーマ(天然資源と国家形成の関係)だと、植民地期を扱うので、資料はほとんどイギリスにあり、湾岸の人々はほとんど文字資料を残していない。Qatar National Libraryという、それはそれは美しい建物があるのだが、そこで所蔵の一次資料について聞いてみると、まだ図書館ができたばかりで、どのような資料があるのかアーキビストも把握していないとのことだった。

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Qatar National Library

というわけで、私の研究滞在は比較的気楽なもので、アーカイブで地図や写真を入手したり、インタビューのアポ取りのメールを出したりする他は、イギリスにいる時と同じく、文献を読んだり論文を書いたりしている。それでもやはり、自分が対象としている地域に実際に足を運んで、現地の空気を吸い、生活を体験し、人と話すことには何らかの意味があるのではないかと、半ば無理矢理に今回の滞在を正当化している。

良い意味で予想外だったのは、滞在先が、研究にうってつけの環境だったことだ。ドーハでは、指導教員のつてで、ジョージタウン大学カタール校に、Visiting PhD Studentとして受け入れて頂いているのだが、この大学が素晴らしい設備を持っていて、なんと生まれて初めての個人オフィスを与えられ、また、大学の敷地内にある宿泊先のゲストハウスも、ホテルのような施設で非常に快適だ。正直、ハード面では、オックスフォードでの生活よりも水準が高いとすら言える。逆に言えば、気候が良いとはお世辞にも言えない砂漠の真ん中にある、後発の国に人材を呼び込むには、これくらい思い切った投資が必要になるということだろうか。カタールにはそれを支えられるだけの資金力があるが、それのない国は、一体どうすればよいのだろう。

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マイ・オフィス

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滞在先の大学ゲストハウスのエントランス

ともかく、今のところ、想定していたよりも遥かに快適な生活を送ることができている。少々退屈な街だというのは前評判通りだが、会う人会う人良い人ばかりだし、生活条件も申し分なく、何よりとても暖かい。現地に誰も知り合いらしい知り合いがいなかったのが気がかりだったが、同時期にケンブリッジから同じくVisiting PhD Studentとして滞在しているレバノン人の院生がいて、かなり気が合うので孤独感も特にない。とりあえず順調である。カタール生活については、また定期的に更新したい。

 

意欲的な学部生のためのアウトプット媒体―懸賞論文という選択肢

研究者の最も重要な仕事は、研究成果を論文や本の形で出版することだろう。どの学問分野にも実に様々な雑誌が存在して、各国の研究者がその研究成果を発表している。研究者志望だと言うと、よく「勉強が好きなんですね」という、恐らく悪気のない、しかしあまり良い気分にはならないコメントを頂くことがあるが、研究者という「プロ」が発表する成果は、オリジナリティがなければならず、単に勉強して調べた結果のまとめではいけないのは、言うまでもないことだ。

しかし、学部から修士、博士へと至る長い期間の中で、最初から誰もがオリジナリティのある「研究」ができるわけではない。というより、最初からできる人などいないと思った方がいいだろう。何かのテーマについて調べ、整理してまとめるという「勉強」あるいは「調べ学習」の段階から、徐々に独自の視点や分析を行う能力を獲得し、最終的にオリジナリティのある研究を行える段階へと移行していくのだと思う。かく言う自分も研究者としてはまだ半人前もいいところだ。

もちろん、早い段階からオリジナリティのある研究成果を出せた人は、それを学術誌に投稿していけばよいわけだが、まだそこまではいかないものの、何か独自の視点が光るものを書けた、あるいは学術論文とまでは言えないが、情勢分析や政策提言の良いものが書けた、という場合には、どうしたらいいのだろうか。単に先生や友達に読んでもらう、というだけでは満足できない。もっと自分の書いたものを世に広く問うてみたい。卒論を本棚の肥やしにしてしまうのはもったいない。そういう意欲を持った学部生、あるいは修士の院生などにとって、1つのオプションは、懸賞論文に応募することだと思う。

懸賞論文とは、様々な財団や公的機関、学会等が主催し、主に学生を対象として何らかのテーマに沿った論文を募集するものである。「懸賞」論文であるため、入選すると賞金や賞品がもらえることが多い。 自分の書いたものを世に問うことができて、しかも賞金までもらえる、まさに一石二鳥とはこのことだ。履歴書の「賞罰」欄に書けるという利点もあるので、三羽目の鳥も降ってくるかもしれない。私自身も、学部生の頃はよく懸賞論文に応募していた。

こうした懸賞論文は、ある程度テーマが限定されていることが多いが、その範囲の広さは賞によってまちまちだ。しかし、様々な分野で募集されているので、自分に合うものがきっと見つけられるだろう。学期末のレポートや、卒業論文など、何かどうせ書かないといけないものがあるという学部生は、もし自分のテーマに適合するようなものがあれば、それを後で懸賞論文に出すことを検討してみてはいかがだろうか。もちろん、賞のために新しく論文を書き下ろすのも良いだろう。

私の専門である国際政治の分野を中心に、以下にいくつか例を挙げてみたいと思う。以下に挙げるものは何年も続いているものだが、それ以外にもアドホックに開催されるものもある。前の「海外院生が応募できる国内研究助成リスト」のように、公開リスト化してもよいのだが、まあそれはもし要望があればということで。

佐藤栄作記念国連大学協賛財団が国際連合大学と共催している賞で、歴史も古く、2018年で第34回を迎えている。テーマは、国際社会の中での国連のあり方、といったものが多い。なぜか第34回だけ応募数が少ないが、例年競争率も高い。最優秀賞には50万円、優秀賞には20万円、佳作には5万円がそれぞれ贈られる。

  • 外交論文コンテスト

外務省が都市出版から発行している「外交」という外交専門誌が主催している論文コンテスト。今年が第7回とのこと。テーマは日本外交関連。最優秀作は誌面上に掲載されるということで、とても夢のある賞である。また、副賞として最優秀論文に5万円、優秀賞に2万円の賞金が授与される。

  • 昭和池田賞

コネクタやリモコンなどを製造しているSMKという企業が母体になっている昭和池田記念財団による論文賞。テーマは複数あって毎年変わるが、毎回「日本の針路、この考えはどうだ!」というテーマが入っていて、その下位区分で「その他」を選べるので、実質的に大体何についても書ける。副賞として、最優秀賞は50万円と奨学金、優秀賞は20万円と奨学金が与えられる、とても太っ腹な賞である。

  • その他 

全部挙げていくときりがないので、他にいくつかまとめてリンクを貼っておく。 

NRI学生小論文コンテスト

税に関する論文

日本貿易会懸賞論文

ヤンマー 学生懸賞論文

  • 最後に

こうした賞は、見返りも大きい分、競争率も高くて、出したからもらえるというものでは当然ない。なので、かける時間と天秤にかけて応募することになるわけだが、たとえ入選しなかったとしても、そこにかけた努力とその過程で得た知見は、決して無駄にはならないはずだ。 

なお、最後に注記しておくと、まず、懸賞論文に応募する際には、その賞がどのような背景を持ち、どのような団体によって、何を目的として設けられているのかを、入念に確認しておく必要がある。すべての賞が名誉になるとは限らない。

 

出国前症候群

「あと3日で日本を出発して、留学先に戻る。次に帰国して家族や友達に会うのは、半年後だ。」―そういう夜に、「それ」はやってくる。

留学先にも大事な人達はいるし、生活も楽しいけれど、帰国した時のような心からの安心感、心の内奥に張り巡らせている膜が自然と溶けていくような心地よさには、やっぱり及ばないと思う。/行ったり来たりの繰り返しで、どこにいても「仮」の生活のような気がする。/こうやって生まれ育った場所から遠く離れて、人と全然違うことをして、1人で頑張ったその先に何があるというのか。/日本に落ち着いて根を下ろした方が、結局幸せなんじゃないだろうか。/留学先に戻っても楽しいのは分かっているけど、なんだか気が進まない…

日本に一時帰国して、また留学先に戻る直前の数日間に現れる、後ろ髪を引かれるような諸々の感情―これを「出国前症候群」と呼びたい。留学や海外生活自体が辛くて辛くて仕方がない、というのとは違う。辛くはない、というかむしろ、色々あっても向こうの生活を存分に楽しんでいて、またそういう自分を誇りに思っている。だから、帰国前にも留学生活中にも、症状が出てくることはない。今回も、飛行機に乗って、向こうの空港に降り立ってしまえば、現地の生活にすっと頭が切り替わるだろうということは分かっている。でも、だからといって、なんとも思わずに去ることはできない。自分の生き方とか将来のことについて、やっぱりなんだか色々考えてしまう。―そういう複雑な思いを帰国する度に抱くのは、自分だけではないと思う。留学先に戻る直前の数日だけに現れる、だから「出国前症候群」。

例えば遠距離恋愛カップルが、久しぶりに会うとなんだかお互いぎこちなくて、思っていたのと違う、本当にこれでいいのだろうか、なんて疑問を持ってしまうことがあるように、きっとこれは自然な反応で、数日もすればまたきれいに元通り、なんていう他愛もない一時の心の「あや」みたいなものなんだろう。 

ただ、だからといって、その一時の気の迷いに真実がないのかと言ったら、そうとも限らないはずだ。「それ」を感じていない360日と、感じている5日は、単純にその日数だけで比べられるものではない。 きっと心の奥底には、ずっと「それ」が潜んでいて、年に数日だけ、ひょっこりと表面に顔を出すのだ。「それ」をなだめすかして、360日の生活を続けるのか、それとも「それ」に耳を傾けて、5日を365日にする選択をするのかは、人それぞれだと思う。

「それ」をなだめ切れなくなったとき、あるいは、「それ」に自ら歩み寄りたくなったとき、自分は日本に帰るんだと思う。そんなことを考えていた。

 

 

捕鯨、優生思想、同じ顔―腸が煮えくり返った話

「人生山あり谷あり」と言うが、生きていれば良いことも悪いこともある。そういえばこの山あり谷ありというのはどういう意味だろう。山が良いことで谷が悪いことなのか、あるいはここには出てこない、歩くのが楽な平地だけではなくて、登るのが難しい山や上がってくるのがしんどい谷もあるよという意味なのか。今ひとつはっきりしない。

いずれにせよ、言いたいのは、全体としては楽しい私の留学生活の中にも、少しは悲しいことやムカつくことがあるということだ。今日はこの1年半弱の留学生活であった、「腸が煮えくり返った」3つの出来事について書きたい。

  • エピソード①:捕鯨問題に関する「友人」のFB投稿

日本が国際捕鯨委員会IWC)を脱退し、商業捕鯨を再開するというニュースは、国内のみならず世界各地で報道され、国際的には圧倒的に批判の声、国内的には賛否両論が巻き起こった。私は捕鯨問題に関しては完全に素人なので、その内容についてここで立ち入ることはしない。

ある日何気なくFacebookを見ていると、日本のIWC脱退に関するニュースをシェアしているアメリカ人の友人(カレッジが同じ)のポストが目に入った。

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上の画像は少しわかりにくいが、The Guardian(イギリスの新聞)の記事がシェアされていて、"commercial barbarism" と書いてあるのが彼自身がそれに付したコメントである。これを見た時に私は、barbarism(野蛮)とは穏やかではないな、と思った。他の価値観を持っている人間を簡単に「野蛮」と、それも誰でも見られる形で言い捨てるのは、私には到底できることではない。ただまあ、扇情的な言葉を使う人というのはいるので、彼に対して抱いていたイメージとは異なるが、そういうこともあるのかな、という程度であった。

しかし、そのポストに付いているコメントを見て、私は凍りついた。

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1つ目のコメント「パール・ハーバー以来日本がしでかした最悪のことだ」、それにぶら下がっている投稿者のコメント「マッカーサーが必要だ」、3つ目のコメントはいいとして、最後が一番ひどい。日本政府の決定を批判するのではなく、「日本人」全体を差別的な言葉で貶める、これは明らかにヘイトスピーチである。このポストの投稿者である私の「友人」がこれに対してその後どうしたかというと、あろうことかこのコメントをlikeして肯定的なコメントを返していた(その画像は残っていない*1)。

何がショックで、また腹が立ったかというと、このポストをした彼は、日頃とてもフレンドリーな人間で、特別親しくはないにせよ、私も「良いやつ」だと思っていたからである。それにこの本人も、FBを見る限りコメントしていた人々も、アメリカの超有名校を卒業し、ある程度国際的な経験を有しているはずの人々であって、そのような人々からこのような言葉が出てくるということもまた衝撃であった。

普段にこやかに会話をしている相手が、胸の内に、自分が含まれる集団へのヘイトを抱えているというのは、考えるだに恐ろしいことである。「そんなもんだよ」と言う人もいるだろうが、そうやってニヒルに捉えることはこの瞬間の私にはできなかった。これが腸が煮えくり返ったエピソードその1である。

2つ目の事件は、昨年私のカレッジ(St. Antony's)のFacebookグループで起きた。カレッジ内にはRowing(ボート競技)のチームやサッカーチーム、そして私も一応所属しているが全然活動していないビール醸造委員会など、いくつかのサークルがあるのだが、あるとき何人かの学生がディベートソサイエティを作ろうと動いていた。説明するまでもないと思うが、ディベートは、あるテーマについて、2つのグループが対立する立場から討論を行うというものである。これ自体は思考力やパブリック・スピーキングの能力を鍛えるのに役立つし、歓迎すべき動きではあったのだが、彼らが最初のディベートのために選んだトピックが最低であった。

ある日、そのグループの主催者らしき院生が、FBのグループにポストしたのは、"This house believes eugenics is the way forward." という内容。This house believes ~ というのは、議会での討論を模した論題の書き出しで、eugenics is the way forwardというのは、「優生学が我々の進むべき道だ」というような意味であろう。

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私は、優生学/優性思想とは何かという学問的な議論は踏まえていないが、さしあたり、「生殖管理を通して『より良い』人間を生み出そうという考え」という風に理解したい。このような考え方は世界各地で見られ、ナチスの政策が最たる例として挙げられるが、日本でも、かつて存在していた強制不妊の制度の問題が昨年メディアで報道されたのが記憶に新しい。障害を持つ人々、あるいは「劣った人種」などを淘汰して、「優秀な」人間を残していこうという発想である。当然何が「より良い」人間かなど誰かに判断できるはずはないし、このような考え方は決して容認されるべきものではない。

話をディベートに戻すと、この主催者も別に自身が優生学を信じているわけではさすがになかっただろう。しかしそれを「討論」の対象として相応しいものだと思い込んだことが、彼らの決定的な間違いであり、それによって私のみならず、カレッジの多くの人々の腸が煮えくり返り、吹きこぼれた腸に引火してこのFBポストは「炎上」した。結局主催者は謝罪、イベントはキャンセルされ、その後ディベートソサイエティ自体が立ち消えになった。

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しかし、何より暗澹たる思いになったのは、少なくない数の人が、主催者を擁護するコメントを書き込んだことである。彼らの論調を要約すれば、「優生学がひどいものなのは理解していて、誰もそんなものは望んでいない。しかし、そういうものについても目を背けずに議論することが必要なのではないか。」というもので、一見それらしく聞こえる。確かに、異なる意見に対して耳を貸すのはリベラルな秩序のあり方だろう。

だが、このコメントをした人々が分かっていないのは、単に話題にすることと、賛成側と反対側を設けてディベートすることは、全く異なるということである。優生思想などというものは、そもそも賛成の余地のないはずのものであるのに、ディベートの主題になった途端、反対意見と賛成意見は同じ重みをもって扱われ、議論の余地のあるもののように見せられてしまうことになる*2。これがもし、「優生学に基づく人権侵害が起こらないようにするのはどうすればいいか」という主題でのディスカッションであったら、このような問題は起こらない。その点を深く考えず、また"eugenics"をきちんと定義せず(主催者はひょっとするとgenetic engineering(遺伝子工学)を念頭に置いていたのではないか、という指摘もされていたが、両者は別物であって、そんなこともわからないような人間にこのようなディベートを主催する資格などない)、さらに最低限これがディベートに値する問題かどうかを議論の対象とすることすらせずに*3、「優生学が我々の進むべき道だ」などという主題をぶち上げてしまう鈍感さと愚かさに、目がくらむような思いがした。そしてこれを擁護するコメントをした人々の中に、自分の「友人」も何人か含まれていたことで、一層嫌な気分になった。

  • エピソード③:「日本人も中国人もみんな同じ顔だ」と言われる 

最後は、もう少し個人的なエピソードである。去年と比べると、今年はあまり新しい友達を作る気分にならないというのは、以前の記事で少し書いたが、それでも今年新たに仲良くなった友人は何人かいる。その中にエストニア人の女性がいて、特に何のバックグラウンドが重なっているわけでもないのに気が合って、よく一緒にいたのだが、彼女とカレッジのパーティーに行った際に事件は起こった。

2人で話していると、同じカレッジの1年目のイタリア人の学生(男)が近寄ってきて、会話に加わった。彼とは私も以前に少しだけ話したことがあり、特に興味もないが害もない、言っては悪いがその他大勢の1人という程度に認識していた。適当に話をしていたが、他の友達がいて少し話したかったので、2人を置いてその場を離れた。

その後しばらくして2人は話を終えたようで、また私はそのエストニア人の友達と話し始めたのだが、彼女によると、そのイタリア人の学生が私についてどうも差別的なことを彼女に言ったらしい。何かというと、彼が彼女に、「彼(私)は中国人?」と訊ね、彼女が「違う、日本人」と答えると、それに対して、"It doesn't matter. They all look the same."(「日本人でも中国人でもどっちでもいい。みんな同じ顔してる。」)と言ったらしいのだ。

まあこれはもう清々しいほどに明快な人種差別であって、わざわざ説明するまでもないだろう。もちろん「中国人と一緒にするな」というようなそれ自体差別的な下らないことを言いたいわけではなくて、ある集団の人々を一緒くたにしてその中での差異や個性を無視して貶めるという行為を問題にしているわけである。

これも今振り返れば、レベルの低い人間がいるもんだな、という風にしか思わないが、それを聞いたときはやはり腸が煮えくり返った。直接言われていたら頭からビールをぶっかけるぐらいのことならしていたかもしれない。

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ぶっかけるならやはりギネスだろう。

あとから聞いたところによると、どうもこの男は私の友達に懸想していたらしく、何回かデートに誘ったりしていたみたいで、私がよく一緒にいることに嫉妬して逆恨みでそのような暴言を吐いたようだ。そもそも彼女は長年付き合っているパートナーがいるので、私に八つ当たりするのはお門違いも良いところだし、そもそも彼に可能性は1ミリもないわけだが…本当に下らない。

  • 腸が煮えくり返った時にどうするか

ここまで3つの腸が煮えくり返ったエピソードを長々と紹介してきたわけだが、いずれの場合でも、腸が煮えくり返った時にどのように対処するか、という問題に悩んだ。例えば1つ目のエピソードで、この投稿に対してコメントをして彼の問題点を指摘することもできただろうが、それで何か解決しただろうか?より激しい反発を引き起こし、自分も消耗させられるだけではないだろうか?しかしじゃあ何もしないでいいのだろうか?何が正解か判断するのは難しい。この件の場合は、直接コメントするのは避け、粛々と正式の手続きに則ってなすべきことをしたが、いつもそのような窓口があるとは限らない。

以前にも、オックスフォードでの人種差別に関するワークショップについて記事を書いたが、今もこうした場合について何がベストな行動なのか、という点について納得のいく答えは出ていない。

  • 最後に一首

最後に、最近読んだ歌集に今回の記事にちょうどいい短歌が載っていたので、「オチ」ということで紹介して終わりたい。

 

五臓六腑がにえくりかえってぐつぐつのわたしで一風呂あびてかえれよ ― 望月裕二郎

 

*1:その後FB社がしかるべく対応し、差別的なコメントを削除したため。

*2:少し話は違うが、Oxford Unionという、歴史ある学生自治会が、ドイツの極右政治家Alice Weidelや、トランプの顧問であったSteve Bannonを講演に呼んだ際、話す機会を提供することで彼らのヘイトに満ちた発言にcreditを与えることになると大きな反発が起きた。
https://www.theguardian.com/world/2018/nov/02/far-right-german-politician-pulls-out-of-oxford-union-event
https://www.bbc.com/news/uk-england-oxfordshire-46240655

*3:例えば死刑制度なども、ある人にとってはそもそもディベートの俎上に置くことすら許せないようなことであるだろうし、何がディベート可能なことか、というのはこれはこれで議論の対象となりうる。

新しい年を迎えて

あけましておめでとうございます。

2018年は過ぎ去り、2019という新しい年がやってきた。「2018」という数字は埃に覆われてくすんで見えるようになり、一方で「2019」という数字にはおろしたての新鮮さを感じる。などというのは今だけのことで、我々はじきに2019も使い古してくたくたにしてしまうに違いない。私が以前やってい(て続かなかっ)たブログには、こんなことが書かれていた。なーに寝ぼけたこと言ってんだべらぼうめ、という感じである。

2015年は大きな心配事もなくぬるりと過ぎ去り、早くも2016年がやってきた。2016という数字は何か近未来的な数字であるように思われる。

さて、2018年は私にとっては可もなく不可もなくといった年であった。去年のおみくじは確か凶で、不安な幕開けであったわけだが、学業も概ね順調であったし、私生活でもまあ特別悪い年ではなかったといえよう。論文も1本出版できたし、初めて海外学会での発表を経験し、Transfer of Statusも無事通過して、学部内でも少しずつ認知してもらえるようになってきたと思う。オックスフォード生活も相変わらず楽しいし、一生ものだと思えるような友人もできた。

しかしまあ、テニスやスカッシュをやっていて思うのだが、今あるものを守り切ろうとだけ思ってプレーしていると、なかなかうまくいかないものである。失点したくないという思いが先行すると、結局心体が萎縮してミスが生まれたり、ラケットを振り切れずにネットにボールを引っ掛けてしまったりするのだ。何が言いたいかというと、現状維持ではなく向上を目指さないと、という話である。6-4で勝てそうなセットであっても、6-3、6-2を目指して努力しないと、結局タイブレークにもつれ込んでしまうこともあるから。テニスを知らないとわからない話になってしまった。

というわけでまあ、私事ながら、本年の目標を簡単に書いておきたいなと思う。私事ながらと言ったが、ブログは私事を書くところなので誰に気兼ねする必要もないのである。前言撤回。

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高校テニス部の友人たちと新年恒例のテニス会をした。
  • 英語論文の出版

やはりこれが今年一番の悲願である。自分は日本語では幸い、査読論文2本とブックチャプター1本(もう1本あるのだがそちらはあまりアカデミックでないのでここではノーカウント)、書評1本を出せているのだが、英語の業績は日本語論文の英訳版1本しかなく、英語の学界ではまだ存在していないも同然である。この世界、やっぱり最終的にものを言うのは業績だと思うので、早く1本目の論文を出版したい。こういうのは静止摩擦と動摩擦の話と一緒で、最初動き出すまでが一番大変だと思うのだ。1回できてしまえば、2回目以降は「それよりは」楽になると思っている。今出したい論文が2本あって、うち1本は修士からずっと取り組んできた研究なのだが、どちらが先でもいいから、今年中に1本は最低限アクセプトまでこぎつけたいものだ。 

  • イギリスを知る

もっと自分が今住んでいる国のことを理解しなければ、と思う。オックスフォードの院生コミュニティは非常に国際的であるため、日常生活の中で「イギリス」を感じることは意外に少ない。ともすると自分がイギリスに住んでいるという事実すらも忘れそうになるほどだ。1年目は、まずオックスフォードでの生活に慣れ、軌道に乗せることが重要だったため、イギリスに深入りする余裕がなかったが、2年目になって余裕が出てきたため、そろそろ本格的に行動しないと、言っている間に卒業を迎えてしまいそうだ。

イギリスを知る、というのは具体的に言うと、テレビや新聞でイギリスのニュースにもっと積極的に触れる(今は家にテレビがない)、イギリス国内の色々な場所へ足を運ぶ、といったことになるだろう。この国の歴史、文化、そして今何が起きていて、人々は何を考えているのか、ということを知りたい。

  • 日常にメリハリをつける

博士課程あるあるだと思うのだが、私は放っておくとずっとだらだらと研究してしまう。これは全然褒められたことではなくて、「だらだらと」研究しているので、長時間、それほど高くない集中度で研究をやっており、そのためあまり効率が良くない。結果他のことをやる時間が減っていき、部屋やオフィスで過ごす時間が無駄に増えてしまうことになるのである。まあ冬のイギリスは気候が悪くてあまり外に出る気にならない、という問題点もあるのだが、それにしたって漫然と一日を過ごすのではなく、区切りをつけて何事も意識して取り組みたいものだ。そのためにポモドーロ・テクニックなどを導入することも考えたのだが、 私は根本的に自分の意志以外のものによって行動を制約されることが何よりも嫌いなので、多分これは私には向いていないのではないかと思う。

  • 研究以外の何かを深める

上と関連するのだが、研究以外に何か「自分はこれをやっている」と自信を持って言えるものを確立したいとずっと思っている。趣味という次元で良ければ、今の私にもスカッシュ、テニス、ビリヤード、小説、音楽、映画、短歌 etc. と色々あるのだが、どれもそれほど深くは掘り下げていない。浅く広くという感じである。しかし、研究だけが人生ではないし、もう1つ軸が何かあった方が、本業の研究の方も上手く回るような気がしているのだ。それに、私の師匠もそうだが、 一流の研究者と言われる人の中には、何か自分の専門以外にすごく詳しい分野があって、そこでも名を成しているという人が多いように思う。今年中にその「何か」の足がかりくらいはつけたいなと思う。 

  •  ブログは週1を目標に

思いがけず長く続けることができているこのブログだが、続けていると段々固定読者も増えてきて、久しぶりに会った人や初めて会う人に「ブログ読んでるよ」なんて言われることも増えてきた。本当にありがたいことで、とても励みになる。自分の考えていることをネット空間にさらけ出す(まあそのごく一部しか出していないわけだが)というのは最初抵抗があったが、自分は研究も含めて、「文章で生きていきたい」と考えているから、良いトレーニングにはなっていると思う。

ただ、忙しい時期など、ついつい更新が滞ることもあって、11月には無理やり月末に「記事を書くという記事を書く」という禁じ手を使ってしまったこともあった。月3記事が自分の去年の適正ペースだったわけだが、今年はもう少し頑張って週1記事くらい書ければと思う。何かここをこうした方が良いとか、こういうことについて書いてくれということがあったら、教えてください。

 

また年末に、これらの目標をどれくらい達成できたか振り返ってみたいと思う。あまり具体的でない目標も多いが。

ちなみに今年のおみくじは吉だった。安心した。